■流れは、いつか海へと/ウォルター・モズリイ 2021.5.3
題名からして、素敵なミステリ。
ウォルター・モズリイの 『流れは、いつか海へと』 を読みました。
物語初めの数ページを読んだだけで期待に胸が膨らみます。
モンタギュー通りの眺めは、三階より二階の窓からのほうかいい。二階からなら、通りを行き交う勤め人の顔に刻まれた皺まで見ることができる。彼らはそこに立ち並ぶ洒落た店や銀行から次第次第に縁遠くなりつつある。わけても新参の事業者は、土砂から砂金を選り分ける探鉱者のようなもので、百万ドルのコンドミニアムに住み、高級ブランドの服を身に着け、フランス料理店で食事をし、一本百ドルのワインをあける一握りの富裕層しか相手にしない。
十一年前、このオフィスを借りたときには、古本屋や古着屋が何軒もあったし、ブルックリン・ハイツの失業者の群れを腹いっぱいにするファーストフード店も多かった。そんなときに、クリストフ・へールという男から更新可能な二十年契約で部屋を貸すという話を持ちかけられた。息子のレイフ・ヘールが誘いを断わられたというだけで女性に残忍な暴力行為を加えた事件を、グラッドストーン・パーマーという刑事が揉み消してやったからだ。
その三年後、レイフはまた別の暴力事件を起こし、故殺罪で刑務所にぶちこまれた。だが、それはわたしとはなんの関係もない。賃貸契約はそのときすでに発効していた。
母方の祖母かよく言っていたように、ひとには応分のおさまりどころというものかある。
十三年前には、わたしも刑事だった。わたしなら、レイフを最初の暴行事件のとき刑務所にぶちこんでいただろう。もちろん、ほかの者がどう考えるかはわからない。誰もが同じルールに従っているわけではない。法は、そのどちら側にいる者にとっても、応用のきくものであり、その度合いは状況や人柄、そしてもちろん富の有無によって変わる。
当時のわたしの女性に関する問題は性欲だった。微笑まれたり、ウィンクをされただけで、ジョー・キング・オリヴァー一級刑事は、任務や決まりや誓約や常識を忘れ、一陣の風や、うまいビールや、流行りすたりの激しい街区と同じ一過性のものに飛びついたり、ほのめかしに引っかかってしまっていた。
この十数年間は以前ほど性的衝動の影響を受けていない。もちろん、いまでも女性は美しく、称賛に値するものだと思っている。けれども、前回、本能のままに動いて大やけどをしたため、わたしの女癖の悪さは大幅に改善されていた。
ジョー・キング・オリヴァー刑事は、その性癖ゆえにとんでもないツケを払わされる結果となった。
「また拘置所のことを考えているの、パパ」
「えっ、なんだって」と、わたしは訊いた。
「そんなふうに窓の外を見ているときはいつもそう。いつも拘置所のことを考えてる」
「そこで破滅させられてしまったからだよ」
「そこまでひどいところとは思えないけど」それは以前わたし自身が口にした言葉だった。
エイジが小さいころ、学校に行きたくないと駄々をこねたときに、そう言ったのだ。
オリヴァー刑事は、人を惹きつける魅力を持っている。
妻のモニカ以外。
メルカルト・フロスト、エフィー・ストーラーしかり。
わたしは超常現象を信じていない。だが、わたしの知人のなかには、わたしのなかに隠されているものを見抜く力を持っていると思われる者が何人かいる。それは知性かもしれないし、わたしの理解の範囲を超える認知力かもしれない。いずれにせよ、わたしは理屈抜きでそういった者たちを信頼している。一度きりしか会っていないが、マルゲリータ・ストーレルもそのひとりだ。
「あんたは人の心が読めるのかい、ミスター・チャールズ」
「いいや、それ以上だ。おれは人そのものが読めるんだ」
エフィー・ストーラーは、元売春婦。人生経験豊富な他人を思いやれる心優しい女性。
エフイーはテーブルを見つめながら言った。「今朝、目を覚ましたとき思ったの、あいつを生かしといちゃいけないって」
「どうして?」
「新しい娘が入ったの。とてもきれいな娘よ」
「嫉妬したのか」
「その娘が殴られるのを見たとき、何かが吹っ切れた。そのとき一度死んで、天国の門番から説教されたような気がした。もう一度チャンスをやるから、現世に戻って、しなきゃならないことをしてこいって。それで、一晩ぐっすり寝て、どうやってそれを実行に移すか考えた」
トゥーフは悪の権化のような男であり、エフィーはただ単に利用されていたにすぎない。逮捕されるのは覚悟の上だろうが、それでは割りがあわない。トゥーフは当然の報い受けただけだ。
その部屋には裏口があった。わたしはエフィーを立ちあがらせ、しばらくのあいだ身を隠すことができる場所を教えた。それから拳銃を自分のズボンの後ろに押しこみ、職務規程どおり殺人課の刑事を呼んだ。
「エフィーとは変態的なプレイも含めて多くのセックスをした。だが、そうしたことは関係ない。誰かと本当に通じあうためには、相手の心に寄り添うことが絶対条件になる。
