『便利さ』の裏

2012-05-13 05:01:36 | Daily Life
考えることがあってさ…。
先日話題にしたボヤの一件、何で起きちゃったんだろうか…ってさ。

子どもに対しての親の対応をちょっと考える。
まだおいらが goo に移る前 cafeblo で blog を書いていた頃にこんな記事を書いている…日付は 2009/1/13。

あの頃から基本的においらの発想は変わっていない…が、改めてもう一度整理する。

人は大人になるのに多くの時間がかかる。
法律的な解釈を加えても、幾つもの段階がある。
例えば、単車の免許が取れる年齢、クルマの免許が取れる年齢、成人して選挙権を得る年齢、被選挙権を得る年齢…。
人の成長にはそれぞれの人に個性がありスピードも様々…一概に年齢で区切れないが『ダイタイこの位の年齢で…』という区切りも付けなければ社会的な規範は作り難い。
一応その『区切り』が社会の目安と考えても、大人になるのって…大変なんだね。
おいらみたいに 40 歳を過ぎても大人になれないヤツもいるしさ。

子どもを育てる…というのは『何かを教え込むこと』ではなく、子どもたちが『社会で生きていくこと』そのものだとおいらは思っている。
『文明の力』を行使して社会的に自立すること…とでも言おうか。

おいらの言う『文明の力』とは、決して便利な道具だけではない。
『二足歩行』であり、『言葉』であり、『火』でもある。
だが、人が生活する上で編みだした文明…実は便利さの裏に必ずリスクが潜む。

例えば…
先に出ている『単車の免許』は満 16 歳で取得できる(最近は高校が『ダメ!』というケースも多いが)。
前述の通り、一概に年齢で区切れないのが本当のところだが、ダイタイ 16 歳くらいなら『単車の便利さとそれに伴うリスクを理解できる』、だから一定の学科・技能講習の上で免許を交付しても良いだろう…というのがその真意と考える。

言葉も使い方ひとつで暴力になり得る。
火もそうだ。

親の仕事は、便利な道具の使い方を教えることではない。

使い方を間違えると、痛い思いをする。
だから正しい使い方をしないと自分の安全を保てない。
親の仕事とは、子どもに小さな『痛い』を経験させて何が危険で何が安全なのかを理解させること…こっちだと思う。

以前 cafeblo で書いた言葉をもう一度。

例えば、木にぶら下がって、木が折れそうでさ…。
それは危ないから『危ないぞぉー!』って言うのが教育で、
それは危ないから『禁止』するのは違うと思うんだけれどな。

赤ちゃんが立って歩くようになる時、
痛いことはさせないって、転ぶことを前提に歩かせない?
そんなことないよな。

なんかね、最近の小学生を見ていると、
転ばないようにって禁止されていて、
触れない部分が多すぎるような気がするんだよな。

なんか、もう少しだけでいいから
安全に『痛いこと』をさせてあげたいんだけどな。
『痛い』を知れば、他の人に優しく接せられるようになると思うんだけれども。

おいらなんか変なこと言っているな。
別に『怪我させろ』って言っているわけじゃ、ないんだけどさ。

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2 Comments

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わかります!! (ともへい)
2012-05-13 10:00:47
「痛い」って思いって大事だと思います!
ワタシは小さい頃オヤジからナイフの使い方教わりました。
当然指を切ってしまう事もありましたが、こうすると手を切るってコトを覚えましたもん。
何でも危ないから禁止にしちゃうと何にも出来ないようになりそうで怖い感じがしますね~
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ともへいさんへ (HOTAS)
2012-05-14 15:37:40
そう、痛いって大事だと思うんですよ。
だから、大きな痛い思いをさせないために親ができることは、
小さなイタイを与えることだと思うんですよね。
返信する

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