《2016年1月8日》
先史学者で社会文化人類学者でもあるアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』は、人類の発生から現在までの進化の過程を生物学的、社会学的、文化論的に説き起こした大作であるが、そこで解明されている人類の進化は興味深く、かつ悲劇的である。ルロワ=グーランは、1964年の著書の中ですでに次のように述べている。
現在でも、適応は終っていない。進化は新しい段階、脳を外化する段階に及びはじめ、厳密に生活技術の観点からすれば、転換はすでに行われている。〔……〕時間・空間の縮小、行動リズムの増大、一酸化炭素や産業公害への不適応、放射能の浸透性などは、長いこと人間のものと思われてきた環境に、人間が生理的に適応できるかどうかという奇妙な問題を提示している。十全に進歩を利用しているのは社会だけだ、ということにならないかどうか、自問してみることもできよう。個人としての人間は、すでに時代遅れの有機体であって、小脳や喚脳、手足のように役には立つが、人類の下部構造として背景に退き、〈進化〉は人間よりも人類に興味をもっているのではなかろうか。その上このことは、人類という種と動物種の同一性を確認するに他ならない。動物種については、種の到達点だけが考察の対象になるからである。 [1]
ヒューマニズム(人間中心主義)は、完全に沈黙せざるを得ない。人間が作り出した一酸化炭素や産業公害や放射能によって、個別の人間ではなく、人類が適応可能かどうか問われている。いまや、個人の私(たち)は時代遅れの有機体に過ぎないという。つまり、一酸化炭素や産業公害、放射能へ私たちの身体的適応は絶対に追いつかないということだ。
一酸化炭素(地球温暖化)の問題も放射能(原発、原水爆)の問題も、その反人類的な本質は明らかにされているにもかかわらず、資本主義を是とする国家群は解決を拒否している。産業公害もまたインドや中国の大気汚染を見る限り、地球規模の解決の見通しは立っていない(国家権力群は解決しようともしない)。この国家権力群は、ネグリ&ハートに倣って《帝国》と呼ぶと概念的にはすっきりと納まるようだ。
人類の進化と適応が重大な危機に直面していることを、ルロワ=グーランの記述で辿っているとき、息抜きで読んだはずの詩集の中に、人類どころか地球そのものの墓碑銘が記されていた。
〈墓碑銘〉
太陽が滅び進化のはてに赤色巨星となり白色矮星と化した その億年の大昔
太陽系の惑星((地球))に人類という生物が住み
他に比類なき智能を具有し 火星を探査し月に資源を漁り
宇宙を往来するほどの科学の粋を極めたが
文明から精神を欠落して五蘊皆空を悟らず
権力者のムレが互いに国家を樹てて領土と富を諍い
そして遂に夢魔の生きものと化し
漂える宇宙の塵となった
「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている」(部分)[2]
「そして」なのか「だから」なのかは措くとして、私たちは五蘊を駆使して、原発に反対し、その国家の政策に反対し、今年初めてのデモを歩き、そのデモを終え、明日のさらなる行動へと繋げるのである。
[1] アンドレ・ルロワ=グーラン(荒木亨訳)『身ぶりと言葉』(筑摩書房、2012年) pp. 400-1。
[2] 尾花仙朔『晩鐘』(思潮社、2015年) pp. 126-7。
街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)
日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