かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(12)

2024年08月24日 | 脱原発

2014年3月16日

 日本という国において、東北はどのような位置を占めているのか。例えば、小熊英二さんは、太平洋戦争以前の「植民地と勢力圏を中心としたアウタルキー(自給自足)経済」が敗戦によって破綻した後、国内でアウタルキー経済を目指した時代に東北が「米どころ」になった、と指摘する [1] 。文字通り、戦後の東北は旧植民地の代替機能を負わされたのである。
 あるいは、山内明美さんは、東北の置かれた歴史的状況について、天皇制における大嘗祭を取りあげて次のように述べている。

天皇の代替わりの最も重要な儀式である大嘗祭の悠紀に、はじめて東北が登場したのは、1990(平成2)年の秋田県である。それ以前には、東北が大嘗祭に伴う斎国に選定されたことはなかった。あえて天皇儀礼という観点から言ってみるならば、天皇の身体の一部へ東北が摂取され、東北が名実共に天皇の領土としての食国になったのは、20年そこそこの歴史なのである。 [2]

 つまり、太平洋戦争後、食料生産の植民地に過ぎなかった東北は、平成に入って始めて天皇制における日本国の一部になり得たということである。だから、昭和が終る頃、大阪人のサントリーの社長が「東北は熊襲の産地、文化程度も極めて低い」と発言したのは日本国(国民)のありようから考えて当然と言えば言えるのである(熊襲と蝦夷を間違える佐治恵三の低い文化程度はさておいて)。
 だとすれば、原発事故後、それをなかったことにしたい政府は、福島を日本に含めない(含めたくない)という思想をベースに動いていると想定することは容易で、しかるがゆえに、福島の人々よりも東京電力が大切だという政治行動に繋がっていると言える。
 3月17日(デモ翌日、この文を書いている日)に、朝日新聞に次の投稿句が掲載されていた。

ふくしまの棄民に積る涅槃雪
  (福島市)池田義弘(金子兜太選)

[1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)p. 315。
[2] 山内明美「〈飢餓〉をめぐる東京/東北」、同上、p. 256

 

2014年4月5日

 フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスを読みたい(というよりも、読まなければ)と思ったのは、ジュディス・バトラーの『生のあやうさ』で引用されていたためである。その本は、グアンタナモ基地に拘束されている囚人(厳密には裁判を受ける権利がないので法律上の囚人ではない。また、国際法の適用も受けないため「捕虜」でもない)や、アフガニスタンやパレスチナで殺害される人々の「生のあやうさ」を取り上げてアメリカ合衆国の国際戦略を批判しているもので、人間における倫理を問うかたちでレヴィナスを引用している。
 エマニュエル・レヴィナスの考えによれば、倫理とは生の脆さ(プレカリアスネス)に対する危惧に依存している。それは他者の脆弱な生のあり方の認知から始まる。レヴィナスは「顔」に注目し、それが生の脆さと暴力の禁止をともに伝える形象であるとする。攻撃性は非暴力の倫理では根絶できない。レヴィナスはこのことを私たちに理解させようとする。倫理的闘争にとって人間の攻撃性こそが絶えざる主題なのだ。攻撃が押さえ込もうとする恐怖と不安、これらを考察することで、レヴィナスは倫理とはまさに恐怖や不安が殺人的行為にいたらないように抑えておく闘いにほかならないと言う。レヴィナスの議論は神学的で、神を源泉とする倫理的要求をたがいに突きつける人間の対面を引きだそうとする。 [1]
 
この「顔」は何を意味するのか、なにか根源的な倫理というものをレヴィナスは論じているのではないかと思ったのだ。というわけで読み始めたものの、2冊目が終わったあたりで諦めかけていた。レヴィナスの思想は、フッサール、ハイデッガー、メルロ・ポンティと続く現象学はさておき、もう一つの根幹にユダヤ教があって、私には容易にアプローチできないのだ。
 もちろん。ことごとく理解できないというわけでもない。扱う主題によっては、私にも理解できることがある。3日間の強制読書期間中には、次のような一文にも出会うのである。

悪しき平和といえども、もちろん、善き戦争よりも善きものではある!ただし、それは抽象的な平和であって、国家の諸権力のうちに、力によって法への服従を確たるものたらしめるような政治のうちに安定を探ろうとする。かくして、正義は政治に、その策略と計略に訴えることになる。(……)そして場合によっては、全体主義国家のなかで、人間は抑圧され、人間の諸権利は愚弄され、人間の諸権利への最終的な回帰は期限なしで延期されてしまうのである。 [2]

