《2014年4月11日》
デモから帰ってきたら『週間金曜日』4/11号が届いていて、辺見庸さんと佐高信さんの対談が掲載されていた。「戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ」というタイトルで、(上)とあるので続きもあるらしい。
辺見庸さんの言葉はいつものように厳しい。政治的な情況を語る対談だが、なかに反原発運動に触れた箇所があった。
もうひとつの、サブスタンスとロールという問題でいえば、ぼくはどうしたって物書く人間なものですから、集会でね、日比谷の野音かどこかでね、白いテーブルクロスしたところにみんな偉そうに座ってね、あれすごく嫌いなんですよ。
(……)
何十年も原発をほったらかしてきたくせに、今頃偉そうな顔して言うかって思うわけです。そういうときに、ロールではなくて、人としてのサブスタンスが問われてくるんだと。 (p. 20)
辺見さんの言葉は、ジャーナリストや知識人へ批判の流れの中で語られているのだが、当然のように、それは私にも突き刺さってきた。
大学、大学院修士課程まで「原子力工学」を学んでいた私は、当時、反原発という動きの中にもいた。それも理由の一部として原子核工学科を追い出された私は、拾ってもらった物理系の研究室で「ほっと」して物理学者への道を選んだ。
「ほっと」したというのは、就職ができたということもあったが、もう原子力工学をやらなくてもいいという気分が大きかった。それを裏返せば、原発-反原発という構図の現場にもう居なくていいんだという気分があったのだと思う。もう少し突き詰めて言えば、反原発を担う責任のようなものも軽くなったと思っていたのではないかと、今になればそう思うのである。
辺見さんが言うように、それはロール(役割)としての生き方だったということである。20歳ちょっとの時の反原発はロールとして演じられ、私の存在のサブスタンス(実質)にはなっていなかった、ということだ。
東電福島第1原発の事故のニュースを聞いたとき、当然のように愕然としたのだが、それは拡大し続けるであろう被害や回復不能な放射能汚染を想像できる知識が私にはあったということでもある。だから、原発が危険であることを専門的知識として学んだ人間が、「何十年も原発をほったらかしてきたくせに」、いまさら事故に愕然としている。そういう自分に重ねて落胆したのだった。
そのような気分のなかで思ったのは、「それ見ろ、原発は危険だと私が言ったではないか」みたいなことを突然語り出す知識人や政治家や活動家がうじゃうじゃ出て来るだろうということだった。そして、原子力を学んだ私自身こそがそんな薄汚い言動をやりそうではないかと、それをとても怖れた。事故後、一年くらいは友人、知人にもあまり原発事故の話はしなかった。まして、机を並べて原子力工学を学んだ大学時代の友人と連絡を取り合うこともなかった(たぶん、立場は違うにしても友人たちも避けていたのだろうと思う)。
原発事故後はしばらくしょぼくれて、ある意味では行動不能に陥っていたが、今さらとはいえ、原発は止めなければならないとはもちろん思いつづけていた。ちょうどその頃、「脱原発みやぎ金曜デモ」が組織され、始まったのだった。せめて、デモの後をついて歩くことぐらいはやろうと考えたのだった。
しかし、原発、原子力、あるいは原子核物理であれ、私が専門として学んだことを人前で話すなどという気分にはとうていなれない。そういうロールを担うということにまだ抵抗があった。2,3度ほど頼まれた集会でのスピーチも断った。突然振られて断り切れなかったときには、原発の話はしなかった。
辺見さんは、次のようにも語っている。
田原総一郎をはじめとするいわゆるジャーナリスト、拡大していえば大江健三郎みたいな人も含めた「良心的な知識人」たちが、いや、だれより私自身なのですが、いま、自分で匕首(あいくち)を自分の喉もとにつきつけて話すくらいの覚悟は要ると思います。 (p. 19)
そう出来ればと思うものの、かなり難しい。私などは、自分に突きつける匕首を探すことから始めなければならない。その次にはきっと匕首を研がなければ意味をなさないだろう。
辺見さんの原発事故に触れた箇所だけを取り上げたが、佐高さんとの対談は日本の政治・社会状況全体についてなされていて、それについての辺見さんの決定的な一言。
とことん、やるのか、死ぬ気でやるのか。そこまで追い詰められているはずですよ、いまの情況は。 (p. 21)
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