南無阿弥陀仏とは、私がお願いしたわけでもないのに、阿弥陀如来は、私のいるところに、いつでも、来てくださっていますという意味であります。阿弥陀如来を探す必要は無いのです。今、私の口に出てくださるのはその証拠であります。私が、阿弥陀如来に近づく事は、できないのです。近づく方法は、仏道修行のことでありますが、私が阿弥陀如来に、近づける道は何もないのであります。もし、そのようなことができるのであれば、阿弥陀如来は、私の元へわざわざおいでいただく必要はございません。必要があるから来てくださるのであります。皆さん、お友達と会う場合、自分の家が交通手段に不便な場合、向こうから迎えに行くよと言ってくださったら、これほど、楽な事はありません。「ありがとう」とお礼をすることでしょう。しかし、大丈夫だよとか、迎えに来なくていいよ、と断ってしまったら、せっかくの相手は好意が無駄になります。
阿弥陀如来の救いを、拒否しているのは、人間の側に問題があります。現在、ほとんどのご法事を、法徳寺で、お勤めさせていただきます。皆さん、お寺にわざわざ来てくださいます。ですから、私は、とてもありがたいです。土日ですと、かなりのご法事のご依頼を受ける為、お寺でお勤めくださるのが1番ありがたいのであります。いつでも私のいるところに阿弥陀如来は来てくださるのは、たとえ今が臨終でも私のお浄土参りは間違いないということであります。これは私が決めているのではなく、阿弥陀如来の方が決めてくださっているのであります。それが南無阿弥陀仏のお心であります。私たちの人生は、お浄土に、参らせていただく旅であります。しかも、その旅は、阿弥陀如来の船に乗せていただいている安心した旅であります。
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