■眠れない夜に思う、憧れの女たち 250203
女性が、自力して生きる事が難しかった時代に、敢えて、自らの人生を果敢に切り開いた女性たちの
(物語のような)ノンフィクションです。
当時の女性は、親の所有物であり、嫁げば夫の、未亡人になれば息子に引き継がれた。
自分らしく生きるなんて不可能な時代に、彼女たちは生きたいように生き抜いた。
550ページにわたる長い話ですが、読みやすく飽きずに面白く読みました。
この旅に出てしばらく経つ、心を奮い立たせる忘れられた夜の女たちは増える一方だ。私の脳内で
世紀をまたいで彼女たちの繋がりは広がり続け、世界各地で生きていた女たちが混ざりあう。
メアリー、カレン、イーダ、ネリー、マーサ、アレクサンドラ、ソフォニスバ、バッティスタ----
彼女たちは作家であり、画家であり、探検家であり、鬱になった未婚女性であり、従軍記者であり、
ルネサンスの貴族の妻だ。
彼女たちが、私が夜に思う女たちである。
牡蝸やジュースやロイヤルゼリー以外、まともに食べられなかった。体重は骨と皮ばかりの三十八キ
ロまで落ち、七十代なのに百歳のようだった。それでも彼女は生きることに貪欲だった。パリでは、
午後はずっと嘔吐して昏睡状態に近かったのに、夜になると「目も眩むようなパーティーへ」、おそ
らくアンフェタミンにたよりながら出かけていくこともあった。
「サラブレッドは倒れるまで走り続ける」とカレンは自分について書いている。
一九六二年九月、カレンは自宅で亡くなった。七十七歳だった。マリリンが亡くなってほんのひと
月後に。終わりに近いころは、カレソはもはや歩くことも立つこともできなかったのではないか。
それでも書くことは続けた。晩年の作品は、床やベットに横たわりながら秘書に書き取らせていた。
最後の出版契約書にサインしたのは、亡くなるたった二日前だった。
ルンドステッドの書き物机のそばに立っていると、泡だつ海が目に飛び込んでくる。カレンの「真
の理想像」は、アフリカでの人生にも、ましてや彼女の才能が発揮された輝かし人生にもなかったの
かもしれない。彼女の真の理想像は、「家族も仕事も家もあとにした四十代の女」として、自分をふ
たたび見いだせたところにあるのだ。
彼女は四十六歳で私たちの知る彼女になった。
彼女は「書きはじめた」。
彼女はあらゆることを経て作家になった。もっとも偉大な作家のひとりに。
本の挿絵の銅版画を見るとヨーロッパ人が想像した美化された遠方の国々がかいま見えるかもしれ
ないが、もういってみるしかない。イーダには十分な余裕もなく、わずかな貯金を旅費にあてた。
実用的な人間である彼女は出発前に髪を短く切った。これは彼女の思いきった行動のひとつだ。この
当時、女性で髪を短くしていたのは囚人か精神病患者くらいだったのだから。
一八四二年三月、イーダはウィーンで蒸気船に乗った。
夜の女の助言を書きとめる。「アフリカを旅するときは、つねに夫を捜せ。」
あえて恐れなかった。とメアリーは書いた。どんなことに遭遇しようとも、とにかく前向きに明る
く受け止めたほうがいいと西アフリカを旅するすべての人に勧めている。彼女の経験から、これが恐
怖に呑まれないようにする唯一の方法だった。
夜の女の助言を書きとめる。「アフリカを旅するときは、笑いを絶やすな」
大好きなメアリー、夜の女たちの助言はこれね。「自分の卑下するな」
旅をすることの意味はまさにこの「見ること」にあるように思う。見たものを「書きとめること」
に。書くたびに、世界はもっとすばらしく、もっと深い意味をどことなくふしぎと帯びてくるからだ。
書いてようやく「わかり」はじめる。
夜の女たちの助言。「毎晩、書け」
『 眠れない夜に思う、憧れの女たち/ミア・カンキマキ/末延弘子訳/草思社 』
