「川崎の叔父さんが亡くなった。今度の土曜日に葬式だと。」
ようやく4月にはいったばかりという頃、その電話は突然かかってきた。BELAちゃんの実家からだ。
これはBELAちゃんにとっても大きな驚きだった。
「最近、叔母さんの方がすっかり弱ってきてるって聞いてたのに、叔父さんが先に逝っちゃったんだ・・・。」
BELAちゃんも川崎へは何度も遊びに行っており、ずいぶん可愛がってもらったとのこと。
こんどはお義兄さんから電話があった。
「今度の土曜日に葬式だってな。オヤジとオフクロが行くっていうんだから仕方が無い。オレは一緒にいくけどそっち(放菴)ではどうする?」
「はい? え? ちょっ・・・。」
聞き間違いじゃあなかろうか。
だれが行くって? お義父さん? マジで? ずいぶん脚弱ってきているのに。それにまだ新幹線走ってないんだよ。
そう、4月の上旬はまだ震災の影響で新幹線は那須塩原ー東京間しか走っていない。
「だからクルマだろ? どうすっかな、那須塩原まで高速でいって、そこからJRか?」
このころ東北道はやっと災害復興を目的としない一般車両も通ることができるようになっていた。
そうか・・・、クルマとなればBELAちゃんよりも自分が(BELAちゃんの名代として)行くことになるのか。でも那須塩原から新幹線が妥当かしら。
「あ、だめか。東京駅の構内あるくだけで年寄りは疲れちゃうからな。乗り換えどころじゃない。そうなると、やっぱり首都高乗って式場まで行くしかないのか。」
・・・ですね。
「オレ首都高走ったコトないんだよな。COZYはどうや?」
・・・浦和から先は未知の世界です・・・。
ため息が出る。こりゃ大変だ。
でもやっぱり行くしかない。義父が一旦「行く」と決めたら、誰にも留めることはできない。
ぼくらはさしずめ貴重品を輸送(護送)する運転手のようなものだ。一人では任が重いので二人で行くというリクツ。
さっそく道を調べる。いろんなサイトを見比べて、横浜の友人にもルート教授を請い、なんとか第二京浜に出ろ、と教えてもらった。
出発は4月9日(土曜日)。角田から朝早く出発するので、前日に僕たちは角田の家に集まることになった。
ところが、だ。
4月7日(木曜日)に大きな余震があった。角田市は再び断水地獄へと陥ってしまった。
翌日はありったけの水をボトルに詰めて角田へ行った。義兄も80㍑くらいタンクに詰めて持ってきた。
角田はそのころ、まだ下水も排出規制が続いていた。つまり、固形排泄物は流さず新聞に包んで埋めるか焼くかして処理していたのだ。
そこへきてまた断水だ。住んでいる人たちは、いいかげん身体がおかしくなりはしないか。
翌日は午前4時に起床。朝ごはんも食べずにクルマを出発した。首都高行きは、義兄のクルマになった。
白石インターから東北道へあがる。
想像はしていたが、やはり路面は凸凹がひどい。
道路の陥没、路肩の亀裂、傾く標識。
国見SA付近からはますますひどくなった。
不規則な段差がとにかく多い。ふいに突き上げてくる衝撃で息が詰まりそうになる。
(なるほど、一時期は特殊車両しか通れなかった理由がよくわかる。)
郡山付近では磐越東線の案内で「常磐道、いわきー富岡 地震災害のため通行止」とあった。
書きかた間違ってないか?「地震災害」じゃねーだろ。原発災害じゃないか。
いずれ書くけど、仙台からつくばへ帰省する時には、たいてい角田-相馬-南相馬ーと来てから富岡、いわき、常磐道というルートだった。そのいつものルートが放射能に汚染されて、通ることさえ許されない。
住人ではなくとも、知っている地域がこのような悲劇に見舞われていると、涙が出てくる。いいところなんだよっ、ホント。
東北道を南下するにつ入れて、なんだか景色に不思議な変化を感じた。
なんとなくだけど、東北地方と関東地方では空気感がちがう。
でも今日の変化はそんなことじゃない。
ふと視界の境を何かが横切った。
あれ、今の・・・。
サクラ?
