かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(10)

2024年07月23日 | 脱原発

2013年12月6日

 「人間が抱える不確実性と脆弱性はあらゆる政治権力の基盤である」 [1] といったのはジグムント・バウマンである。自由主義的な保守(私にはそうとしか思えない)のバウマンにしてからが社会学者としては権力の本質を見抜いているのである。
 自分の将来を考えるための情報が与えられない、自らの安全を守る手立てがない、そして外国(人)や犯罪者に安全が脅かされていると煽られる、国民をそんな状態に貶めておけば、政治権力は安泰なのである。
 そうした点から言えば、安倍自民党は権力の本質をさらけ出しているだけなのだが、近代西洋の諸外国の政治権力と違って民主主義への配慮や逡巡がないのである。たぶん、彼らが日本国憲法を理解できないのも、民主主義の本質が理解できていないからである。そして民主主義を知らないために、近代国家の多くが示すことができた知性の匂いすらしないのだ。
 常々、日本は「未完の近代」のまま現代に至ったと私は考えてはいたのだが、オモチャをねだる子供のように絶対支配権力をこれほどあからさまに欲しがるとは想像できなかった。
 いかに自民党とはいえ、日本の戦後教育を受けたのだから多少の社会性とそれにかかわる程度の知性はあるものと、愚かにも私は思っていたのである。戦後民主主義教育は、この点では失敗したのだ(右翼政治家が教育に口出ししたがるのは自らの失敗を恨んでいるためか?)。
  (中略)
 デモが終って帰宅した夜半、ネルソン・マンデラの死亡のニュースに続いて、参議院本会議における強行採決、「特別秘密保護法」の可決成立のニュースが報じられた。
 アメリカ大陸における奴隷制度、ヨーロッパ大陸におけるナチスによるユダヤ人ジェノサイド、アフリカ大陸におけるアパルトヘイトは、近代における三大「人種差別」である(と私は思っている)。「自由と平等」のために、その南アフリカ連邦のアパルトヘイトと闘い続け、勝ち取ったアフリカ大陸の巨人が亡くなった。
 同じ頃、日本ではビューロクラットの手の平で踊らされている小悪党風の政治家によって国民から「自由と平等」を奪い取ろうとする悪法が成立した。「脳味噌が江戸時代のまま」に「壮大な勘違い」によって遂行された「あの戦争」と、太平洋戦争の本質を喝破したのは与那覇潤 [2] であるが、現代の日本の政治権力は、「脳味噌が明治時代のまま」に「猥雑な思い上がり」によって「これからの戦争」に走り出そうとしている。
 しかし、マンデラのような巨人はいなくても、私たちの「自由と平等」のために闘い続ける普通の人々は日本にはたくさんいるのである。

[1] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ――グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年) p. 90。
[2] 与那覇潤『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年』 (文藝春秋、2011年)。


2013年12月13日

 ここ数日、安倍自民党政権が原発を基盤的なエネルギーと位置づけて、民主党政権の原発ゼロ政策を放棄したというニュースが流れている。原発の新規建設には触れていないらしいが、フクシマ以降、新規の原発立地に同意する自治体や住民はおそらく国内にはないだろう。
 自民党政権はそれを覚悟していて、安倍政権が原発輸出に躍起になっているのは原子力利権を外国に求めざるを得なくなったためだ。
 今読みかけている本 [1] で、樫村愛子さんは2007年に成立した第1次安倍政権を「原理主義」だと断定している。つまり、「原理主義者とは、伝統を擁護する正当性が薄れてきた現代でも、伝統を従来のように無前提に擁護しようとする人たち」で「伝統だから無前提に擁護するのだと、彼らは語るのである」として、「現在の伝統主義とは原理主義であり(すなわち安倍政権は原理主義である)、今日における必然的な病理である」と述べている。
 現在の第2次安倍政権は、現代病を病む政治家の復活だったわけである。
 世界を眺めれば、原理主義の多くがテロリズムと同等と見なされる活動を行なっていることは明瞭である。原理主義者に支配されつつある自民党は、おそらく原理主義=テロリズムの図式をよく知っていて、国民がそのことに気付く前に、国民の目くらましとして、私たちが非暴力的に行なっているデモを「テロだ」と言いだしているのではないか。
 「特別秘密保護法」というのは、「俺たちが原理主義テロリストだということを隠しておくのだ」という意図だったようにすら思えてくる。
 「特別秘密保護法」ではなく、「原理主義テロリズム監視法」が必要なのではないか。いや、原理主義者だからといってそれを監視するというのも、あきらかに反民主主義的ではある。
 監視しあう社会がろくでもないことは、歴史が十分に教えてくれている(だからこそ、日本の原理主義者は歴史修正主義者でもあるのだろうけれども)。

[1] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』(光文社、2007年)。



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