かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(14)

2024年09月03日 | 脱原発

2014年5月23日

 2014年5月21日、いいニュースが三つ続いた。

(1) 「第4次厚木基地騒音訴訟」で、横浜地裁は、午後10時から午前6時までの間、やむを得ない場合を除き自衛隊機の飛行差し止めを命じる判決を言い渡した。
(2) 沖縄県教委は、教科書共同採択地区から竹富町の分離を決定した。この決定は、八重山地区教科書採択問題で竹富町を訴える構えを見せていた文科省にその訴訟を諦めさせた。
(3) 「関西電力大飯原発3、4号機運転差し止め訴訟」において福井地裁は、「原子炉を運転してはならない」という判決を出した。

 経験的に言えば、上級審ほど当てにならなくなる。高裁、最高裁と上がるにつれて人事に体制的なバイアスがかかるからだ。ましてや最高裁は、政治の側のピックアップ人事があって、最大の体制バイアスがかかっている。しかし、裁判官といえども時の世論には一定の配慮をするだろうし、福島原発事故が起きてしまったという事実は大きいだろう。だからこそ一層、福島原発事故の実態と真実を明らかにしなければならないし、反原発・脱原発の世論を高めなければならない。それは間違いない。
 判決文そのものは、添付資料を含めて117ページに及ぶ長文である(私は「原子力資料情報室」のサイトから判決謄本のpdfファイルをダウンロードした)。
 主文はあっさりと次のように断言する。

 被告は,別紙目録1記載の各原告に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において,大飯3号機及び4号機の運転をしてはならない。(「関西電力大飯原発3、4号機運転差し止め訴訟」福井地裁判決謄本、p. 1)

 判決は、原子炉の仕組みから始まり、使用済み核燃料の保管方法の説明からその危険性の評価、耐震設計とその審査など仔細に言及する。しかし、なによりも重要なことは、原発の安全性(危険性)を考えるための最も根源的な法的基盤を「人格権」に求めている。それは「第4 当裁判所の判断」という章の「1 はじめに」で決然と述べられている。   

 個人の生命,身体,精神及び生活に関する利益は,各人の人格に本質的なものであって,その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条,25条),また人の生命を基礎とするものであるがゆえに,我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。(p. 38)

 それに続く「2 福島原発事故において」の節で述べられた次の文章に、私は一番感動した。

原子力発電所は,電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが,原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条),原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって,憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。(p. 40)

 脱原発デモで「たかが電気のために」というプラカードがあって、ネットではそれに反発する考えも散見されたが、この判決は、「たかが電気のために」という私たちのいわば感覚的主張を、憲法に基づく人格権によって確固とした法哲学、社会正義の考え方として明示しているではないか。たかが電気を作る一手段が人格権を前にして何ほどのことがあろうか、と主張しているのだ。
 このような法的な考えに基づけば、原発推進を唱える人びとがよくする主張にたいしても、「危険性を一定程度容認しないと社会の発展がさまたげられるのではないかといった葛藤が生じることはない」(p. 40)と一蹴する。
 さらに注目すべき論述が「9 被告のその余の主張について」で為されている。ここには原発問題を考えるうえで極めて重要な法哲学、社会正義の考え方が示されている、と私は考える。第9節の全文を示しておく。

9 被告のその余の主張について
 他方,被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが(第3の5),当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その譏論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼動停止によって電力供給が停止し,これに伴なって人の生命,身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。被告の主張においても,本件原発の稼動停止による不都合は電力供給の安定性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。
 また,被告は,原子力発電所の稼動がCO2(二酸化炭素)排出削滅に資するもので環境面で優れている旨主張するが(第3の6),原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって,福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである(p. 66、太字強調は小野寺による)

 名文である。文章作りが上手いかどうかよりも、書くべき内容が文章の美を決定するという典型的な例ではないだろうか。判決文という硬い文章にもかかわらず、とても美しい文章だと私は思う。正しい社会正義の品格が顕現している文章と言っていい。
 しからば、間違った悪しき考え・思想に基づく文章は悪文である、と言いたくなる。しかし、ほんとうにそうなのかどうか、私にはよく分からない。
 そのことを考える一例として、読売新聞の「大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決」と題した差し止め判決を非難する社説をあげておく。
 私は読売新聞を読むことはないのだが、東京大学の安冨歩先生のツイッターで、先生が「「大飯原発3,4号機運転差止請求事件判決」に対する読売新聞の社説の分析」と題するブログ記事を書かれていることを知って、そういう社説があることも知ったというわけだ。
 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』 [1] を著わされた安冨先生は、当然のことながら、この読売社説の欺瞞性を厳しく批判している。ブログは、出だしから快調に飛ばす。 

大島堅一教授が指摘していたが、「大飯原発運転差止請求」なのであって、「再稼働訴訟」ではない。社説のタイトルからいきなり、名を歪めている。原告は、「再稼働するな」と言っているのではなく、「そもそも運転すんな」と言っているのである。

 中身の引用は控えておきたいと思うものの、この楽しさ、心地よさにたまらず、「出だし」に呼応する「締め」の部分も引用してしまうのだ。

大島堅一立命館大学教授のツイートを引用しておく。私と違って温厚な大島氏の発言である。

大島堅一@kenichioshima
読売の社説は、阿呆が書いたと思われても仕方がない。判決文、全文読んだんだろうか。しかも「再稼働訴訟」とか書いてるし。判決では「大飯原発3,4号機運転差し止め請求事件」と書いてある。略すとしたら、「大飯原発差し止め訴訟」だろ。名称まで歪めるとは。    

[1] 安冨歩 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』 (明石書店、2012年)。


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