かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(20)

2024年10月05日 | 脱原発

2015年2月22日

 金曜日のデモは休みで、2日遅れての月1回の日曜昼デモである。いつもより早めに昼食を作って家を出たのだが、嫌なニュースが続いて気分は良くない。
 沖縄では辺野古の基地反対の運動が続いているが、その弾圧に米軍が出てきた。米軍シュワブゲート前で抗議行動を行なっていた沖縄平和運動センターの山城博治議長ら二人が、基地の警備員によって拘束されたというのである。二人は名護署に身柄が移されたが、3000人近い人々によって不当拘束への抗議が続いている(東京新聞)。 
 この事件は、基地反対運動に対する自公政府による弾圧に加えて、日本に駐留するアメリカ軍も弾圧の前面に現れたということを意味している。
 報道では沖縄県警名護署も勾留理由はよく分らないのだという。米軍に身柄を引き渡されたので、引き続き拘留しているという。つまり、米軍は日本の法律によらず二人を拘留したということで、アメリカ駐留軍は日本の法律を越えて行動していることを意味している。
 もう一つの反吐が出るようなニュースは、「防衛省が、内部部局(内局)の背広組(文官)が制服組自衛官より優位を保つと解釈される同省設置法一二条を改正する方針を固めた」(東京新聞)ということだ。
 いわゆる、「文民統制」によって軍部の暴走を防ぐというのは、太平洋戦争の悲惨な敗北から学んで築いた重要な制度であるが、それを放棄しようというのである。安倍自公政権らしく戦前の軍事国家をめざすらしいのだ。
 この二つのニュースは、日本の現状の本質を顕わに示してはいないか。沖縄では、アメリカのために基地を作ろうと自公政権は警察権力(暴力装置)を駆使している。反対運動が強く、業を煮やしたアメリカ軍は直接弾圧の手を下すようになる。
 しかし、米軍の直接暴力は植民地支配への反発が強まるので得策ではない。そこで、アメリカの走狗である自公政権(官僚)は軍事国家化を図り、いずれ警察に代わって日本の軍(自衛隊)独自の判断で国民弾圧の前面に出られるように策動しているのではないか。アメリカの意のままに政策を動かす日本人が政権中枢に居座っているのである。それこそ真性の「反日」ではないかと腸が煮えくりかえるのだ。
 思えば、長く自民党政権が続いた日本は不幸な国である。ドイツやフィリピンは第二次大戦後の植民地的な占領支配をすでに脱したというのに、独立国家を装っているものの日本はいまだ戦後の占領支配のシステムのままである。「戦後レジームからの脱却」などと安倍晋三は語るが、それは単に戦前のような軍事国家に戻ることしか意味していない。
 日米安保を通じたアメリカの支配を脱して、アメリカによって大幅に制限されている日本の主権を回復して真の独立国家になることがほんとうの意味で「戦後レジームからの脱却」を意味するはずだ。集団的自衛権などという幻想で、アメリカが世界で繰り広げる侵略戦争に国民を送り込みたい安倍晋三には、到底理解できないことだろうが……
 脱原発デモは、当然ながら、原発推進を強引に進めようとする安倍自公政権に対する反対運動に連動する。脱原発というシングル・イシュウの運動でも、その含意するところは本質的なのである。



2015年2月27日


 少し古いニュースになってしまったが、2月18日の東京新聞の電子版に原子力規制委員会の田中委員長の次のような記事があった。

     「地元も安全神話卒業を」 原子力規制委の田中委員長

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は18日の記者会見で「(原子力施設が立地する)地元は絶対安全、安全神話を信じたい意識があったが、そういうものは卒業しないといけない」と述べた。
 田中氏は九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)と関西電力高浜3、4号機(福井県)が新規制基準に基づく規制委の審査に合格した際「運転に当たり求めてきたレベルの安全性を確認した」「絶対安全とは言わない」と繰り返し説明していた。東京電力福島第1原発事故を受け、電力業界だけでなく地元も意識改革が 必要との考えを示した形だ。(共同)

 この記事を読んで、少しびっくりした。原発立地の地元に「安全神話から卒業しろ」と主張しているのである。安全は神話に過ぎないと言い続けてきたのは、反原発、脱原発を主張してきた人々である。一方、「原発は安全だ」という神話を必死になって作ってきたのは自民党政府(と、その走狗の読売新聞)と電力会社であり、それに職業を賭けて全面的に協力してきた田中委員長のような原子力学者ではなかったのか。
 「安全神話」で地元住民を騙してきた人間はいったい誰だったというのか。この鉄面皮、無責任ぶりをなんて評していいのか分からない。
 奇妙な気分だが、「(原子力施設が立地する)地元は絶対安全、安全神話を信じたい意識があったが、そういうものは卒業しないといけない」という文言自体は、しごくもっともで、私たちが「原発は安全ではない」と主張してきたこととほとんど同じである。
 その同じ文言が、高浜原発が再稼働に必要な安全対策の基準を満たしているとする「審査書案」を規制委員会が了承した17日の翌日に当の機制委員長から発せられたのである。
 この事実はとても重要だ。福井の人たちに「高浜原発の再稼働を認めるが、原発は安全ではないから、地元の人間は覚悟しなさい」と原子力規制委員長が宣言したに等しい。もちろん、原発が安全でないということは正しい。その原発を再稼働する自民党政府へ職責を賭けて協力している原子力規制委員長がそう語っているのである。人間の論理的行動(そして、行動倫理)としては破綻しているが、言わないよりマシだとしておこう。


街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。