放射能塗(まみ)れの土に父埋める
(いわき市)馬目空 (2011/9/11 金子兜太選)
夏草や一村去りし被爆の地
(東京都)橋本栄子 (20011/9/26 金子兜太選)
原発事故後5,6ヶ月ころの「福島」である。朝日歌壇・俳壇からの書き抜きから俳句を選んでみた。一般的な言い方をすれば、俳句という表現形式では社会事象を踏み込んで詠むのは難しいのではないかと思っていたのだが、むしろ短詩型であることで事象の切り取り方がいっそう厳しくなるようだ。逡巡が許されないなのだ。
福島のそのような現実は、それから2年経た現在もなにも変わっていない。
《2013年10月27日》
原発事故から半年経ったころに、次のような「朝日歌壇」に投稿された短歌である。とても惹かれた歌だ。
目に見えぬ放射能ありひたひたと黒揚羽飛ぶ生の輪郭
(熊谷市)内野修 (2011/7/18 高野公彦選)
舞い飛ぶクロアゲハの美しさを「生の輪郭」という言葉に籠めた短歌だが、その美しい姿形は、その輪郭の内部に被爆によって損傷した命を抱いている。現在の蝶の輪郭がいかに美しくても、傷ついた遺伝子を内包した命は、健康な種を伝えることができない恐怖に震えている。
「命」は自らを生きる命ばかりでなく、子どもたちに伝え継ぐべき種としての命をも生きている。だが、今や、残されているのはこの瞬間を飛ぶ「輪郭」の命だけかもしれないのだ。
「生の輪郭」の短歌を引用したブログをアップしてから、若い時分に読んだ詩集の読み直しをしていたら、次のような詩を見つけた。かなりニュアンスがちがうが、これも「生の輪郭」である。
ぼくの通らなかった道はなかったし
道が傾いているらしいとおもえば
道はかならず傾いていたし
傾いているらしいとおもっただけだとおもえば
道はかならず水平に身をもちなおした。
ぼくの落ちない井戸はなかったし
ぼくの跳ばない崖はなかった。
笹の根は常にぼくの足をとり
太陽は常に中空にとどまって
ぼくの背中をしっかり焼いた。
考えてみると
そうだ
ぼくはぼくの輪廓だけは残らず生きていたのだ。
安永稔和「やってくる者」部分 [1]
私たちは、道を歩くこと、井戸に落ちること、草に足を取られて転ぶこと、崖から転げること、夏休みに真っ黒に日焼けすること、こんな幼年の様々な経験で、私たちの存在の輪郭を形作ってきた。そして、まちがいなく「私の輪郭」を作る一つ一つの素材を「残らず生きていたのだ」。
それなのに今、大人になって私たちは……。ここから「輪郭の内側」が問い直されることになり、大人たちは悔いや悲しみや絶望や諦めに立ち向おうとするのか、あるいは、その前に立ちすくむだけなのか。いや、だからこそ逆に、大人たちはきちんと残らず生きた少年期の「ぼくの輪郭」を懐かしんでいるだけなのか。
人間として生きるということは、今を生きる命としてだけでも、なかなかに難しい。シベリヤ抑留から生還した詩人、石原吉郎の精神を読み解こうとした勢古浩爾は、その著書『石原吉郎』の中で、「存在」と「存在性」という概念をこう述べている。
「存在」とは存在そのもの(在ること)のことであり、「存在性」とは存在のしかた(在りかた)のことである。それぞれを、存在の事実と存在の意味といいかえてもいい。前者は肉体であるが、後者は箸の揚げおろしから、ひととの関係のしかた、考えかたの一切を意味する。
勢古浩爾『石原吉郎』 [2]
つまり、「存在性」は「生の輪郭」と考えていい。崖を飛ぶことや遊びほうけた夏休みを通して張り付けられた輪郭(=存在性)、重労働25年という判決と8年のシベリヤ拘留中の様々な困難がもたらした輪郭(=存在性)。
輪郭を形成するそれぞれの経験素材の意味や価値に軽重はないと考えるべきだろう。しかし、人は(おそらく)それぞれに軽重を仮託することで「存在」を守ろうとするだろうし、今を生きる意味、未来へ歩き出す意味を見い出そうとするのだろう。
黒揚羽の「生の輪郭」から、連想ゲームのように本を辿ってしまった。この連想ゲームは枝分かれしてまだまだ続く。
『石原吉郎』の中で著者は、シベリヤ抑留体験を「シベリヤシリーズ」として描いた画家、香月泰男を取りあげている。それを読んだ私は、香月泰男の絵に対して「私の知るシベリアはこれではない」と言って自らのシベリア体験を描いた画家、久永強のことを考えるのだ。
画家としての香月泰男と久永強の異なったシベリヤ、それに石原吉郎のシベリヤも含めたそれぞれの「シベリヤ体験」、それぞれの「生の輪郭」。これに興味が湧かないわけがない。こうしてわたしは、香月泰男の画集をネット検索で探すことから次の連想ゲームを始めるのだ。
こんなことをしながら、私は私の「生の輪郭」(存在性)に何か1枚貼り足すことができるのだろうか。
[1] 『安永稔和詩集(現代詩文庫21)』(思潮社、1969年) p. 96。
[2] 勢古浩爾『石原吉郎--寂滅の人』(言視舎、2013年) p. 22-3。
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