わたしたちは新しい関係を望んでいる。愛しているから友だちになれると思っている。そのことを説明するのに四ブロックかかった。
エフィーは言った----まず最初に、あなたはわたしが罪に問われないよう手をさしのべてくれた。あなたが落ちこみ、わたしを受けいれたとき、わたしはあなたを救命いかだのようにしてみずからの窮地を切り抜けた。だから、ふたりいっしょに安全な海へ乗りだすことかできた……
電話を切ったときには、隠れ家の玄関口に着いていた。
ここら辺の事情が、本作品の題名となったのか。
メルカルト・フロストは、今は時計職人、元犯罪者。
彼の愛車は、年代物のフォード・ギャラクシー500、住まいはスタテン島の小さな町にある打ち捨てられた教会。
“冥界への河を渡る”ところに住む悪魔のような男。
悪魔であるがゆえに、一般的社会常識抜きで徹底的にオリヴァーを助ける。
深紅のジャケットにウォルナット色のズボンといういでたちで、メルは窓辺の椅子に腰かけ、モンタギュー通りを眺めていた。わたしを見ると、手を振り、かすかに口もとをほころばせた。悪魔はご機嫌麗しく見える。ウィスキーを飲んできてよかった。
ニューヨーク市警を追われて十数年後、ジョー・オリヴァーのもとに、ナタリ・マルコムから、真相を告白する手紙が届く。
エイジア=デニス・オリヴァーは、高校生に成長した。
祖母は目と耳を集中させ、おそらく臭いまで嗅ぎ分けようとしている。
話が終わると、こう言った。「無理をしてでもやりなさい。ペイビー。大事なのは、何が正しくて、何が正しくないか、わかってるかどうかってことよ。過去に間違ったことをしても、どうすればそれを正しい方向に戻せるか知ったら、あとはもうやるっきゃない」話に熱が入ると、ときおりミシシッピ訛りが出る。
「わかってる。それくらいのことはまえからわかっていたよ」
「……それに、これまではもっと大事なことがあった」
「探偵の仕事?」
「ちがうよ、お馬鹿さん。エイジア=デニスのことよ。これまでは自分のことより、あの子の成長を見守ってやることを優先させなきゃならなかった。当たりまえのことでしょ」
全部言われたので、わたしは何も言えなかった。
市警時代の友人、グラドストーン・パーマーが所々で顔を出す。
このような友人は、得てして、実は……と言うことになるのだが。
この物語では、どのような解決となるのか。 この解決は素適だ。
『 流れは、いつか海へと/ウォルター・モズリイ/田村義進訳/ハヤカワ・ミステリ 』
題名からして、素敵なミステリ。
ウォルター・モズリイの 『流れは、いつか海へと』 を読みました。
物語初めの数ページを読んだだけで期待に胸が膨らみます。
モンタギュー通りの眺めは、三階より二階の窓からのほうかいい。二階からなら、通りを行き交う勤め人の顔に刻まれた皺まで見ることができる。彼らはそこに立ち並ぶ洒落た店や銀行から次第次第に縁遠くなりつつある。わけても新参の事業者は、土砂から砂金を選り分ける探鉱者のようなもので、百万ドルのコンドミニアムに住み、高級ブランドの服を身に着け、フランス料理店で食事をし、一本百ドルのワインをあける一握りの富裕層しか相手にしない。
十一年前、このオフィスを借りたときには、古本屋や古着屋が何軒もあったし、ブルックリン・ハイツの失業者の群れを腹いっぱいにするファーストフード店も多かった。そんなときに、クリストフ・へールという男から更新可能な二十年契約で部屋を貸すという話を持ちかけられた。息子のレイフ・ヘールが誘いを断わられたというだけで女性に残忍な暴力行為を加えた事件を、グラッドストーン・パーマーという刑事が揉み消してやったからだ。
その三年後、レイフはまた別の暴力事件を起こし、故殺罪で刑務所にぶちこまれた。だが、それはわたしとはなんの関係もない。賃貸契約はそのときすでに発効していた。
母方の祖母かよく言っていたように、ひとには応分のおさまりどころというものかある。
十三年前には、わたしも刑事だった。わたしなら、レイフを最初の暴行事件のとき刑務所にぶちこんでいただろう。もちろん、ほかの者がどう考えるかはわからない。誰もが同じルールに従っているわけではない。法は、そのどちら側にいる者にとっても、応用のきくものであり、その度合いは状況や人柄、そしてもちろん富の有無によって変わる。
当時のわたしの女性に関する問題は性欲だった。微笑まれたり、ウィンクをされただけで、ジョー・キング・オリヴァー一級刑事は、任務や決まりや誓約や常識を忘れ、一陣の風や、うまいビールや、流行りすたりの激しい街区と同じ一過性のものに飛びついたり、ほのめかしに引っかかってしまっていた。
この十数年間は以前ほど性的衝動の影響を受けていない。もちろん、いまでも女性は美しく、称賛に値するものだと思っている。けれども、前回、本能のままに動いて大やけどをしたため、わたしの女癖の悪さは大幅に改善されていた。
ジョー・キング・オリヴァー刑事は、その性癖ゆえにとんでもないツケを払わされる結果となった。
