■黒牢城/米澤穂信 2021.11.8
進めば極楽、退かば地獄----
勇み声が難波潟を渡っていく。戦え、戦え、それこそが救いへの道であると、声が人を駆り立てる。
天正六年、荒木村重は有岡城に立て籠もり織田信長に叛旗を翻す。
織田軍は、有岡城を取り囲みはするが寄せてはこない。
籠城を強いられるなか、城内では難事件が次々と起こる。
村重は、動揺するも人心を落ち着かせるため、土牢に幽閉した黒田官兵衛に謎を解くよう話しかける。
官兵衛には、心に秘すことあり。村重を我が意に誘い込もうとする........
官兵衛という男は、よく切れる。切れるがゆえに、小寺家で宿老たちを差し置いて主君の信をを得た。切れるがゆえに、小寺は織田に付くべしと訴えた。そして、切れるがゆえに小寺の重臣では満足せず、織田に近づいて、羽柴筑前守秀吉の臣であるかのごとく振る舞った。それほどに切れ、また切れることを誇らずにはいられぬのが黒田官兵衛という男だ。
もとより武士とはそういうものだ。刀法に優れたる者は刀法を、算術に長けたる者は算術を、軍略に秀でた者は、軍略を用いずにはいられない。一所懸命の鎌倉武士はいざ知らず、当世の武士は、技量が認められぬときは主家を渡り歩いてでも、おのが器量を添加にならそうとするものである。その中でも官兵衛の業は、ことに深いと村重は見た。
「そう急かれますな。そのような些事より、それがし、先般より知りとうてたまらぬことがござってな。この機に、是非にも摂津守様にお尋ね申したい」
村重は、黙った。戦場で鍛えた勘が働く。----問わせてはならぬ。黒田官兵衛は掌で転がせる男ではなかったやもしれぬ。おのれは土牢に下るべきではなかったやもしれぬ。この男は剣呑だ----勘が、そう囁いている。
しかし、村重は官兵衛を拒むことは出来ない。このまま牢を去れば城は落ちる。それもまた、勘が告げるところであった。
「それがしが狙ったのは、かの牢番の命にござる」
空言と罵りかけて、村重はことばを呑む。たしかに官兵衛の言った通り、村重は生きており牢番は死んだ。村重は、官兵衛はその場しのぎの出まかせを言っているだけと思おうとした。だがどうにも、そうとは思えなかった。
「あの男が、おぬしに何をした」
「儂は、<寅申>が惜しい。千万の兵に死ねと命じてきた儂が、おのれのものは茶壺一つが惜しゅうてならぬ。千代保、おぬしは儂を笑うか」
「笑いませぬ」
千代保は、即座答えた。
「この穢土では、愛着は既にして苦にありますれば」
「ふ」
村重は笑みを洩らした。
『 黒牢城/米澤穂信/角川書店 』
進めば極楽、退かば地獄----
勇み声が難波潟を渡っていく。戦え、戦え、それこそが救いへの道であると、声が人を駆り立てる。
天正六年、荒木村重は有岡城に立て籠もり織田信長に叛旗を翻す。
織田軍は、有岡城を取り囲みはするが寄せてはこない。
籠城を強いられるなか、城内では難事件が次々と起こる。
村重は、動揺するも人心を落ち着かせるため、土牢に幽閉した黒田官兵衛に謎を解くよう話しかける。
官兵衛には、心に秘すことあり。村重を我が意に誘い込もうとする........
官兵衛という男は、よく切れる。切れるがゆえに、小寺家で宿老たちを差し置いて主君の信をを得た。切れるがゆえに、小寺は織田に付くべしと訴えた。そして、切れるがゆえに小寺の重臣では満足せず、織田に近づいて、羽柴筑前守秀吉の臣であるかのごとく振る舞った。それほどに切れ、また切れることを誇らずにはいられぬのが黒田官兵衛という男だ。
もとより武士とはそういうものだ。刀法に優れたる者は刀法を、算術に長けたる者は算術を、軍略に秀でた者は、軍略を用いずにはいられない。一所懸命の鎌倉武士はいざ知らず、当世の武士は、技量が認められぬときは主家を渡り歩いてでも、おのが器量を添加にならそうとするものである。その中でも官兵衛の業は、ことに深いと村重は見た。
「そう急かれますな。そのような些事より、それがし、先般より知りとうてたまらぬことがござってな。この機に、是非にも摂津守様にお尋ね申したい」
村重は、黙った。戦場で鍛えた勘が働く。----問わせてはならぬ。黒田官兵衛は掌で転がせる男ではなかったやもしれぬ。おのれは土牢に下るべきではなかったやもしれぬ。この男は剣呑だ----勘が、そう囁いている。
しかし、村重は官兵衛を拒むことは出来ない。このまま牢を去れば城は落ちる。それもまた、勘が告げるところであった。
「それがしが狙ったのは、かの牢番の命にござる」
空言と罵りかけて、村重はことばを呑む。たしかに官兵衛の言った通り、村重は生きており牢番は死んだ。村重は、官兵衛はその場しのぎの出まかせを言っているだけと思おうとした。だがどうにも、そうとは思えなかった。
「あの男が、おぬしに何をした」
「儂は、<寅申>が惜しい。千万の兵に死ねと命じてきた儂が、おのれのものは茶壺一つが惜しゅうてならぬ。千代保、おぬしは儂を笑うか」
「笑いませぬ」
千代保は、即座答えた。
「この穢土では、愛着は既にして苦にありますれば」
「ふ」
村重は笑みを洩らした。
『 黒牢城/米澤穂信/角川書店 』
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