かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(7)

2024年08月21日 | 脱原発

2014912

 学生、院生の頃、私は原子力工学を勉強していた。その後、原子力工学を捨てて物理学に移ったのだが、所属した物理の研究室は、何の因果か「放射線金属物理学講座」だった。
 「第一種放射線取扱主任者」の国家資格も持っていて、一時期は職場の放射線取扱主任者として安全管理業務に携わったこともある。放射線作業従事者の被爆防護に神経を使ったことなど、フクシマ原発事故の放射能汚染や被爆と比べれば、笑ってしまうほど瑣末なことに過ぎないものになってしまった。フクシマの現状から言えば、私たちの職場の放射線作業従事者は現在の一般人よりはるかに安全な作業をしていたことになる。
 放射線作業を行なう職場においては、法によって「放射線取扱主任者」が安全管理を行なうことが義務づけられているうえ、作業従事者(教官も学生も)は放射線取り扱いについて一定の教育訓練を受けなければならない。しかも、一年を超えない期間に再教育を行なうことすら定められている。
 しかるに、福島では「福島エートス」と称して、住民一人ひとりに放射線被曝を管理させようとしている。住民を避難させることなく、「住民が主体となって地域に密着した生活と環境を回復させていく実用的放射線防護文化の構築を目指す」という屁理屈で、被害者である住民の「自己責任論」的なごまかしを行なおうとしている偽善団体があるのだ。
 大量殺人者がそこにいるのに、「自己責任で殺されないようにしましょう」と主張するばかりで、殺人鬼の存在は放置したままのような欺瞞なのである。
 欺瞞と言えば、とうとう910日に原子力規制委員会は川内原発1、2号機が新規制基準を満たすと正式に決めた。もともと政府の雇われ委員会なのだから、学識者の良心など期待すべくもない。残念ながら、予想通りと言うしかない。
 あるマスコミが、規制委員会の決定を発表する田中俊一委員長の表情がこわばっていたと評していたが、それは当然だろう。私よりも一年早く東北大学工学部原子核工学科で原子力工学を学び、日本原子力研究所で研究者、学者として積み上げてきたキャリアはそのままでも、学者としてのアイデンティティを断念した瞬間なのだと、私は思う。
 7月に審査書案を提示した時には、で「安全だということは、私は申し上げません」とか「ゼロリスクだとは申し上げられない」と発言することで、かろうじて学者のアイデンティティを繫ぎ止めていたように思う。
 どんなに腐っても、人間の工学的技術で作った「工作物」が決して壊れないなどと考える工学者はいない。壊れた原発がフクシマという悲惨を生み出した事実を知らない日本人もいない。東電福島第一原発の故吉田昌郎所長が「われわれのイメージは東日本壊滅。本当に死んだと思った」と語ったということは当然だ。壊れた原発がどのような結果をもたらすか想像できない原子力工学者はいないはずだ。
 しかし、自民党政府が規制委員会の決定をもって安全だとすると主張していることは誰でも知っている。そのような情況での規制委員会の決定は、原子力工学者のアイデンティティを放棄することでしか可能ではない。自民党政府の評価は高くなるだろうが、学者、研究者としては無惨である。
 将来、すべての原発事故の責任は田中委員長をはじめとする委員会の全面的責任として問われることになる。そのような簡単な政治的トリックに易々と捕捉される学者の見識は憐れと言うしかないが、同情はしない。
 私たちは、憐れな学者たちのエセ政治的判断の犠牲にはならない。なりたくない。それが、私たちのデモである。

 
街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。