「また拘置所のことを考えているの、パパ」
「えっ、なんだって」と、わたしは訊いた。
「そんなふうに窓の外を見ているときはいつもそう。いつも拘置所のことを考えてる」
「そこで破滅させられてしまったからだよ」
「そこまでひどいところとは思えないけど」それは以前わたし自身が口にした言葉だった。
エイジが小さいころ、学校に行きたくないと駄々をこねたときに、そう言ったのだ。
オリヴァー刑事は、人を惹きつける魅力を持っている。
妻のモニカ以外。
メルカルト・フロスト、エフィー・ストーラーしかり。
わたしは超常現象を信じていない。だが、わたしの知人のなかには、わたしのなかに隠されているものを見抜く力を持っていると思われる者が何人かいる。それは知性かもしれないし、わたしの理解の範囲を超える認知力かもしれない。いずれにせよ、わたしは理屈抜きでそういった者たちを信頼している。一度きりしか会っていないが、マルゲリータ・ストーレルもそのひとりだ。
「あんたは人の心が読めるのかい、ミスター・チャールズ」
「いいや、それ以上だ。おれは人そのものが読めるんだ」
エフィー・ストーラーは、元売春婦。人生経験豊富な他人を思いやれる心優しい女性。
エフイーはテーブルを見つめながら言った。「今朝、目を覚ましたとき思ったの、あいつを生かしといちゃいけないって」
「どうして?」
「新しい娘が入ったの。とてもきれいな娘よ」
「嫉妬したのか」
「その娘が殴られるのを見たとき、何かが吹っ切れた。そのとき一度死んで、天国の門番から説教されたような気がした。もう一度チャンスをやるから、現世に戻って、しなきゃならないことをしてこいって。それで、一晩ぐっすり寝て、どうやってそれを実行に移すか考えた」
トゥーフは悪の権化のような男であり、エフィーはただ単に利用されていたにすぎない。逮捕されるのは覚悟の上だろうが、それでは割りがあわない。トゥーフは当然の報い受けただけだ。
その部屋には裏口があった。わたしはエフィーを立ちあがらせ、しばらくのあいだ身を隠すことができる場所を教えた。それから拳銃を自分のズボンの後ろに押しこみ、職務規程どおり殺人課の刑事を呼んだ。
「エフィーとは変態的なプレイも含めて多くのセックスをした。だが、そうしたことは関係ない。誰かと本当に通じあうためには、相手の心に寄り添うことが絶対条件になる。
わたしたちは新しい関係を望んでいる。愛しているから友だちになれると思っている。そのことを説明するのに四ブロックかかった。
エフィーは言った----まず最初に、あなたはわたしが罪に問われないよう手をさしのべてくれた。あなたが落ちこみ、わたしを受けいれたとき、わたしはあなたを救命いかだのようにしてみずからの窮地を切り抜けた。だから、ふたりいっしょに安全な海へ乗りだすことかできた……
電話を切ったときには、隠れ家の玄関口に着いていた。
ここら辺の事情が、本作品の題名となったのか。
メルカルト・フロストは、今は時計職人、元犯罪者。
彼の愛車は、年代物のフォード・ギャラクシー500、住まいはスタテン島の小さな町にある打ち捨てられた教会。
“冥界への河を渡る”ところに住む悪魔のような男。
悪魔であるがゆえに、一般的社会常識抜きで徹底的にオリヴァーを助ける。
深紅のジャケットにウォルナット色のズボンといういでたちで、メルは窓辺の椅子に腰かけ、モンタギュー通りを眺めていた。わたしを見ると、手を振り、かすかに口もとをほころばせた。悪魔はご機嫌麗しく見える。ウィスキーを飲んできてよかった。
ニューヨーク市警を追われて十数年後、ジョー・オリヴァーのもとに、ナタリ・マルコムから、真相を告白する手紙が届く。
エイジア=デニス・オリヴァーは、高校生に成長した。
祖母は目と耳を集中させ、おそらく臭いまで嗅ぎ分けようとしている。
話が終わると、こう言った。「無理をしてでもやりなさい。ペイビー。大事なのは、何が正しくて、何が正しくないか、わかってるかどうかってことよ。過去に間違ったことをしても、どうすればそれを正しい方向に戻せるか知ったら、あとはもうやるっきゃない」話に熱が入ると、ときおりミシシッピ訛りが出る。
「わかってる。それくらいのことはまえからわかっていたよ」
「……それに、これまではもっと大事なことがあった」
「探偵の仕事?」
「ちがうよ、お馬鹿さん。エイジア=デニスのことよ。これまでは自分のことより、あの子の成長を見守ってやることを優先させなきゃならなかった。当たりまえのことでしょ」
全部言われたので、わたしは何も言えなかった。
市警時代の友人、グラドストーン・パーマーが所々で顔を出す。
このような友人は、得てして、実は……と言うことになるのだが。
この物語では、どのような解決となるのか。 この解決は素適だ。
『 流れは、いつか海へと/ウォルター・モズリイ/田村義進訳/ハヤカワ・ミステリ 』
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