■ニューヨーク1954/デイヴィッド・C・テイラー 2018.6.25
一九五四年はすばらしい年になるだろう。核兵器のことなど忘れろ。赤の脅威など忘れろ。今夜のニューヨークは明日への喜びでわくわくしている。生きているのは楽しい。
いい仕事に就いていて、ポケットに金があり、きれいな女を連れていればなおさらだ。
久々に面白いハードボイルド小説を堪能しました。
このような物語です。 /翻訳ミステリー大賞 シンジケート/
ぼくは、ハードボイルド小説を読むと、何時もエドワード・ホッパーの 『ナイトホークス』 を思い浮かべてしまいます。
エドワード・ホッパー/ナイトホークス
ニューヨークが美しく描かれています。
雨上がりのニューヨークは明るくさわやかな最高の朝を迎えていた。春の装いをした女たちはどきりとするほど美しく、冬の牢獄から解放されて希望にあふれていた。人々の足取りは軽く、タクシーもクラクションを鳴らすのを忘れている。生きている者にはすばらしい日だった。
この都市で生きる
十一時半にチャーリー・パーカーが現れてセッションに加わり、少し遅れてビリー・ホリディが厨房を抜けてはいってきた。彼女はピアノに寄りかかって、しばらく何もせずに煙草を吸っていたが、やがてガーナーに導かれて《イージー・リヴィング》を歌いはじめた。なんと。ビリー・ホリディが。
冷たいグラス、からんという氷の音、スコッチの辛み、それらが彼を、なんだろう? クールにし、舞いあがらせ、抑え、窮屈な日常の行路から解放してくれた。酒と音楽が彼を昼間の自分、ほかのみんなにこうだと思われている自分から自由にしてくれた。夜と酒と音楽とで血が沸きたち、彼は飛んでいた。ホリディは《ロング・ゴーン・ブルース》の最後で夢から覚めたように歌うのをやめ、ガーナーの肩とパーカーの頬に手を触れると、はいってきたところから出て行った。
〈トゥーツ・ショア〉は酒場だ。客は飲みにくる。仕事帰りに一、二杯ひっかけたり、顧客とレストランで夕食をとったあと仕上げにやってきたりする。..........九時五時の生活に甘んじてはいても、物騒な時間にはいまだに自分になりたかった人間に多少なりともなろうとするビジネスマンたちだ。
このような文章に触れると心が震えますね。 俺は生きている。
男と女
「どうして男って、おたがいにそう辛辣なの。初めて会うと、かならず偉ぶるんだから」
「女さ。女がおれたちを混乱させるんだ。おかしなふるまいをさせるんだよ」
キャシディは女同士が親しくなれるそのすばやさに、これが初めてでなかったが、驚嘆した。男同士だと、初めて近づくときには大型犬のように用心深いが、女同士にはそれがない。
「男って、自分がいいことをしてるという話をするときに、どうしてそう照れるの?」
二日酔いがなければ、朝なのかどうかもわからなかった。
生きるとは、どんなこと
「政治か。そういうたわごとには近づかないことだ。おれは食えないもの、飲めないもの、着られないもの、ファックできないものに興味はない」前にも聞かされたオーソーの人生哲学だ。自分の人生観もそんなふうにわかりやすくしたかった。みんなそうしているではないか。人生を単純にし、混乱を抑え、ものごとをわかりやすくするように努めろ。だが、そううまくいくのか?
「共産党は庶民に唯一の希望だってフリードさんは言ってました。世の中は下の階級の人たちが不利になるように仕組まれてるんだ。金持ちは貧乏人を踏みつけにしていっそう金持ちになるんだって。歴史や政治にはあたし、くわしくありませんけど、それがフリードさんの信じていたことだ」
「上の者にはごまをすり、下の者は踏みつけにする。根に持つ男。逆らわないほうがいい」
「おまえに世の中の仕組みがわかるか? 世の中を動かしているのは“恩義の銀行”だ。誰かのために何かをすれば預金が増える。それは必要になるまでおろさない。ひたすら恩を売り、その銀行に金をためる。時が来れば金持ちになる。だがおまえは、その銀行に何も預けていない。哀れな貧乏人だ。おまえに借りのあるやつはひとりもいない。調べたんだ」
「FBIにああしろこうしろと命令されて不愉快じゃないんですか?」キャシディは言った。
「不愉快なことならいくらでもある。渋滞。女房の料理。娘のボーイフレンド、修理屋がふっかけてくるシボレーの修理代、息子が聴いてるくそみたいな“音楽”とやら。だからなんだってんだ。我慢するしかないんだから我慢するさ。これまでにつかんだことを全部ボナーとニューリーに伝えろ。わかったら出ていけ。犯罪と闘いにいけ」
訳者あとがき
本書を訳すにあたり、改めて観てみたが六十年以上も前のできごとだというのに、あまりにも現代と重なる事に驚いた。自分たちを批判する者はすべて敵だという二元論や、事実無根のデマ、人格攻撃などは、わたしたちの身のまわりにも今やあたりまえに見られる。公開当時は、わずか十年後に現実がここまでこの映画(《グッドナイト&グッドラック 二〇〇五年》)に近づくとは思いもしなかった。
マイケル・キャシディとディラン・マッキューの出会いと別れ。
どのような結末を迎えるかは、以前に読んだミステリでも大凡想像がつくものでした。
今回の場合は、ディランが自分に正直でありたいと努力する生き方が少し、今まで読んだ小説とは違い清々しく感じました。
『 ニューヨーク1954/デイヴィッド・C・テイラー
/鈴木恵訳/早川文庫NV』
