日本の国及び国民は、昭和20年(1945年)8月にポツダム宣言を受諾してから、意識が大きく変わってしまった。
自立しようとする日本人の意識を危険視したGHQは、手を変え品を変えてそれを妨害し、日本人もそれをいいことに、経済にばかり目を向けてしまった。
「第二次世界大戦を起こしたのは日本国だ。日本人は悪逆非道を繰り返した」
アメリカも中国もソ連もオーストラリアも、口を揃えて叫んだ。その合唱の結果が東京軍事裁判の判決だった。
日本人自身も、「悪かったのは日本人。悪かったのは日本の軍国主義」と、すっかり洗脳されてしまった。その挙げ句、あの「無差別大量殺戮」の原子爆弾の投下すら、「日本が悪かったのだから仕方がなかった」と、思い込まされてしまっていた。
以来、軍隊を持つことは罪悪と思ってしまった。
お陰で経済的には発展したが、日本人の心から、「自立自尊」の精神が消えてしまった。
その結果が、今の日本だ。
日本固有の領土である尖閣諸島で、中国漁船が日本海上保安庁の船舶に体当たりをしてきた。
だから「公務執行妨害」の現行犯で中国漁船の船長を逮捕連行した。ところが、中国政府は大騒ぎ。釈放要求のほか、さまざまな嫌がらせ的な行動に出てきた。
弱腰だったのは日本だ。「中国との関係を悪化させたくない」という「検察現場の判断」で、かの船長を、「処分保留」のまま釈放してしまった。
まったくの弱腰。しかも、検察現場の判断だったと言っているのだから驚きだ。危機管理がなっていないどころか、まったくの弱腰。完全な「外交の敗北」だった。
「筋」を通してモノゴトを見ていない。「筋」がない。弱腰なのだ。「中国との間で、紛争を起こしたくない」という視点だけが判断の基準となっている。
これは決して、安全保障の問題に限らない。世相の荒廃にも影響が及んでいる。
親の子殺しや子の親殺しなど、日本の世相は目を覆いたくなるばかり。
食べることにも事欠いた私の親たちは、寝る時間を惜しんで働き、子供たちに与え続けた。「豊かであれば」と思って、どんどん与え続けた。
私の世代も、自分が味わった「モノがない苦労」を子供にはさせまいとして、せっせと子供たちに与えた。与えようと努力をした。
その結果、経済的には豊かな社会になったかもしれない。しかし一方では、豊かでなければ我慢できない世の中を作ってしまった。
「お金さえあれば・・・」の風潮が、日本を覆い尽くし、国の安全保障ですらお金で解決できると思ってしまった。すべてはお金で解決できると思い込んだ。奢れる日本、奢れる日本人になってしまったのだ。
今、そのツケが来ている。
本当にアメリカは守ってくれるのか。日米安全保障条約は、「一方の当事国が拒否すれば、この条約は成り立たない」のだ。アメリカが「もうイヤだ」と言えば、日本は素っ裸で世界と対峙しなければならなくなる。中国、ロシア、北朝鮮。世界には、虎や狼が跋扈している。韓国だって、いつ牙を見せてくるか分からない。
日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれてある。「平和を愛する諸国民の公正と信義」を前提に作ってあるのが、現行憲法なのだ。
真に諸外国は信頼に足る存在なのだろうか。過去の事例を見るまでもなく、そのようなことはありえない。
日本にかかわる事例だけでも、沢山あるではないか。
憲法自体、世界の実態に合わない前提で作られている。にもかかわらず、日本国内では、憲法改正の論議は大きなタブーとなっている。
世界の厳しい現実から目をそむけ、日本人は、「誰も彼もいい人」という前提の憲法を後生大事に戴き、論議すらも封じ込めてきた。それが戦後の日本だったのだ。
北朝鮮の拉致問題、ロシアの北方領土問題、韓国の竹島問題、それに中国との尖閣諸島問題。
どの問題を考えても、「諸国民の公正と信義に信頼し」ていては、とても成り立たなかったではないか。
それらに頬被りをしていた日本国および日本人は、これからもさらに大きな傷手を受け続けることになるのだ。
漂流国家日本は、今や水溶性だ。このままでは溶けてなくなってしまいますぞ。
尖閣諸島に領土問題はなかった。つまり、国際的にも、「日本の固有の領土」として了解されていたのだ。以前の中国は、尖閣諸島を日本領土として認めていた。しかし、あの地域に地下資源が埋蔵されていることを知ってから、中国は領有権を主張しはじめた。
しかも今や、北方領土問題を抱えているロシアと手を結びそうな雰囲気なのだ。
それでもいいのですか?