2011年3月11日(金)
それはそれは大きな地震が起きた。
マグニチュード9.0(Mw9.0)
はじめ南三陸沖地震と呼ばれたその地震は、被害規模が拡大するにつれてその名称を変えていった。
「南三陸」から「東北地方太平洋沖」、おまけに「2011年」と西暦まで入る始末。
翌日には「東北・関東大震災」「東日本大震災」と名称が両立し、これは現在まで続いている。
これよりさかのぼること二日前、3月9日(水)、南三陸沖ではやや強い地震(Mw7.3)が起きていた。
このとき、仙台では震度5を観測。
信号機はグラングランと揺れ、大地は異常なざわめきを発していた。
やけに長い。4~5分揺れていたのではないだろうか。
やがて、ざわめきは遠のき、揺れはおさまった。
街はまだ騒然としつつ、けれど思ったよりも被害が少ないことにほっとしていた。
僕も、放菴の食器棚でグラス類が前進していたことに驚きながらも、「こんなもんか」と安堵していた。
このころの、宮城県在住の人々の地震に関する概念は、およそ以下のとおりであろう。
「宮城県には約30年周期で大きな地震が起きる。これを『宮城県沖地震』と呼んでいる。最後に起きた『宮城県沖地震』から30年以上が経過しているので、次の大地震がいつ来るかわからない。
また『宮城県沖地震』は連動型になると被害が大きくなる傾向にある。数年前に起きた東北地方太平洋沖の地震は、この連動域の地震かもしれない。」
ちなみに、この時、将来起こるであろう『宮城県沖地震』の震源域について特定が出来ていたという。いわゆる地底プレートの固着域(アスペリティ)だ。
3月9日の地震は、この固着域から外れていたが、それでも一応「連動域」の地震であろうとされた。
これでいよいよ来るのか、それともまた間隔が空いて忘れた頃に地震が起きるのか。
とりあえず、僕たちは、この日常が終わらないことを祈っていた。祈っていただけだった。
そして迎えた2011年3月11日。
ぼくらの日常は無残にも・・・。
それはそれは大きな地震が起きた。
マグニチュード9.0(Mw9.0)
はじめ南三陸沖地震と呼ばれたその地震は、被害規模が拡大するにつれてその名称を変えていった。
「南三陸」から「東北地方太平洋沖」、おまけに「2011年」と西暦まで入る始末。
翌日には「東北・関東大震災」「東日本大震災」と名称が両立し、これは現在まで続いている。
これよりさかのぼること二日前、3月9日(水)、南三陸沖ではやや強い地震(Mw7.3)が起きていた。
このとき、仙台では震度5を観測。
信号機はグラングランと揺れ、大地は異常なざわめきを発していた。
やけに長い。4~5分揺れていたのではないだろうか。
やがて、ざわめきは遠のき、揺れはおさまった。
街はまだ騒然としつつ、けれど思ったよりも被害が少ないことにほっとしていた。
僕も、放菴の食器棚でグラス類が前進していたことに驚きながらも、「こんなもんか」と安堵していた。
このころの、宮城県在住の人々の地震に関する概念は、およそ以下のとおりであろう。
「宮城県には約30年周期で大きな地震が起きる。これを『宮城県沖地震』と呼んでいる。最後に起きた『宮城県沖地震』から30年以上が経過しているので、次の大地震がいつ来るかわからない。
また『宮城県沖地震』は連動型になると被害が大きくなる傾向にある。数年前に起きた東北地方太平洋沖の地震は、この連動域の地震かもしれない。」
ちなみに、この時、将来起こるであろう『宮城県沖地震』の震源域について特定が出来ていたという。いわゆる地底プレートの固着域(アスペリティ)だ。
3月9日の地震は、この固着域から外れていたが、それでも一応「連動域」の地震であろうとされた。
これでいよいよ来るのか、それともまた間隔が空いて忘れた頃に地震が起きるのか。
とりあえず、僕たちは、この日常が終わらないことを祈っていた。祈っていただけだった。
そして迎えた2011年3月11日。
ぼくらの日常は無残にも・・・。