 まるで、日本の現状そのままではないか。「日本人は平和ボケしている」と力説するナショナリストたちは、中国や韓国、北朝鮮の脅威を声高に吹聴しながら、それらの国々を挑発することに余念がないし、彼らをあからさまな別働隊とする政府・自民党といえば、対外的には「集団的自衛権」を行使できるように、国内的には「秘密保護法」によって反戦活動を押さえ込もうと「策略と計略に訴え」て、戦争準備に勤しんでいるような「悪しき平和」に日本はある。
 そんな平和であってもいかなる「正義の戦争」よりも正しい「善きもの」だ、という私たちの声を圧殺して、このまま進めば日本は「全体主義国家のなかで、人間は抑圧され、人間の諸権利は愚弄され、人間の諸権利への最終的な回帰は期限なしで延期されてしまう」ようになりかねないのである。
 レヴィナスは、平和の実現を国家論や政治論という形ではなく、人間の倫理の問題として語り進めるのだ。

しかも、平和は単なる非-攻撃性ではなく、こう言ってよければ、それ固有の肯定性・積極性をそなえた平和である。そこにはらまれた善良さの観念はまさに、愛から生じた没-利害を示唆している。それゆえに初めて、唯一者ならびに絶対的に他なる者はその意味を、愛される者ならびに自己自身のなかで表現できるのだ。 [3]

 レヴィナスの語り口は、しだいに神学的になってくる。このあたりからレヴィナスをレヴィナスとして理解すべき領域が始まる(らしい)。上述のように進んできた理路は、まことにレヴィナスらしい次のような文章で受け止められるのだ。そして、私の脳は茫漠としだすというわけだ。

《無-関心-ならざること》、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異――《無-差異-ならざること》――、そこでは、他なるもの――それも絶対的に他なるもの——、こう言ってよければ、「同じ類」――自我はそこからすでに解き放たれた――に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものが私を見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において 、他なるものは私を「見つめる」、それは顔なのである。 [4]

 「それは顔なのである」と言われても納得できているわけではない。ここでも「顔」とはなにか、と同じ問いを発するしかない。ぼんやりとは理解できているように感じ、でもやはり分かってはいないと思い直すのだ。
 「顔」について言及した文章には次のようなものもある。

顔は意味を有している。それも、諸関係によってではなく、自分自身を起点として。そしてそれこそが表出なのだ。顔、それは存在者が存在者として呈示され、存在者が人格として呈示されることである。顔は存在者をあらわにするのでも、存在者を覆い隠すのでもない。数々の形式の特徴たる暴露と隠蔽を超えて、顔は表出であり、一個の実体、一個の物自体、自体的(カト・ハウト)な物の実在なのである。 [5]

私を見つめる顔は私を肯定する。顔と顔を突き合わせている以上、私もまた同様に他者を否定することはできない。逆に、本体としての他者の威光のみが対面を可能にするのだ。このように対面は、否定することの不可能性であり、否定の否定である。具体的には、かかる表現の二重構造は次のことを意味している。つまり、「汝、殺すなかれ」が顔に刻み込まれ、それが顔の他者性をなしているのである。それゆえ発語は、相互に制限し合ったり相互に否定し合ったりする自由ではなく、相互に肯定し合う自由同士の関係なのだ。自由は自由に対して超越的である。 [6]

 仏教の本地垂迹説に「垂迹」とか「権現」という考えがある。仏や菩薩が衆生を救うため、日本の神に姿を変えて顕われることである。全ての人間のことを顕わしながらただ「一者」の顔として顕現してくるもの、それがレヴィナスの「顔」ではないか、そう思ったとき「権現」という言葉を思い出した。そして、「顔」の先に(あるいは見えざるものとしてであっても)神が登場してくるのではないかと期待したのだが、どこまでも「顔」なのである。私が想像するようには、レヴィナスは簡単にはいかないのである。ユダヤ教を根幹とする哲学を語っても、ユダヤ教信者として語っているわけではない(らしい)。

[1] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ ――哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007年)p. 13。
[2] エマニュエル・レヴィナス「人間の諸権利と他者の諸権利」(合田正人訳)『外の主体』(みすず書房、1997年) p. 201。
[3] 同上、p. 202-3。
[4] 同上、p. 203-4。
[5] エマニュエル・レヴィナス「自由と命令」(合田正人編訳)『レヴィナス・コレクション』(ちくま学芸文庫、1999年) p. 378。
[6]エマニュエル・レヴィナス「自我と全体性」同上、 p. 427。


街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。