ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

目覚めたら何か閃いて、消えた…

2020-10-13 | 雑念
なんか違和感

「アイスブレイクもフレームだから」
「良き体験をすることで学ぶ」
「10歳に合わせた学びがある」

体験を通して…

僕が愛した冒険教育は本当に
こういうものだったのか?

本当に僕はこの事をしたいのか?
急に違和感を感じた。

恐らく7名いた指導者の中で僕だけ違和感を感じていたのだと思う。

そして全体の指導者だけの振り返りでは
話が長くなりそうで切り出すのをやめた。

もうみんなベテランになり
FTとして見立てや意図をきけば
何となく「あぁ、こういう心理状況でこういうアプローチをしたんだろうなぁ」と
わかる。

それはそれぞれのFTスタイルなんだなぁと理解し、また視野を広げていくこともできる。

しかし僕にとっては元も子もない疑問に満ちていた。

「こんな事をすることがPAでしたっけ」

一旦振り返りが終わって
ひとりの信頼できるFTを捕まえて
「さっき全体には言わなかったんだけど…」と切り出した。

長くは話せなかったが
「フレームの話、介入の度合いって継続性(長続きするか)ってどうなんだろう?」を投げてみた。

その話をしながら
僕は本当に尋ねたい質問はこれなのか?と感じていた。

色々そこから解散して車で帰るまで10分程度の歩き話

答えのない話だったが
何やらモヤモヤしていた。

そして一夜明けて今朝早く目が覚めた時に閃いた質問が僕が本当に聞きたかったこと

「学び」を前提に色々振り返りで話したが、本来PAって「遊び」を生み出す集団だったのでは?

僕は恐らくそのスタイルというか、スピリッツに共感して20年近く続けているのに
FT振り返りでの自分は常に「学び」や「意図」、「効果」「手法」を気にしていた。

「学びのフレームと遊びのフレームは一緒である」とそのFTは言った。

しかさその一点については僕は異論を持っている。

「明確な答え」を持つ学びのフレームは、今までの学校教育と何ら変わらないのではないか?

僕はPAの「新しさ」は「遊び」を通して、個人個人が何かを感じてハッピーになることにあると思う。

「学ばせよう」とか「いまの若者は…」と課題感をFTが押しつけるものではないと思う。

PAを輸入し、学校教育に導入しようとした歴史が今の日本のFTスタイルを産んだとしたら僕は日本だけのそのルーツは肌に合わない。

答えのある正解探しの様な教育にはうんざりしている。

遊びをクリエイトして
一心不乱に遊んでいた少年時代のような
そんな時間を提供したい。
その事で何か大切な事に気づくのならそれはそれでいい。

だからアイスブレイクなどのアクティビティのルール設定はするが、
「参加者はこうだから、こういう事を学んでもらうためにこのアクティビティを…」
みたいなFTにはなりたくない。

もっと右脳が刺激される様な
もっと新しいアイデアや新しい雰囲気、新しい何かが生まれる場所にしたい。

クリアになったと思った自分の考えは
また雲がかかって霞んでいった。

ムズいなぁ