女性が、自力して生きる事が難しかった時代に、敢えて、自らの人生を果敢に切り開いた女性たちの
(物語のような)ノンフィクションです。
当時の女性は、親の所有物であり、嫁げば夫の、未亡人になれば息子に引き継がれた。
自分らしく生きるなんて不可能な時代に、彼女たちは生きたいように生き抜いた。
550ページにわたる長い話ですが、読みやすく飽きずに面白く読みました。
この旅に出てしばらく経つ、心を奮い立たせる忘れられた夜の女たちは増える一方だ。私の脳内で
世紀をまたいで彼女たちの繋がりは広がり続け、世界各地で生きていた女たちが混ざりあう。
メアリー、カレン、イーダ、ネリー、マーサ、アレクサンドラ、ソフォニスバ、バッティスタ----
彼女たちは作家であり、画家であり、探検家であり、鬱になった未婚女性であり、従軍記者であり、
ルネサンスの貴族の妻だ。
彼女たちが、私が夜に思う女たちである。
牡蝸やジュースやロイヤルゼリー以外、まともに食べられなかった。体重は骨と皮ばかりの三十八キ
ロまで落ち、七十代なのに百歳のようだった。それでも彼女は生きることに貪欲だった。パリでは、
午後はずっと嘔吐して昏睡状態に近かったのに、夜になると「目も眩むようなパーティーへ」、おそ
らくアンフェタミンにたよりながら出かけていくこともあった。
「サラブレッドは倒れるまで走り続ける」とカレンは自分について書いている。
一九六二年九月、カレンは自宅で亡くなった。七十七歳だった。マリリンが亡くなってほんのひと
月後に。終わりに近いころは、カレソはもはや歩くことも立つこともできなかったのではないか。
それでも書くことは続けた。晩年の作品は、床やベットに横たわりながら秘書に書き取らせていた。
最後の出版契約書にサインしたのは、亡くなるたった二日前だった。
ルンドステッドの書き物机のそばに立っていると、泡だつ海が目に飛び込んでくる。カレンの「真
の理想像」は、アフリカでの人生にも、ましてや彼女の才能が発揮された輝かし人生にもなかったの
かもしれない。彼女の真の理想像は、「家族も仕事も家もあとにした四十代の女」として、自分をふ
たたび見いだせたところにあるのだ。
彼女は四十六歳で私たちの知る彼女になった。
彼女は「書きはじめた」。
彼女はあらゆることを経て作家になった。もっとも偉大な作家のひとりに。
本の挿絵の銅版画を見るとヨーロッパ人が想像した美化された遠方の国々がかいま見えるかもしれ
ないが、もういってみるしかない。イーダには十分な余裕もなく、わずかな貯金を旅費にあてた。
実用的な人間である彼女は出発前に髪を短く切った。これは彼女の思いきった行動のひとつだ。この
当時、女性で髪を短くしていたのは囚人か精神病患者くらいだったのだから。
一八四二年三月、イーダはウィーンで蒸気船に乗った。
夜の女の助言を書きとめる。「アフリカを旅するときは、つねに夫を捜せ。」
あえて恐れなかった。とメアリーは書いた。どんなことに遭遇しようとも、とにかく前向きに明る
く受け止めたほうがいいと西アフリカを旅するすべての人に勧めている。彼女の経験から、これが恐
怖に呑まれないようにする唯一の方法だった。
夜の女の助言を書きとめる。「アフリカを旅するときは、笑いを絶やすな」
大好きなメアリー、夜の女たちの助言はこれね。「自分の卑下するな」
旅をすることの意味はまさにこの「見ること」にあるように思う。見たものを「書きとめること」
に。書くたびに、世界はもっとすばらしく、もっと深い意味をどことなくふしぎと帯びてくるからだ。
書いてようやく「わかり」はじめる。
夜の女たちの助言。「毎晩、書け」
『 眠れない夜に思う、憧れの女たち/ミア・カンキマキ/末延弘子訳/草思社 』
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