浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

浄土への旅

2024-02-25 09:19:00 | お知らせ

南無阿弥陀仏とは、私がお願いしたわけでもないのに、阿弥陀如来は、私のいるところに、いつでも、来てくださっていますという意味であります。阿弥陀如来を探す必要は無いのです。今、私の口に出てくださるのはその証拠であります。私が、阿弥陀如来に近づく事は、できないのです。近づく方法は、仏道修行のことでありますが、私が阿弥陀如来に、近づける道は何もないのであります。もし、そのようなことができるのであれば、阿弥陀如来は、私の元へわざわざおいでいただく必要はございません。必要があるから来てくださるのであります。皆さん、お友達と会う場合、自分の家が交通手段に不便な場合、向こうから迎えに行くよと言ってくださったら、これほど、楽な事はありません。「ありがとう」とお礼をすることでしょう。しかし、大丈夫だよとか、迎えに来なくていいよ、と断ってしまったら、せっかくの相手は好意が無駄になります。
阿弥陀如来の救いを、拒否しているのは、人間の側に問題があります。現在、ほとんどのご法事を、法徳寺で、お勤めさせていただきます。皆さん、お寺にわざわざ来てくださいます。ですから、私は、とてもありがたいです。土日ですと、かなりのご法事のご依頼を受ける為、お寺でお勤めくださるのが1番ありがたいのであります。いつでも私のいるところに阿弥陀如来は来てくださるのは、たとえ今が臨終でも私のお浄土参りは間違いないということであります。これは私が決めているのではなく、阿弥陀如来の方が決めてくださっているのであります。それが南無阿弥陀仏のお心であります。私たちの人生は、お浄土に、参らせていただく旅であります。しかも、その旅は、阿弥陀如来の船に乗せていただいている安心した旅であります。






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誕の意味にビックリ

2024-02-23 20:20:00 | お知らせ
誕生日の「誕」という字は、嘘偽りという意味だと聞いて、私はびっくりした思い出があります。言葉を延ばすと言う語源から、きているようであります。誕生日とは、嘘偽りの世界に生まれたという意味になり、おめでたい意味では無いのであります。そんなことを言うと、天皇誕生日に失礼かとは思いますが、言葉の意味からすると、そうなります。この娑婆世界の言葉は、嘘偽りばかりです。ただ1つ真実の言葉は、仏様の言葉、真言であります。それが浄土真宗では、南無阿弥陀仏であります。私たちが、日常用いている言葉には、真実はありません。言葉は心から出ていると思いますが、言葉と心が一致しているとは、限らないのであります。もし、皆さんが周りの人や友人から、「最近、私、老けたかしら?」と言われたらどうなさいますか。心では、確かにそうねと思っていても、言葉では、「いえいえそんなことないと思うよ」と言うのではないでしょうか。きっと、私はそう言います。相手は、そう言って欲しいと思うからであります。お店の店員さんも、たとえお客様にこの服が似合わなかったとしても、お客様が気に入っていれば、「お似合いですね」と言う時があるのではないでしょうか。私も少し元気がない方や落ち込んでいる人であっても、「顔色もとてもいいしお元気そうですよ」とお声掛けすることもあります。そうすると、不思議にその方も、「あらそうかしら」じゃあ頑張らなきゃと、そんなお言葉を言われます。言葉と言うのは、人間にとって大事であり、たとえ、そこに真実は、なくても良いのだなと思います。しかし、この世でたった1つ、言葉と心が完全に一致している真実なる言葉が、南無阿弥陀仏です。今が臨終でも、私たちは救われます。なぜなら、私に、南無阿弥陀仏が届いているからであります。南無阿弥陀仏は阿弥陀如来様そのものであります。阿弥陀如来は言葉の仏様となられたのです。なぜなら、人間にとって言葉は最も大事なものであるからであります。
なぜ誕生日にはケーキを食べるのでしょうか?




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鈍感力でも逆らえない

2024-02-22 16:51:00 | お知らせ
皆さんの周りには、鈍感な人、自分勝手な人、大きな声を出して自分に従わせようとする人、周りの空気を読まない人、そんな方がいらっしゃると思います。逆に、何でも気がつき、神経質な人、敏感な人も、皆さんの周りにいらっしゃると思います。皆さんはどちらだと思いますか?日本人は全体的に見て鈍感力が高くないように思います。そのような鈍感力があり、身勝手な方を見て、神経質で繊細な方は腹を立てたり、嫌な思いをされると思います。みんな、自分の過去世の行いを、背負いそういう生き方しかできないのであります。そのような方を見て、私もあのような生き方が出来たら楽なのになぁ。「あーなりたいなぁ。こうなりたいなぁ」と思って、しばらくの間は、無理に真似して、そうなったつもりでいても、長続きはしません。過去世の行いが、今の自分をつくっているのです。過去世では、自分が鈍感で周りの方に、嫌な思いをさせていたのかもしれません。それが現世では、逆になっているだけの話であります。私には、鈍感になろうと思ってもダメみたいです。自分の人生は、自分で引き受けて生きていくしかありません。逆に鈍感な人は、もっと空気を読めるようになりたいなあー思っているかもしれません、隣の芝生はよく見えるのです。お互い様だと思います。私も昔、鈍感力と言う本がベストセラーになった時、早速読んで鈍感になろうと努力してみましたが、あんまり効果はありませんでした。でも大事なことだなぁということはわかりました。でも1番良いのは、仏教で言う中道です。鈍感でもなく神経質でもなく、その中間が1番良いのであります。

