かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(21)

2024年10月10日 | 脱原発

2015321

 「321みやぎアクション」の写真を整理してブログを今日明日中に書き上げなければと思うのだが、第一部のライブパフォーマンスの分だけ仕上げて、翌22日の午後は、仙台国際センターで開かれている「言語学者によるメディア・リテラシー研究の最前線」というシンポジウム講演を聴きに行った。午後からの講演に原発事故、原発再稼働、特定秘密保護法など、興味深い講演題目が並んでいたのだ。
 午後の講演全体を通して受けた印象の一つは、さすがにメタレベルから中立的にさまざまな言説を取り上げているという、学問の世界ならごく当たり前のことだった。たとえば、私は一度だけ読売新聞の社説を丁寧に読んだことがあるし、鹿児島県知事の原発再稼働容認の記者会見内容も読んだ。それはブログで批判する(悪口だけのような気もするが)ためだけで、それ以外は不愉快になるのでまず読まないのである。産経新聞などなおさら読まない。
 ところが、大阪学院大学の神田靖子先生は、原発事故をめぐる朝日と読売社説にみる読者誘導の方法を言語学的分析しているし、ベルリン自由大学の野呂香代子先生は伊藤鹿児島県知事の原発再稼働容認の記者会見内容で用いられる言語的、修辞的な手段の分析を行なっている。一橋大学の今村和宏先生に至っては、産経新聞にも丁寧に探せばとてもいい記事があると言われる。それこそ、メディア・リテラシシーとしての冷静な対処ということだろう。
 最後の東北大学の名嶋義直先生がまとめられていたように、メディア(と政府)がいかに言説(ディスコース)を作りだすか、それをどのように正しく(批判的に)読み解いていくかが大事だということだ。ただ、とても気になったことがあった。野呂先生が講演のまとめのところで、「私たちの側から言説をつくる」という意味のことを言われたのだ。
 最後の質疑応答でも話題になったのは、簡単に言ってしまえば、ハーバーマス的な熟議民主主義の場をどうやって形成し、そのうえで私たちの生きているこの社会を席巻するようなディスコースに私たちがいかに参与できるかということだろう。私はハーバーマスのように楽観的ではないので、権力やメディアと私たちが同じアリーナでディスコースを作り上げるという方法よりも、メディア(と権力)に対抗的な「私たちのディスコース」のようなものを市民の側から形成することが大事ではないかと思うのである。野呂先生にインスパイアされて、意を強くしたのだ。
 「言語学者による市民ディスコース創成の方法」だとか「私たちの言説をいかに形成するか、その言語学的考察」のようなシンポジウムがあったらいいな、と思ったのである。私の立場から言えば、もちろん社会学的でも政治学的でもかまわないのだが。
 ブログをさぼった言い訳を書いているのだが、じつは、もっと正しい言い訳がある。この楽天ブログは、1日にアップロードできる写真の容量と文字数に制限があって、私はしばしばオーバーしてしまう。せっせとブログを書いても1日にアップロードできるのは限られているので、翌日に延ばすしかないのだ。残念なことだが、いくぶん喜ばしい。

 

201543

 高浜原発の話はどうなっているのだろう。福井地裁での「大飯原発3、4号機、高浜原発3、4号機運転差し止め仮処分の申し立て」のうち高浜原発の分は、規制委員会による設置変更許可が出ており、緊急性が認められるとして、311日に結審した。関西電力による樋口英明裁判長ら3裁判官の忌避申し立ては、福井地裁に却下されたが、関電は名古屋高裁金沢支部に即時抗告している。
 あの福井判決の樋口裁判長が311日に結審したということは、3月いっぱいで転出する樋口裁判長の任期内(3月末まで)に運転差し止めを認める判決が下されるものと期待されていた。しかし、未だに仮処分決定日は決められていない。
 担当している裁判については、任期を越えて担当できるという制度があるらしいのだが、どうなっているのだろう。
 大飯原発3、4号機の再稼働を認めない名判決を下した樋口裁判長が最後まで担当されて、高浜原発の運転差し止めも認めてくれることを期待している。もちろん、さらに上級審での裁判が続くだろうし、上級審へ行けば行くほど裁判への信頼性が落ちることも確かだ。最高裁人事には現在の政治体制イデオロギーのバイアスがかかっているし、それが下級審に伝播していることは避けがたい。
 しかし、原発関連裁判にかかわる裁判官はいかに体制イデオロギーに浸潤されているとはいえ、樋口判決を目にせざるを得ないだろう。どんな判決を出すにせよ、樋口判決の法の倫理、法の論理を目にした影響はあるはずだ。矜恃のある裁判官なら、それを否定するには、その論理性、倫理性を超克する思考を展開しなければなるまい。あくまで、人間としての矜恃があれば、ということだが。
 もちろん、選挙の一票格差の憲法違反裁判で「違憲状態だが選挙は有効」などというまったく法に馴染まない概念をでっち上げるような行政官としか思えない裁判官が多くいることも確かだが、原発裁判に関しては、樋口判決の前と後とでは決定的に違うだろう。そう思いたい。たかが電気を作るために、10万人以上が故郷を追われ、将来にわたる健康異常や不安に苛まれるという人倫に反する経済的行為が許されるはずはないのだ。
 そもそも生命と経済行為を並列に考えること自体が間違っているのだ。予測不可能、想定外だからといって人を殺していいはずがない。



街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