大切な方を亡くなれた後、お写真をお寺で預かっていただけませんかとお願いされる時があります。必要ないので、お焚き上げして下さいではなく、預かって欲しいと言われるのです。なぜなら、お写真をご自宅に飾っていると、見るたびに、亡き方を思い出し辛くなってしまうからだそうです。実は、私も、10年前に亡くなった母の写真をいまだに、まともに見れません。同じく、写真を見ていると、思い出してしまい、辛くなってしまうのです。皆さんは、亡き方のお写真に向かい、どのようなお気持ちでお参りされますか?「今までありがとう」とお参りされる方もいれば、「ごめんな、ごめんな、許してくれ、許してくれ」と謝ってお参りされる方もいらっしゃいます。男性は、そういう方が多いようです。奥様に対して、申し訳ないという気持ちの方が多いのです。今思えば、もっと、大切にしてあげればよかった、喧嘩なんかしなきゃよかった、ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったと、後悔するのです。私も他人事ではありません。家族というのは、お互い、元気に暮らしているときは、一緒にいることが当たり前で、感謝の気持ちを持つことは難しいです。しかし、大切な方を亡くし、はじめて、気づかされるのです。人間が、もっとも、幸せを感じるのは、富でも名声でもありません、人間関係です。どんなに、お金があっても、地位や名誉があっても、独りぼっちで幸せを感じるでしょうか。そして、もっとも、悩むのも人間関係です。人間関係は、めんどくさいものです、わずらわしいものです、みんな、自分が一番大事で、自分中心の考えですから、人間関係が良好にいくことは難しいことです。でも、人間関係こそが、人生を幸せに生きる一番大事なことであることは、多くの本で、書かれています。テレビドラマでもよくあるように、とかく、財産のある家は、争いが絶えません。財産などないほうが、兄弟仲良く、家族が仲が良いようです。お寺の住職をしていると、本当にそう思います。今の時代、葬儀や法事をされるのが、当たり前ではない時代になりました。しかし、時代は変化しても、葬儀や法事をお勤めしたいという方は、今も一定数いらっしゃいます。そして、将来、誰も葬儀も法事も勤めなくなるなどという方がいらっしゃいますが、そんなことは、絶対にないと私は思います。それは、葬儀も法事も、現世において、亡き方に出会えた喜びをお伝えし、お礼をする場だからです。
昨日は、3年ぶりに、築地本願寺 報恩講法要にお参りにさせて頂きました。コロナ禍で、3年ぶりに、参拝日帰り旅行が行われたわけですが、コロナが流行した後、私は、もっぱら法話を、インターネットのライブ配信でお聞きすることが多くなりました。また、暇になったので、昔、買った、今では、貴重な本を読み返すことも多くなりました。しかし、昨日は、最前列で、法要にお参り出来、ご講師の法話を聞くことが出来ました。3年ぶりとはいえ、毎年、お参りに来ていたので、既に、法要は慣れてしまい、感動はあまりないかなと内心思っておりました。しかし、最初の雅楽の音色が始まったとたん、感動のあまり、涙が出てきてしまい、慌てて、ハンカチを取り出した次第です。自分でも驚きましたが、阿弥陀如来に心をつかまれたような感覚でした。しかも、ご講師の法話が、とても、有難く、終始、涙と鼻水をハンカチで抑えながらのあっという間の2時間でした。しかも、私だけではなく、周りを見渡すと、お参りされている方の多くが私と同じように、ハンカチ片手に真剣に法話を聞かれていました。コロナ禍となり、以前よりも、仏様の話を聞く手段は、広がりました。これは、とても、有難いことです。しかし、一人で本を読んでいるよりも、インターネットで法話を聞くよりも、ライブにはかないません。なぜなら、南無阿弥陀仏「我にまかせよ」の阿弥陀如来のお呼び声が、お参りの方々の口を通じて聞こえてくるのです。既に、今、如来のはたらきは届いているのです。その後、国会見学に行かせてもらったのですが、自分で企画しておきながら、実は、あまり、期待はしていなかったのです。たぶん、ほとんどが、立ち入り禁止だったり、写真撮影NGだったり、警備が厳重で、警備の方も怖い対応なのだろうかと想像していたのですが、私の想像とは、まったく、逆でした。とても、楽しかったのです。もちろん、警備も厳しいし、写真NGのところもありましたが、ほとんどは、写真撮影もOKでしたし、案内の方が、親切に、丁寧に笑いを交えながら、案内して下さって、とても、とても、最高でした。世の中、期待しない方が、上手くいくとはこのことだなと思いました。