今日は1日夏みかんをむいてたら手が痛くなりました。明日からまた3連休です、明日は祝日㊗️天皇誕生日であります。天皇陛下の御命令を勅命と申します。私よりも上の世代の方には、お分かりかと思いますが、勅命は逆らうことのできないご命令です。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を本願召喚の勅命とお示しくださいます。いくら鈍感な人でも、阿弥陀如来は、あきらめることなく、十劫の昔から、「私を救う」と呼び続けてくださっていたのであります。私はそれに逆らい続けていたのです。しかし、その呼び声は、やっと現世において、私が聞かせていただいたのであります。

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人生はゲーム

2024-02-21 22:20:00 | お知らせ

皆さんは、見知らぬ方から、この世に、何のために生まれてきたのですか?そして、必ず、死んでいくのに、なぜ生きるのですか?そんな質問をされたら、この人、怪しいきっと何かの宗教の勧誘だわと、警戒されると思います。しかしながら、真実の宗教は、この問いの答えを持つ宗教であります。逆に偽の宗教には、誰でも楽に出会うことができます。真実の宗教には、出会うことは、稀な事です。だからこそ、今も私たちは迷いの中にいるのであります。日本人のほとんどの方は、偽の宗教で人生をごまかして、そして命を終わっていくのです。まず、そのような会話を、お友達同士などでする事は無いと思います。人間に生まれてきた目的は、幸せになるためと瀬戸内寂聴さんはおっしゃっていました。本当にその通りです、しかし、浄土真宗では、その幸せは、お浄土に生まれ仏様になることです。そう言われてもきっと多くの方は、その話しのどこが幸せなのですか?と思われると思います。私たちの幸せと言うのは、この世でお金に困らず、家族に恵まれ、友達に恵まれ、健康で長生きそれが幸せだと思っているからです。そして、死ぬのは、未来の話。未来の話を、今する必要がどこにあるのですか?と思われると思いますが、死は未来の話ではありません、今の話であります。仏教は、未来の話をしないのであります。前読んだ本に、「人生とは、必ず、ゲームオーバーになるゲームをしているようなものです。」と書いてありました。私はそれを読んだとき、救われた気持ちがいたしました。どんなに、頑張っても、どんなに楽しんでも、いつかはゲームオーバーになるのです。人生とは、それぐらいに考えたほうが、気が楽だと教えてくれました。人生を真剣に考えれば考えるほど、思い通りには行かず、計算通りには行かず、苦しみが増すだけでありませんか?そんな時人生はゲームなんだと、そのように思ってみて下さい。しかし、ゲームですが、楽しんだほうが良いのです。真剣にやった方が面白いのです。そして、ゲームには、人生と同じように様々な困難が待ち受けていますが、少しでもそのゲームが長続きするように頑張ってみてください。ゲームを、自分なりに楽しめば良いのであります。ゲームオーバーになっても、残念に思う必要はありません、なぜなら、必ずゲームオーバーになるようにプログラムされているのですから。そして、浄土真宗の救いは、既に今、阿弥陀如来の救いの中にある。いつゲームオーバーになっても、私の受け持ちではありません、阿弥陀如来にお任せであります。ゲームオーバーになったら、どうしようなどとゲーム中に心配してたら、楽しめません。私の心配事ではありません。受け持ちは阿弥陀如来であります。私が心配することを自力心といいます。蓮如上人は、「自力の心をふりすてて」とお示しくださっています。
そろそろ、梅の花も散り始めました。そして、木には小さな実がつき始めています。私たちも、お浄土で、成仏(仏果)をさせて頂くのです。



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他人の真似しない

2024-02-20 20:56:00 | お知らせ
私は常々、自分らしく生きたいと思います。そうすれば幸せな日々が送れると思うのでございます。ところが、そもそも、自分らしくとは何なのか?自分とは何なのか?何にもわからないのです。唯一、自分らしく生きれるのは、阿弥陀如来様と私との関係の中だけなのだと思います。阿弥陀如来は、私の心の中までも、全てをご存知でございます。地獄にしか生きようのない生き方、来世は、また、六道輪廻の中にある生き方しかできない。だからこそ、私のことを救わずにはおけないのであります。人間と人間の関係の中、本当に自分らしく生きたら、みんな、お互いわがままで、自己中心的で、互いに譲らず、あちらこちらで、喧嘩が起こり、争いが起こり、阿修羅の世界になるのであります。今の時代、自分らしくいきましょう、自分に正直に生きましょう。とあちらこちらで言われ、たくさんの本が出ています。私もそのタイトル本は大好きなので、つい手を出してしまいますが、あんまり長続きはしません。
結局、自分らしくなど生きられないのが、この娑婆世界だと諦めたほうがいいのかもしれません。そして、自分らしく生きている人を、羨ましく思わないほうが良いです。お互い、過去世の行いが違うのですから、この現世での生き方も、みんなそれぞれ違うのであります。他人の真似をしようと思っても無理です。空気の読めない人とか、図々しい人とか、自分勝手な人と思われるのがオチではないかと思います。しかし、自分の思いは言葉にしないと、相手には伝わらないのは事実です。相手は、自分の気持ちをわかってくれているだろうなどと言うのは勘違いです。それでも、私は、毎日自分らしくとは、何なのだろうか?と常々考えながら生きております。今日も近場の山に歩きに行きました、早くもアセビが咲き始めていました。アセビは、アセビのままで美しく一生懸命に生き、咲いているのでございます。他の花になろうなどとは思っていないでしょう。




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