《2015年7月17日》
今日は、二つのデモをはしごする。一つは「安保法案ゼッタイ廃案! 7.17緊急県民集会」、もう一つはいつもの「脱原発みやぎ金曜デモ」である。ザックに括り付けるプラカードも裏表でそれぞれのデモに使えるように作った。
当然のことだが、ここずっと安全保障関連法案と呼称する戦争推進法案をめぐるニュースばかりが体の周囲に立ちこめているような具合である。法案が衆議院で強行採決されたこともあるが、それに至るまでの国会での政治家の言説、あるいはマスコミに登場する言説にたいがいの人々は、苛立っていたのではなかろうか。
少なくとも、私が政治家の言語と私(たち)の言語との隔絶にあらためて驚かされ、苛立っていたのは確かである。それは、法案が衆議院を通ったということよりも、現実の政治問題に関するコミュニケーションの可能性の欠如によるところが大なのだ。
このコミュニケーションの不可能性は、私たちの側に問題があるのか。けっしてそうではない。首相、外務相、防衛相の国会答弁が応答の態をなしていないことを考えても、政治家の知的劣化によるとしか言いようがない。
もっと正直に言ってしまえば、あのような知的劣化物を対象に自分の人生の時間を浪費するのが口惜しいのである。しかし、その知的劣化物が権力を握ってしまったがゆえに、どれもこれもきちんと対応しなければならない不幸が恨めしいのである。その辺のネトウヨの雑言(ほとんど同じレベルだが)のようには無視できないのだ。
たとえば、首相補佐官の磯崎陽輔参議院議員がツィッター上で若い女性に論破されてその女性をブロックして逃亡しただとか、安倍首相が私的なネット放送で対談相手の丸川珠代参議院議員のネトウヨ情報にあおられて民主党の辻本清美衆議院議員を中傷して陳謝したとか、程度の低いニュースが流れてくる。こんなことがあっても、とくに誰も恥ずべきことだと思っていないらしいのだ。
「恥ずかしさが哲学の出発点である」とスティグレールは語っていたが、自公政権の政治家にはきっと恥の概念は存在していないのだろう。ましてや、哲学だとか思想を求めるのは、「馬の耳に念仏」どころか「馬に念仏を唱えさせる」ほどに困難だろう。いくら私でもそんなことはとっくに諦めている。
あるいは、政権の支持率が逆転してから政権批判へと態度を翻したマスコミが増えたなどというニュースが流れる。しかし、実態は何も改善しない。普段から権力批判の視座をもって自らの論理を鍛えていないマスコミが態度を翻してみたところでどのような力が発揮できるというのか。「人は、日々自分で掘りあげた塹壕の中でしか戦えない」と断じたのは吉本隆明だっただろうか。
結局は、ニュースに惑わされることなく、自らの行いとして一人ひとりが意思表示をするしかないという単純な結論しか出てこない。私は、政治家にも政治にも向いていないのである。
そういえば、国会議事堂前の抗議の最中に二人の逮捕者が出たというニュースが流れた。一人は警察官の肩を押した(こづいた?)ことで、もう一人は警察官の胸ぐらを掴んだということだったらしい(警察発表によるマスコミ報道なので真偽は定かではないが)。
もちろん、けっして褒めることはできないが、苛立つ我が身からすればむしろ同情の気持ちが湧く。あまり批難する気分も批判する気分もないのだ。むしろ、救援体制がどうなっているのかを心配している。
どうやら私は、いつのまにかサルトルの徒ではなくフーコーの徒に近いらしい。逸脱、あるいはディオニソス的心性のなかにも人間の真実があると思っているのである。
じつは今日の朝くらいまでずっと考えていたブログのネタがあった。「反戦歌」と「レーニン」と「深夜食堂」で、三題噺ができないかとあれこれ考えていた。
何のことはない。数日前まで読んでいた塚本邦雄の『定本 夕暮の諧調』に取り上げられていた坪野哲久の反戦短歌と白井聡さんの『未完のレーニン』、それにテレビの再放送で見ていた「深夜食堂」という連続ドラマをくっつけようと思ったのだが、これはどう考えても脱原発に結びつけようがない。反戦と革命という点において、前の「戦争法案ゼッタイ廃案」のデモの流れの中の話である。「深夜食堂」は、どちらかと言えば社会の底辺に近いところで生きる都会人の現代版の人情ドラマである。深夜12時から営業する食堂で繰り広げられるドラマでは、もちろん政治も社会問題も戦争もあからさまには出てこない。新宿ゴールデン街の夜中の〈日常〉が満ちている人情話だ。
そんなドラマの1シーンにかの有名な渡辺白泉の「戦争が廊下の奧に立っていた」という俳句を重ねると、〈日常〉を襲う戦争のリアリティがいっそう深く味わえるのではないかと思ったのが、そもそもの初めである。そんなときに、塚本邦雄の本に坪野哲久が取り上げられていたのを読んだのだ。残念ながら、かつての私の抜き書きメモの中にはたった一首だけ坪野哲久の歌が記されているだけだった。
胸元に銃剣突きつけられても怯まぬかああ今のおれは怯むと思ふ
坪野哲久 [1]
こういう歌を抜き書きで残しておくのは、こういう歌を自分に突きつけておかないと臆病で愚かな私はどこまでも頽落していくのではないかという怖れがあるからである。
さて、塚本の本から坪野哲久の短歌二首を引用しておこう [2]。
きやつらは婪(むさぼ)るなきか若者の大いなる死を誰かつぐなふ
議事堂を遠目にみつつ通へれどこころ富みたる一つだになき
戦争は若者の死をむさぼるのであり、かつても今も戦争を推し進める法案を議事堂では採決している。今、その議事堂の前では、法案に抗議してSEALDsの若者たちが豊かな感性に満ちた反対運動を重ねている。そして、若者たちが動き出したことに感動している多くの大人がいる。私もその一人だ。
いま若者たちが取り組んでいるのは戦争法案反対という政治イッシュウだけだが、社会の変革への1歩を踏み出していることには違いない。そこに大きな可能性を見いだすのは、白井さんがレーニンの思想の中に指摘した「革命の現実性」そのものが見えるからではないか。この場合、もちろん〈革命〉を社会の〈変革〉に置き換えた方が誤解がないだろう。
かつてマルクス主義は、革命は歴史的必然であるとして「革命の必然性」を説いた。しかし、白井さんが指摘するレーニンは、革命は現に今ここに存在しているのだと考える。「「客観的必然性=革命」を世界そのものとみなすということである。こうして「革命の必然性」は「革命の現実性」に転化する」と白井さんは述べている [3]。それは、「必然的な未来」を私たちの現在がすでに包含しているということだ。
間違ってしまうかもしれないが、もう少し具体的にいえば、私たち老人は「子どもや孫のために戦争のない国を遺したい」と考えるが、若者は「自分たちは戦争のない現在(=未来)を生きたい」と考えている。若者たちの運動は、必然的に彼らの未来を現在の中に包含した運動、「変革の現実性」を具えているのだ。私が豊かな可能性を彼らの運動に見るのはそのためだ。
そして、彼らの未来は彼らのものなのだから、基本的には、応援しながら見守るしかできないような気もしている。少なくとも、大人ぶったりお節介をしたりして邪魔にだけはならないようにしなければならない。
[1] 現代日本文學大系95巻『現代歌集』(筑摩書房 昭和48年)p. 261。
[2] 塚本邦雄『定本 夕暮の諧調』(本阿弥書店、1988年)p. 149。
[3] 白井聡『未完のレーニン――〈力〉の思想を読む』(講談社、2007年)p. 50。
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