ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

芸術と教育

2019-10-26 | 雑念
映画や音楽、絵画など芸術の秋に思う。

それらは「良い」「悪い」の物差しで測るものではない。

だから僕は映画はひとりで行く。
隣で「良い悪い」の物差しで語られるのが受け入れられない。

でもなにやら最近はデートで映画に行くのも苦じゃなくなった。

今までは質問が悪かったのだ。

「どう?」

という質問は相手に評価を求めてしまうのだ。

だから、質問を「肌に合ってる合ってない」などのFeelingを尋ねるのがベターである。

だから僕は「ハッピー?」と聞くようにしている。
オシャレに英語で「Are you happy ?」がイイのかもしれない。

後はもう一つの物差し。

「タイミング」

これを尋ねるのは難しいのだが、「肌に合わないのは、タイミングが合ってなかったのかな?」と思うことが出来るのだ。

最近は「間とタイミング」ってめっちゃ大切だなぁと思う。

芸術鑑賞に関しては本当にそう思うのだ。

さて、

それを教育に展開してみようと思う。

なぜなら芸術の秋でもあるが、学問の秋でもあるからだ。

まだまだ自分の未熟さや弱さを思い知ることが多く、これじゃ体験学習指導者として不甲斐なさすぎる。

兎に角、全ての常識や先人のセオリーを自分の脳みそとハートで咀嚼して、感覚を研ぎ澄まして学び続けたい。

本題に戻る。

芸術家側からみてみる。(なぜならこの後、体験学習指導者に置き換えるから)

恐らく芸術家は期間限定で作品を世の中に残していないと思う。

「死んでも作品は残る」

だから芸術家のマインドは、

「いつか誰かが何かを感じておくれ」

そう思っているに違いない。

そう信じている。

自分が生きる為のお金目当ての作品には、人は感動しないのではないだろうか?

僕はそう思う。

つまり仕事成果の期限はない。

それが世界を変えてしまうほどの感動を作品に込められる真髄なのではないか?

教育とは、人が幸せに生きる為の学びの場

心を動けば人は学ぶと信じている僕にとって、その場は指導者が作る芸術作品なのではないだろうかと。(僕はその場は指導者と参加者と関わる人達がいっしょに作ると考えている)

ならば、この「仕事の成果が期間限定マインド」というのは、致命的な罠なのではないだろうか。

確かに指導者も飯を食っていかねばならん。

だから罠なのだ。
その卑しさは染み付くのだ。

そして気づかない。

2つ方法がある。

食うのは別口にするか、
食わずに死ぬか

『Hangry or Die』

まぁ、大げさに極論である。

だから僕は、期間限定マインドを薄めて、普遍的で先進的な時代にマッチするという相反する二つを満たす指導者の在り方を見つけたい。

一緒に哲学しませんか?

勉強会したい。