かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(18)

2024年09月25日 | 脱原発

2014年11月21日

 選挙の話はいつでも楽しくないのだが、沖縄知事選は久しぶりに良いニュースだった。自民党(の一部)から共産党まで辺野古基地反対のオール沖縄が、自民党の現職知事を大差で破った。勝ったことよりも、オール沖縄という布陣ができたということの意味が大きい。それぞれの政党、団体が狭隘な党派性を乗り越えられたという意味は大きい。

 沖縄からはさらに良いニュースが届いた。22日の沖縄タイムスの記事である。

国政野党の社民党県連、共産党県委員会、生活の党県連は、知事選で辺野古反対の翁長雄志次期知事を誕生させた県政野党や那覇市議会保守系の新風会などによる「建白書」勢力の枠組みを衆院選でも維持。1区で共産が赤嶺政賢氏(66)、2区で社民が照屋寛徳氏(69)、3区で生活が玉城デニー氏(55)の前職3氏を擁立し、4区は新人・無所属で元県議会議長の仲里利信氏(77)を擁立する方針。 

 沖縄全ての選挙区で知事選のオール沖縄の枠組みで選挙協力が実現するというのだ。このような政治におけるきわめて現実的な決断は、沖縄の苦難の歴史なしには実現できなかっただろう。苦しみと悲しみが沖縄の人びとを鍛えたに違いないのだ。
 それに比べ、わがヤマトンチュウはどうだろう。沖縄を犠牲にしてノホホンと生きてきて、「よりましな政権のために選挙協力を」と「信頼できない政党と組む野合は間違っている」という争いの真っ最中なのである。
 うんざりするが、諦めてはいられない。今日のFBでも、次のようなやりとりがあって、私は元気づけられるのである。

Hiroshi Matsuura いいですね、肝に銘じたいです。否定的なことを言わない。不屈のオプティミストであるべきですよね。
小野寺 秀也 Matsuuraさん 「不屈のオプティミスト」、いいですね。使わせてもらっていいですか。「不屈のオポチュニスト」にならないように気をつけますので……
Hiroshi Matsuura もちろんです。しかし、「不屈のオポチュニスト」って面白い表現ですね。断固として「長いものに巻かれる」「勝ち馬に乗る」…… 考えて見ると、日本人のメンタリティーそのものですね。


2014年12月21日

 しばらくぶりで本屋に出かけた。そこでまだ読んでいなかったアガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』 [1] を見付けた。ついでに仙台市民図書館に寄って、1ヶ月ほど前に読んだスティグレールの『象徴の貧困』 [2] をもう一度借り出した。そのときアルチュセールの『マルクスのために』 [3] という本を見付けた。この本は、昔、『甦るマルクス』というタイトルで出版されていたものの再刊だというが、何十年ぶりかで読んでみようと思い立ってこれも借りてきた。家に帰って、スティグレールの本に関連するだろうと、納戸を掻き回してボードリヤールの『象徴交換と死』 [4] を探し出した。
 アガンベンの本は、アウシュヴィッツに収容された人びとの「証言」を取り上げて、歴史的な極限状況について言葉による証言の可能性(不可能性)を論じたものだが、そこに「der Muselmann」と呼ばれる収容者についての証言が紹介されている。
 ムーゼルマンは直訳すれば「回教徒」という意味だが、一般のモスレムではけっしてない。人間としての心を失い、飢えと病気で死に絶えんばかりの肉体がモスレムの祈りの姿のように地面にうずくまる姿勢からそう呼ばれたのだという説がある。
 ムーゼルマンは、「あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人」であり、「よろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎ」 (p. 51) ない囚人である。ムーゼルマンは「ゴルゴンを見た者」 (p. 67) だ。ゴルゴンを見た者は人間ではなくなり、死に至り、 決して人間の側へ戻ってくることはない。
 ムーゼルマンのことを読みながら、気になる一節があった。日本の選挙の時期に、選挙のことどもを連想するというあまりに卑近な私の妄想を少し恥じ入りながら、あえて紹介しておく。W. Sofskyの著作からの引用である。

回教徒は絶対権力の人間学的な意味をきわめてラディカルな形で体現している。じっさい、殺すという行為においては、権力はみずからを廃棄してしまう。他者の死は社会的関係を終らせるからである。反対に、権力は、みずからの犠牲者を飢えさせ、卑しめることによって、時間をかせぐ。そして、このことは権力に生と死のあいだにある第三の王国を創設することを可能にさせる。死体の山と同様に、回教徒もまた、人間の人間性にたいする権力の完全な勝利のあかしなのである。まだ生きているにもかかわらず、そうした人間は名前のない形骸となっている。こうした条件を強いることによって、体制は完成を見るのである。 (p. 60)

 アガンベンも本の後半で論じているように、ナチスがアウシュヴィッツで成し遂げたことは、ミシェル・フーコーの「生政治」の極限の形態である。権力は人民の生殺与奪の権利として定義される。かつての専制権力は殺す権力であったのだが、近代の生政治は「生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる」 (p. 109) のである。
 私がSofskyの言葉から想像したのは、ムーゼルマンの過酷な運命でもなく、ましてや生政治に関する深遠な思想的考察でもない。「ムーゼルマン」は現代日本社会におけるいわゆる「D層」ではないか、そう思ったのである。

日本社会の階層図(ブログ「WJFプロジェクト」からの借用)

 上の図は、小泉内閣の政治戦略マーケティングのためにある広告会社が考えた日本社会の階層を表わしている。横軸を「新自由主義に肯定的(否定的)」とすればもう少し一般性が高まるだろうが、縦軸はもう少しなにか適切な基準があるかも知れない。
 IQは「生活年齢と精神(知能)年齢の比」として定義されるので、小学生レベルの漢字の読み書きに難のある60歳と74歳のIQはかなり低いと判定される。にもかかわらず、その二人がA層のもっとも象徴的な内閣総理大臣と副総理大臣だというのはこの図の信頼性を貶めている。もちろん、このようなカテゴライゼーションには例外が必ず存在するが、例外として首相と蔵相をA層から放逐したら政治的報復の怖れはないのか。
 憎まれ口はさておき、選挙を左右しているのはマジョリティであるB層だというのは間違いないだろう。そして、D層こそは、近代生政治によって「生かしながら死ぬがままにして」おかれた人びとだろう。D層の人びとは、湯浅誠が描く [5] ように、貧困と生活に追われて政治参画などは考えようがない。いわば、貧困によってあたかも政治からも社会からも隔離されるように生きている層ではないのだろうか。
 そして、安倍政権は「雇用が増えた」と誇るが、じっさいは正規雇用が減って非正規が増加しているということに過ぎない。つまり、安倍政権はB層の人びとをD層に押し出す政策に奔走しているのである。今、日本の社会はアウシュヴィッツのような生政治の極限に向かって走っているというしかない。
 にもかかわらず、将来のD層予備軍であるB層の人びとによって自公政権は衆議院選挙で勝つのである。どう考えても自殺行為だ。「時の権力のイメージ戦略のままに死の崖に突っ走るレミングの群れ」というのはさすがに言い過ぎで心苦しいが、B層こそが私たちがいつでも呼びかけるべき層であることは間違いない。現状の社会ステムでは、マジョリティであるB層が変わらない限り、政治状況を変えられないのだから。 

[1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)。
[3] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。
[4] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年)。
[5] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。


街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。