『天使は黒い翼をもつ』 は、ティモシー・サンブレードが淡々として語る物語。
ぼくは、静かに耳を傾ける。
全ての情景が、無声映画のスクリーンを眺めるように流れていく。
読みやすく、飽きることなく最終章まで。
2021年版 このミステリーがすごい! 海外編 第6位
女は何も言わなかった。
ラベンダー色がかったグレーの目をしていた。クリーム色の混じった明るい金色の髪は弾力がありそうで、完全な巻き毛とまではいかないが、うねりながら顔を取りまいていた。・・・・・・
それから足があった。赤ん坊みたいに幅が広く、ふっくらとしていて、寸詰まりの足。濡れてきらめいている茶色のスエードの靴は高価そうだった。
ベッドサイドの小さなラジオからしょつちゅう流れていたあの曲みたい、と彼女は言い、こう歌った。
「あなたにお金があるというのなら、ハニー、わたしには時間がある」
ひどい歌詞、ひどい曲の三文流行歌が、名門女子大のお嬢様然とした、口を閉ざし気味にしてのおしとやかな発声法で歌われると、なんとも奇妙な感じがした。
「でも、お金が尽きるときがきたら」彼女が言った。「わたしも消える。わたしはもう興奮を求めて寝たりしない」
「過去にそんなことがあったとでも?」
「お金がないところでは何もかもすべて悪臭を放つ」
「ほぼすべてだろ」
「いつかまたお金のなかで転げまわりたい。素っ裸になって、ひんやりする緑色の百ドル札のお風呂に入るの」
「<また>って言ったよな?」
「そうだった?」相手をじらそうとするかのように。
「とぼけないでくれ」
「何か問題でも?」
「いや、何も」俺が言った。
「悪い金じゃない」彼女がどんな人間か探りを入れようと、試しに口にしてみた。
「悪いお金なんてない」
「そうか?」
「けどね、ダーリン。どうせお金を手に入れるなら、どっさり、大量にものにしないと。少しぐらい手に入れたって、根性が腐り、しみったれるだけ」
あの女ぐらい朝食を料理する姿が似つかわしくない人間はいない。
「少々、酒に頼りすぎてないか? けじめをきっちりつけられる子かと思ってたんだが。前に言ってたよな。酒と愛はよく似ている。酒も女もその真価を知るには、しばらく離れている必要がある、だったけか?」
ヴァージニアがくすくす笑った。「わたし、ほんとうにそんなこと、言った?」
「言ったとも」
「紳士ぶった態度のことだけは何がなんでもはっきりさせておきたい。この世のなかなあってわたしが耐えられないただひとつのもの、それが紳士という人種。これまでずいぶん長いこといっしょの時間を過ごしてきたというか、あまりにもいっしょにいすぎたせいね。なぜ連中があんなふうにふるまうのか、わたしは知っている。現実のいろいろなことを試み、そのことごとくに失敗した結果、彼らはあんなふうにふるまおうと決意した。」
「紳士なんて、傷みをきれいさっぱり消し去ったドアマットみたいもの」
ニューオーリンズにきて、湯水のように金を使うようになってから、ヴァージニアは人が変わってしまった。だらだらとベッドのなかにいて、入浴と身づくろいにたっぷりと時間をかけた。毎朝、金歯の女が部屋にきて、ヴァージニアの髪をいじくるとか、あごにローションをぽんぽんつけるとか、愚にもつかないことばかりをやっていた。俺たちは裕福な若者たちからなる夜遊びグループと知り合った。
ヴァージニアが美女だらけの部屋に入るのを目にしたことがある。ローラリーやその他の女はそれまで美しい姿形を備え、くっきりとした明確な色彩を保持していた。ところがヴァージニアが入ってきた途端、形と質感と色調を失い、ヴァージニアがその場にいる間、コーラの瓶底越しに見ているかのように他の女の姿はぼやけきってしまうのだった。
「あなたは体も大きいし、いかにも健康そうに見える」ヴァージニアが笑った。「ベッドでもすごいし、いびきだってかかない。でも、ぞっとする」
タバコはまずかった。
「いじめられた雄ネコみたいにうろうろしてるし、目だってまともじゃない。ものすごく完璧だというのに、ものすごくぞっとする。昨日の夜もそう。クンクン嗅ぎまわりながらほっつき歩き、小川まで行ってバチャバチャやっていたかと思うと、戻ってきて新聞を読んでたじゃない」
「それだけか?」俺はヴァージニアのすぐそばにすわっていた。口元をぶん殴ってやりたかった。だがそれにも増して、続きの言葉が聞きたかった。
俺としては事実をまんま伝えようとしているつもりなのだが、現実の人生というのは、それぞれがたがいに強い関連性をもって押しよせては引いていくさざなみのような出来事の連続などではない。サイズごとに等級分けされているわけでも、アルファベットのように一定の順番にしたがってパターン化されているわけでもない。くだらない些事の山にすぎず、それらが集まったからといってなんらかのまとまりが生じるわけでもない。次々に生起し、時間をやりすごしているだけのこと。
夜になるのを待っているとき、俺が考えていたのはこんなことだった。金持ちになると、夜がくるまでたっぷり待たなければならないように思える。昼の光は垢抜けてもいなければ、謎めいてもいないし、多かれ少なかれ、発汗と再生を促さずにはおかないからだ。
長い間、閉じ込められていなければ自由の本当の意味はわからない。
『 天使は黒い翼をもつ/エリオット・チェイズ/浜野アキオ訳/扶桑社ミステリー 』
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