私の子供時代、祖国とは生命に代えて護るべきものであった。
それは故郷を護ることでもあり、両親や妹、弟を護ることでもあった。
昭和20年8月15日以降、その思いは天と地ほどにひっくり返った。
祖国にさほどの意味はなく、守るべきは市民の生命や財産であり、しかも、生命を賭けるほどのものではなくなってしまった。
その逆転ぶりに、私は大きな違和感を感じた。その思いは今も同じだ。
過日、オサマ・ヴィンラディンが、パキスタン国内において、アメリカ軍によって殺害された。
9.11の同時多発テロなどの首謀者として、追われていたのだ。
彼は何をもって戦ったのだろうか。
結果として、彼は死んだ。報道で見る限り、「戦死」ではなく、「殺害」や「「暗殺」などと報じられた。
9.11の同時テロの際、アメリカの一部報道は、日本の「特攻隊」を想起したようだ。
それは断じて違う。敵艦に体当たりをして死んだ日本の若者たちは、祖国を護るため、身を献げて戦ったのだ。
これ以上、面倒なことは考えない。書きもすまい。
ひたすら、「祖国」について考えたい。
祖国とは生命なりけり柿若葉 鵯 一平
間違っても、
祖国とは悲の坩堝なり羽抜鳥 鵯 一平
としてはならないのだが……。
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