浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

空しいなぁそう思った時が仏縁です

2024-03-02 21:48:00 | お知らせ
私は、何のために生きているのか、何のためにこの世に生まれてきたのか。そんなことを、皆さんも1度は考えたことがあるではないかと思います。仏教は、この世に生まれた目的は、ただ1つであります。仏に成る、成仏のためであります。私は、長年救われたいと思い続けています。今も同じです。でも、死にたくはないのです。お浄土に生まれ、仏に成るという救いが、いただけません。だからこそ、今も仏教を学んでいます。しかし、私が、もしお寺に生まれることなく、僧侶になることもなければ、仏教を学ぶこともなかったと思います。私は、それが、今とてもありがたく思います。仏道を、歩ませていただいているということが、救いなのではないかと思うのであります。私の心を、あてにしていては、一生不安なままであります。つまり、救われないのです。浄土真宗では、救われたいという、気持ちがなくなったことが、救われたということ、なぜなら、既に阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって、私に届いているからであります。既に、阿弥陀如来に救われているのに、救われたいと思う必要は無いのであります。私の計らいがなくなり、阿弥陀如来の願いのままにお浄土に参らせていただくのが浄土真宗の救いであります。阿弥陀様の救いに出会い、「あなたは、救いの中にありますよ」と私に告げてくださるのが南無阿弥陀仏です。しかし、救われたいと言う気持ちがなければ、如来に出会う事は無いのであります。人生の目的は、成仏と言われて、なぜ、成仏が人生の目的なのかと?疑問に思うのは当たり前であります。納得がいかないのも当然であります。極楽浄土は、西方にあると言われて、なぜ西方なのかと疑問に思うのも当たり前であります。しかし、私はそれで良いと思っています。人間の頭でわかるのであれば、それは成仏とは言わないと思うのであります。悟りとはそういうものだと思います。宗教の世界に入るきっかけは、人それぞれでありますが、仏縁がなければ出会う事は無いのです。いつか、必ず死ぬのになぜ生きるのでしょうか?その問いは本当に大切な問いだと思います。浄土真宗では、阿弥陀如来に出会うためであった。これがその問いの答えであります。でも皆さん私の言ってることを、信じる必要はありません。どうか、ご自分で考えてみてください。私は人生に後悔というものは、したくありません。私は浄土真宗に出会い、阿弥陀如来に出会って空しい人生ではなかったということを教えていただきました。空しいとは、空っぽということではあります。人は、全て命を終わる時、自分で貯めたお金も地位や名誉も全部空っぽにして、この世を去っていくのです。私は、既に阿弥陀如来に出会えたということで空しい人生では無いのであります。この世に、生まれた目的が、既に成就されました。しかし、私は悟ったわけではないし、仏様となったわけではないので、相変わらず死にたくないと思い、今日も生きています。早く浄土に行きたいとは思えません。長生きしたいし、病気にもなりたくない、幸せに生きていきたいのであります、しかし、ふと人生の空しさを感じる時、阿弥陀如来の船に乗せていただいている人生で有難いと思います。




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