かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(16)

2024年09月13日 | 脱原発

2014年7月27日

 原子力規制委員会が川内原発1、2号機を新規制基準に適合するという審査書案を提示したことを巡って、このごろ、科学者の〈学〉とか〈知〉、つまりは全人格的な科学者の〈思想〉というものを考えていた。専門的知見を有するとされて選任された委員は、いちおう世間的には科学者として認知されている。
 その科学者たちが、自分たちで作った規制基準に適合したとしながら、「安全だともゼロリスクだとも言えない」という、混乱ぶりである。論理的に完全に破綻している。規制委員会は科学者で構成されているということが信じられないのである。
 だいぶ前に読んだ本で、科学哲学者ジェームズ・R・ブラウンが次のような一文を記していた。

 物理学者は、量子力学は基本的には間違っているかもしれないということを認める。物理学者なら誰でも、まったく予想もしなかったような実験結果が出たり、新しくて深い理論的洞察が得られたりすれば、量子力学が明日にもひっくりかえる可能性があると思っているのだ。もちろん、その新しい証拠をきちんと調べるためには時間がかかるだろうし、これほどみごとな理論をあっさり捨てるのは軽率というものだろう。しかし原理的には、量子力学もまた、天文学における天動説(地球中心説)のような道のりをたどる可能性はあるということだ。
 それとは対照的に、キリスト教徒のなかに、キリストの神性にたいする信念を捨てられる者が一人でもいるだろうか? あるいは、キリストは私たちの罪を背負って死んだという信念を捨てることができるだろうか? 神がいっさいをつくったという信念は? 物理学者と司祭との大きな違いは、あつかうテーマの違いではない。その違いは、つきつめれば次のようなことなのだ。物理学者は、現行の物理学の中核的信念をすべて捨てたうえでなお、物理学者でいることができる。司祭は、中核的信念を捨てるなら、司祭をやめるしかない。忠誠は、宗教においては徳である。しかし科学においては罪なのだ。 [1]

 この考えは、科学(物理学を科学一般と考えてよい)と宗教に関するきわめて常識的な考え方である。〈3・11〉後、福島の悲惨を目にして多くの人は原発の存在そのものに否定的な考えを示した。しかし、テレビで原発について語る原子力工学の専門家や政府関連の委員会の原子力専門委員のなかで、原発の存在を絶対的前提にしない考えを語る人物をついに見かけることはなかった。
 彼ら、原子力工学の専門家にとっては、原発はキリスト教徒におけるキリストに等しい絶対的存在らしい。たしかに、原子力工学を学んだ学生が進むべき道は原発を作るか、原発を保守するかしか進路はない。核融合炉という道もあり得るが、いずれ原発と同じ運命をたどることは明白だ。 
 ブラウンの言葉に照らせば、原発が信仰の対象のようになっていてその対象を相対的に思考できない原子力の専門家は、科学者ではないということだ。
 フクシマ以降、科学者は信用できないとか、政府御用の専門家は信用できないという言葉をいろんなところで聞いた。当然なのである。彼らは科学者ではないのだから、科学者として信用すること自体間違っていたのだ。
 科学者としての〈知〉とか〈学〉とかを期待してはならないのである。ましてや、よく言われる科学者の〈良心〉などはないのだ。なにしろブラウンの定義上、彼らは科学者ではないのだから。
 科学者に期待できないなどと言いたいわけではない。科学者ならざる原発信仰者としての原子力工学者に期待できないだけである。全人格的にすぐれた科学者はたくさんいる。
 残念なことに(当然でもあるが)、そのような科学者は政府委員会には不都合なので、権力機構の中に地位を占めることができないのだ。

[1] ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか ――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)p. 80-81。


2014年9月5日

 新任の小渕経産相が川内原発再稼働についてその地元に「丁寧に説明していきたい」と発言したことについて、説明の前に地元や国民の声を聴くべきだというスピーチがあった。
 経産相の言葉に対して私が始めに思ったのは「説明できるもんならぜひ説明してくれ」というものだ。フクシマ以降に原発を再稼働することを人倫に悖ることなく他人に説明できるのか。安全を第1とすると言うからには、原発の安全を保証することを論理実証的に(つまり科学的に)説明できるはずだ。どう考えても一人(に限らないが)の天才を必要とする「説明」なるものをぜひ聞いてみたいものだ。
 政治家の「丁寧に説明する」という言葉は、「時間をかけて力で押し通す」という意味であることを百も承知なのだが、言葉を正しい意味で受け取りたいという希望はいつもあるのだ。
 新閣僚が新聞で報道された当日(9月4日)の朝日新聞に、国語学者の金田一秀穂さんがインタビューに答えて、安倍晋三の言葉について話している。「言葉で人を説得しよう、動かそういう気がない」、「言葉が軽い」、「言葉に鈍感すぎる」、「結局、あの人は言葉の力を信じていないんですね。」
 そういうことなのだ。その安倍晋三が自分より優れている人物を閣僚に選ぶはずもないから、小渕経産相の言葉に真面目に反応するのはじつに無駄なことだ。しかし、その実体のない、虚妄に満ちた言葉を放っておけば、そのまま事態が進められてしまう。じつに困ったことに、私たち国民は、自民党の政治言語の前で引き裂かれた存在になってしまっている。
 朝日新聞の同じ欄で小林よしのりさんが、安倍政権は「思考停止の空気を利用」していると述べている。たとえ、自民党政府の政治言語がどのような論理性もなく、どのような倫理性もないとしても、その言語的混乱(無意味性)を前にして、私たちはけっして思考停止に陥ることがあってはならない、そう強く思うのだ。


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