一九五四年はすばらしい年になるだろう。核兵器のことなど忘れろ。赤の脅威など忘れろ。今夜のニューヨークは明日への喜びでわくわくしている。生きているのは楽しい。
いい仕事に就いていて、ポケットに金があり、きれいな女を連れていればなおさらだ。
久々に面白いハードボイルド小説を堪能しました。
このような物語です。 /翻訳ミステリー大賞 シンジケート/
ぼくは、ハードボイルド小説を読むと、何時もエドワード・ホッパーの 『ナイトホークス』 を思い浮かべてしまいます。
エドワード・ホッパー/ナイトホークス
ニューヨークが美しく描かれています。
雨上がりのニューヨークは明るくさわやかな最高の朝を迎えていた。春の装いをした女たちはどきりとするほど美しく、冬の牢獄から解放されて希望にあふれていた。人々の足取りは軽く、タクシーもクラクションを鳴らすのを忘れている。生きている者にはすばらしい日だった。
この都市で生きる
十一時半にチャーリー・パーカーが現れてセッションに加わり、少し遅れてビリー・ホリディが厨房を抜けてはいってきた。彼女はピアノに寄りかかって、しばらく何もせずに煙草を吸っていたが、やがてガーナーに導かれて《イージー・リヴィング》を歌いはじめた。なんと。ビリー・ホリディが。
冷たいグラス、からんという氷の音、スコッチの辛み、それらが彼を、なんだろう? クールにし、舞いあがらせ、抑え、窮屈な日常の行路から解放してくれた。酒と音楽が彼を昼間の自分、ほかのみんなにこうだと思われている自分から自由にしてくれた。夜と酒と音楽とで血が沸きたち、彼は飛んでいた。ホリディは《ロング・ゴーン・ブルース》の最後で夢から覚めたように歌うのをやめ、ガーナーの肩とパーカーの頬に手を触れると、はいってきたところから出て行った。
〈トゥーツ・ショア〉は酒場だ。客は飲みにくる。仕事帰りに一、二杯ひっかけたり、顧客とレストランで夕食をとったあと仕上げにやってきたりする。..........九時五時の生活に甘んじてはいても、物騒な時間にはいまだに自分になりたかった人間に多少なりともなろうとするビジネスマンたちだ。
このような文章に触れると心が震えますね。 俺は生きている。
男と女
「どうして男って、おたがいにそう辛辣なの。初めて会うと、かならず偉ぶるんだから」
「女さ。女がおれたちを混乱させるんだ。おかしなふるまいをさせるんだよ」
キャシディは女同士が親しくなれるそのすばやさに、これが初めてでなかったが、驚嘆した。男同士だと、初めて近づくときには大型犬のように用心深いが、女同士にはそれがない。
「男って、自分がいいことをしてるという話をするときに、どうしてそう照れるの?」
二日酔いがなければ、朝なのかどうかもわからなかった。
生きるとは、どんなこと
「政治か。そういうたわごとには近づかないことだ。おれは食えないもの、飲めないもの、着られないもの、ファックできないものに興味はない」前にも聞かされたオーソーの人生哲学だ。自分の人生観もそんなふうにわかりやすくしたかった。みんなそうしているではないか。人生を単純にし、混乱を抑え、ものごとをわかりやすくするように努めろ。だが、そううまくいくのか?
「共産党は庶民に唯一の希望だってフリードさんは言ってました。世の中は下の階級の人たちが不利になるように仕組まれてるんだ。金持ちは貧乏人を踏みつけにしていっそう金持ちになるんだって。歴史や政治にはあたし、くわしくありませんけど、それがフリードさんの信じていたことだ」
「上の者にはごまをすり、下の者は踏みつけにする。根に持つ男。逆らわないほうがいい」
「おまえに世の中の仕組みがわかるか? 世の中を動かしているのは“恩義の銀行”だ。誰かのために何かをすれば預金が増える。それは必要になるまでおろさない。ひたすら恩を売り、その銀行に金をためる。時が来れば金持ちになる。だがおまえは、その銀行に何も預けていない。哀れな貧乏人だ。おまえに借りのあるやつはひとりもいない。調べたんだ」
「FBIにああしろこうしろと命令されて不愉快じゃないんですか?」キャシディは言った。
「不愉快なことならいくらでもある。渋滞。女房の料理。娘のボーイフレンド、修理屋がふっかけてくるシボレーの修理代、息子が聴いてるくそみたいな“音楽”とやら。だからなんだってんだ。我慢するしかないんだから我慢するさ。これまでにつかんだことを全部ボナーとニューリーに伝えろ。わかったら出ていけ。犯罪と闘いにいけ」
訳者あとがき
本書を訳すにあたり、改めて観てみたが六十年以上も前のできごとだというのに、あまりにも現代と重なる事に驚いた。自分たちを批判する者はすべて敵だという二元論や、事実無根のデマ、人格攻撃などは、わたしたちの身のまわりにも今やあたりまえに見られる。公開当時は、わずか十年後に現実がここまでこの映画(《グッドナイト&グッドラック 二〇〇五年》)に近づくとは思いもしなかった。
マイケル・キャシディとディラン・マッキューの出会いと別れ。
どのような結末を迎えるかは、以前に読んだミステリでも大凡想像がつくものでした。
今回の場合は、ディランが自分に正直でありたいと努力する生き方が少し、今まで読んだ小説とは違い清々しく感じました。
『 ニューヨーク1954/デイヴィッド・C・テイラー
/鈴木恵訳/早川文庫NV』
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