《2015年9月4日》
夢を見た。しだいに不愉快になり、憤りのような感情が湧きあがって、そして目が覚めた。
こんな夢だ。瀬戸内寂聴さんの写真の横に若い男性(たぶん、SEALDsの奥田さん)の写真が並んでいる。お二人は対談したらしいのだ。そこで、その内容を知ろうと探し始める(おそらくネットで)のだが、何も見つからない。
安保法案のことや闘いのことだろうと予想はつくが、何も見つからない。また、二人の写真の場面から始まって、情報検索、何も見つからない、そんなふうに同じ夢を繰り返す。
何度かの繰り返しの後に、「いったい俺は何をしてるんだ」と目覚めて(夢の中で)、それからどんどん腹が立ってきて、何か声を上げた瞬間に目覚めた(今度は、ほんとうに)。
目覚めて、考えた。この夢には少なくとも二つの問題がある。
反自公政権という立場からは、お二人の言動はたいへん注目されている。とりわけSNSで取り上げられることがきわめて多い。それはそれでたいへん素晴らしいことだと思うし、私もまたお二人を尊敬している。
ただ、私は自分の中にヒーローを作ってはいけないとずっと考えてきた。だから、どこか心弱くなって、お二人のことを頼りにしているのではないかと夢の中で心配したのだと思う。 ヒーローを待望するようになると、人は自分でものを考えなくなる。泣くにせよ、笑うにせよ、闘うにせよ、逃げるにせよ、自分の精神だけを頼りにしたいのだ。
自らの精神の活動を閉ざしてしまうのは、自分の力だけで考えることを放棄するためだ。私をつまらない場所に閉じ込めるのは、他ならない私自身の心と肉体なのだ。
ぼくたちを閉じこめている格子は
鉄でもなければ、木でもなく
なまの筋肉で出来ている、
この動く格子のなかから
ぼくはどうしても逃れることができない。
鮎川信夫「夜の終わり」より [1]
もう一つ気になったのは、なぜ何度もお二人の対談内容を探し出そうとしたのかということである。あの執拗さは、どうも単なる知的興味だけとは思えない。何かに役立つと思っていたに違いない。
たとえば、それをブログネタにしようと考えたというなら最悪である。自発的な行動、行為、経験の後にブログを書くのであって、ブログのために何かの行為が求められるのは私にとっては本末転倒である。ブログを書くために何かをやるくらいなら、ブログなんてやらない。
いずれにせよ、そんな夢を見る自分に腹を立てているのである。
寝覚めの悪い1日が始まり、それでも夕べともなれば金デモに出かけるのである(気晴らしに、ということではない、けっして)。
[1] 『鮎川信夫全詩集 1945~1965』(荒地出版社、1965年) p. 86。
《2015年9月27日》
9月19日未明に参議院で戦争法案が強行採決されるまで、脱原発金デモに加えて、仙台ばかりでなく東京にも出かけて法案反対のデモや抗議行動に加わった。
東京のホテルで強行採決のニュースを聞いて、ふっと「この辺で息継ぎをしないと」と思ったのだった。終わりの始まりというより、国会前に集まった無数の人びとを見ていると、何かが始まったように思えた。みんなと一緒に始める前に、深く息継ぎをしておく必要があると思ったのである。
なのに、息継ぎどころか、熱を出して寝込んでしまった。いや、一仕事終えると熱を出して寝込むことが現職のときの習いのようだった私にとって、これが息継ぎなのかもしれない。
寝込んでいるあいだ、アーレントの『過去と未来の間』という本を読んだ。国会前に出かけるときもザックに放り込んで読み継いでいたのだが、読み残しているところも読み返さなければならないところもたくさんあった。収められている8編の論考は、プラトンから現代までの政治哲学を縦横に駆使しているので、熱っぽい頭にはなかなか手に負えないのである。
人間の自然に対する態度を「制作」と「行為」から考察した後に、アーレントはこう書いている。
人間の行為とは人間を起点とする諸過程を伴うものであるが、こうした人間の行為はわれわれの時代を迎えるまで、人間の世界のうちにとどまり、また、人間が自然に抱く主要な関心は、自然を制作の素材として用い、それをもって人工のものを建設し、この人工のものを自然のエレメントの圧倒的な諸力から守ることに尽きていた。ところが、人間自身の手になる自然過程を開始させた――核分裂はまさに人間が作る一つの自然過程にほかならない――とき、われわれは、自然に対する自らの力を増大させ、地球に与えられた諸力を扱ううえでいっそう攻撃的になっただけではない。われわれはその瞬間に、自然を初めて人間の世界そのもののなかに導き入れ、これまでのあらゆる文明を拘束してきた自然のエレメントと人工のものの間にある防衛戦を取り除いてしまったのである。
先に言及した人間の行為の諸特徴が人間の条件の核心をなすと考えれば、自然のなかへと介入する行為がいかに危険であるかは明々白々である.予言不可能性は見通しの欠如ではない。人間の事例をいかに工学的に操作しようと、この予言不可能性をけっして除き去ることはけっしてできない。それはちょうど、いかに実践的な思慮(プルーデンス)を訓練しても、為すべき事柄を知りうる知恵(ウィズダム)に達しえないのと同じである。予言不可能性をうまく処理する望みが出てくるとしたら、それは、行為を全面的に条件づける場合、すなわち行為を全面的に廃棄する場合だけだろう。 [1]
これは1958年に発表された論文の一節である。政府や東京電力が言う「想定外」などという話ではない。核分裂という自然過程を人間の行為として始めることで人間社会に持ち込んだ予言不可能性を処理する方法は、その行為を廃棄するしかないと断言しているのである。
原発のどこそこが危険で、どれどれは安全、などという細々した話ではない。ギリシャ哲学から現代思想まで動員して考え抜いた「人間の行為の諸特徴」から、原発を廃棄するしかないのだ、というのがアーレントの結論だ。
そのアーレントの言葉を抱えて、今日も脱原発デモに出かける。まだ熱っぽいのだが、寝ていることに十二分に飽き飽きしていた。
[1] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間』(みすず書房、1994年) pp. 78-79。
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