「サクラじゃねぇか今の?」
お義兄さんが言った。
「あれ?」
また何かが視界のスミをよぎった。
「ああ、確かに。サクラですね。」
場所はだいたい塩原SA付近。高速道路わきの植樹にまじって、うす紅いろの花が顔をのぞかせている。
そうか、北関東までサクラの開花が進んできたんだ。
宮城はまだまだ肌寒く、梅が咲いている。というより春の彩りをたのしむ気分じゃない。サクラがいつ咲くかなんて考えてもいなかった。
・・・そうか、もうサクラ咲く頃なんだ。
4月9日、那須塩原付近にて。いま僕らはまさに「サクラ前線」と遭遇しているのだ。
ようやく4月にはいったばかりという頃、その電話は突然かかってきた。BELAちゃんの実家からだ。
これはBELAちゃんにとっても大きな驚きだった。
「最近、叔母さんの方がすっかり弱ってきてるって聞いてたのに、叔父さんが先に逝っちゃったんだ・・・。」
BELAちゃんも川崎へは何度も遊びに行っており、ずいぶん可愛がってもらったとのこと。
こんどはお義兄さんから電話があった。
「今度の土曜日に葬式だってな。オヤジとオフクロが行くっていうんだから仕方が無い。オレは一緒にいくけどそっち(放菴)ではどうする?」
「はい? え? ちょっ・・・。」
聞き間違いじゃあなかろうか。
だれが行くって? お義父さん? マジで? ずいぶん脚弱ってきているのに。それにまだ新幹線走ってないんだよ。
そう、4月の上旬はまだ震災の影響で新幹線は那須塩原ー東京間しか走っていない。
「だからクルマだろ? どうすっかな、那須塩原まで高速でいって、そこからJRか?」
このころ東北道はやっと災害復興を目的としない一般車両も通ることができるようになっていた。
そうか・・・、クルマとなればBELAちゃんよりも自分が(BELAちゃんの名代として)行くことになるのか。でも那須塩原から新幹線が妥当かしら。
「あ、だめか。東京駅の構内あるくだけで年寄りは疲れちゃうからな。乗り換えどころじゃない。そうなると、やっぱり首都高乗って式場まで行くしかないのか。」
・・・ですね。
「オレ首都高走ったコトないんだよな。COZYはどうや?」
・・・浦和から先は未知の世界です・・・。
ため息が出る。こりゃ大変だ。
でもやっぱり行くしかない。義父が一旦「行く」と決めたら、誰にも留めることはできない。
ぼくらはさしずめ貴重品を輸送(護送)する運転手のようなものだ。一人では任が重いので二人で行くというリクツ。
さっそく道を調べる。いろんなサイトを見比べて、横浜の友人にもルート教授を請い、なんとか第二京浜に出ろ、と教えてもらった。
出発は4月9日(土曜日)。角田から朝早く出発するので、前日に僕たちは角田の家に集まることになった。
ところが、だ。
4月7日(木曜日)に大きな余震があった。角田市は再び断水地獄へと陥ってしまった。
翌日はありったけの水をボトルに詰めて角田へ行った。義兄も80㍑くらいタンクに詰めて持ってきた。
角田はそのころ、まだ下水も排出規制が続いていた。つまり、固形排泄物は流さず新聞に包んで埋めるか焼くかして処理していたのだ。
そこへきてまた断水だ。住んでいる人たちは、いいかげん身体がおかしくなりはしないか。
翌日は午前4時に起床。朝ごはんも食べずにクルマを出発した。首都高行きは、義兄のクルマになった。
白石インターから東北道へあがる。
想像はしていたが、やはり路面は凸凹がひどい。
道路の陥没、路肩の亀裂、傾く標識。
国見SA付近からはますますひどくなった。
不規則な段差がとにかく多い。ふいに突き上げてくる衝撃で息が詰まりそうになる。
(なるほど、一時期は特殊車両しか通れなかった理由がよくわかる。)
郡山付近では磐越東線の案内で「常磐道、いわきー富岡 地震災害のため通行止」とあった。
書きかた間違ってないか?「地震災害」じゃねーだろ。原発災害じゃないか。
いずれ書くけど、仙台からつくばへ帰省する時には、たいてい角田-相馬-南相馬ーと来てから富岡、いわき、常磐道というルートだった。そのいつものルートが放射能に汚染されて、通ることさえ許されない。
住人ではなくとも、知っている地域がこのような悲劇に見舞われていると、涙が出てくる。いいところなんだよっ、ホント。
東北道を南下するにつ入れて、なんだか景色に不思議な変化を感じた。
なんとなくだけど、東北地方と関東地方では空気感がちがう。
でも今日の変化はそんなことじゃない。
ふと視界の境を何かが横切った。
あれ、今の・・・。
サクラ?
「サクラじゃねぇか今の?」
お義兄さんが言った。
「あれ?」
また何かが視界のスミをよぎった。
「ああ、確かに。サクラですね。」
場所はだいたい塩原SA付近。高速道路わきの植樹にまじって、うす紅いろの花が顔をのぞかせている。
そうか、北関東までサクラの開花が進んできたんだ。
宮城はまだまだ肌寒く、梅が咲いている。というより春の彩りをたのしむ気分じゃない。サクラがいつ咲くかなんて考えてもいなかった。
・・・そうか、もうサクラ咲く頃なんだ。
4月9日、那須塩原付近にて。いま僕らはまさに「サクラ前線」と遭遇しているのだ。