浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

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2023-06-09 20:23:00 | お知らせ
http://houtokuji.info/
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ておくれなし

2023-06-09 20:16:59 | 法話

浄土真宗で、という言葉を使うのは、既に、阿弥陀如来のいのちの中に、生かされていた私であったと聞かせて頂くことを、というのです。 また、浄土真宗では、信とは、阿弥陀如来の心を表わしますので、今回の法語カレンダーのお言葉、信は、如来の生命なりというお言葉に繋がるのです。 既に、私たちは、阿弥陀如来の生命の中に、生かされ、お浄土へと導かれる人生を歩ませて頂いていたという意味です。信じれば救われるとは、浄土真宗では、用いない言葉です。私たちは、今まで気付かずにいたけれども、既に、阿弥陀如来の救いの中にあったのです。信じることが条件ではないのです。どこに、証拠があるかといえば、今、私の口に、南無阿弥陀仏がはたらいてくださっているからです。いつも如来と一体なのです。 インターネットでこんな物語をお聞きしました。 90才のおばあちゃんに、「今までの人生で、後悔したことはありますか?」という質問をしました。おばあちゃんは、「私は、60才の時、バイオリンを始めようと思ったのですが、後、何年も生きられないと思い、やめてしまったのです。もし、あの時、バイオリンを始めていれば、30年間も私には、時間がありました。もしかしたら、バイオリンも上達して、今も、演奏することを、楽しめていたかもしれません。」というエピソードです。これは、何かを始めるのに、遅すぎることはないということを、教えてくれる物語なのです。その方も、60才の時、まさか、後、30年生きることが出来るとは、思ってもいなかったのでしょう。もし、それが、分かっていれば、間違いなく、バイオリンを始めていたのです。南無阿弥陀仏の救いは、いつでも、間に合います。臨終でも、ておくれはありません。既に、阿弥陀如来の救いが届いているからです。お念仏を称えるのに、遅すぎることはないのです。 浄土真宗の救いは、阿弥陀如来の救いにより、私の人生は、死んでいく人生ではなく、お浄土に生まれていく人生であると転換されます。 どうか、阿弥陀如来様、信じています、お浄土にお助け下さいとお願いする必要はないのです。


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