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「おもちゃ絵芳藤」 生きることのきびしさと淋しさ

2017年08月07日 | もう一冊読んでみた
おもちゃ絵芳藤/谷津矢車  2017.8.7

絵師 歌川国芳とその門下生たちの生き様と彼らの生き方に影響を与えた明治という時代の物語です。

  おもちゃ絵芳藤/谷津矢車著  [評者] 末國善己

 「嫌みだなあ、芳藤さんは昔っからそうだ」

 「なんでそんな神妙な顔をしているのよ?」
 「何よ、またいつもの芳藤さんの癖が出てきたわねえ。いつもぐちぐちぐちぐち」


この物語の登場人物評

 歌川国芳
 歌川国芳、というのが、目の前で眠る仏の今世での名前だ。何十年にもわたって江戸で筆を振るっていた大絵師で、特に武者絵をよくしていた。数年前に中風を患ってからも絵筆を手放すことなく、『あたしァ絵筆を握ったまんま死にてェ』と言っていたが、その願いは叶ったということでいいのだろうか。

 芳藤
 国芳一門でも一、二を争うほどの筆遣いであるはずだ。けれど、丁寧になればなるほど、他の絵師たちの腕の中で咲き誇る華が、自分の手元からするすると抜け落ちていくような気がしてならなかった。

 絵を一目見るなり、芳艶は、はっ、と笑った。
 「華がないなあ、お前の絵は」
 腹は立たなかった。芳艶の言葉がこちらを馬鹿にしている風には聞こえなかったからだろう。
 「だが、丁寧な仕事だ」
 芳艶は芳藤の絵を手に取って、日に透かすように見遣った。強い光にそうするように黄色い目を眇め、舐めるように見入っている。
 「忘我の域に至れば、お前の絵にも華が出るのになあ」


 芳年
 まんざらでもなさそうに後ろ頭を掻くこの男は月岡芳年だ。ニ十三と若いものの、確かな筆力と大胆な色遣いで絵師の間でも噂に上り始めている。まだ玄人筋で騒がれている程度の名だが、そのうち当たり作に恵まれることだろう。芳藤とは兄弟弟子の関係になる。独り立ちをしてしばらく経つから兄弟弟子も何もあったものではないのに、未だに『にいさん』と呼んでくれるのがくすぐったい。

 幾次郎
 傲岸不遜が服を着て歩いているようなこの男は落合幾次郎という。芳年とほぼ同じ頃の入門だったと記憶しているが、芳年への態度を見れば、あるいは幾次郎のほうが少しばかり兄弟子なのかもしれない。こちらも絵師だ。「落合芳幾」という名前で絵を描いて、それなりに売れていると聞く。画名で呼ぶ気にならないのは、幾次郎に漂う絵師らしからぬ商売っ気のためだろうか。
芳年が鼬だとするなら、こいつは狐だ。


 芳艶
 芳艶は芳藤の兄弟子の中でも出世頭だった。塾生の頃から才能を国芳に愛されていたのみならず、一本立ちしてからは”武者絵の国芳”とまで謳われていた師匠の株を奪うほどの優れた武者絵をいくつも描いている。このままいけば武者絵のみならず、国芳のもう一つの得意である妖怪画でも喰ってしまうのではないか、と絵師たちは噂し合ったものだ。

 だが、そうはならなかった。
 ある時から、芳艶は絵をあまり描かなくなった。やくざ者とつるむようになり、毎夜のように賭場に連れ込まれるうちに博打の昧を覚えた。やくざの道から抜け出せなくなってしまってからは、どこぞの親分の客分になっているとのことだった。
 それからは落ちるところまで落ちて、今や侠客そのものだと風の噂に聞いていた。


 河鍋狂斎
 この男は河鍋狂斎という。れっきとした絵師だ。
 元は国芳塾で学んでいたらしい。入門してすぐしゃれこうべを拾ってきて写生するという事件を起こして国芳塾を追われ、狩野派絵師に入門し直したという変わり種だ。とはいっても他の狩野派絵師のように寺社の障壁画の直しに当たることは稀で、今は無頼の絵描きを気取っている。
 あれァ、面白れェんだよ。
 狂斎のことを国芳師匠はそう評していた。


江戸から明治に大きく変わる時代に、彼ら絵師は悩みながら生きていた。

 「そりゃそうなんだが……。ああいう絵は邪道だよ。絵の華は役者絵に美人画に風景画、それに相撲絵だろうに」
 「そいつァあんたが言っちゃいけないでしょう」
 客の好みにケチをつけるんじゃねえ。これは国芳師匠の教えだ。もしてめえがてめえの筆を信じているなら貧乏してでも描き続ければいいだけのこと、逆に売りたいなら客の顔色を見て売れるものを描け。客にケチをつける奴に限って、売れたいくせして何の努力もしようともしねえ糞野郎って相場が決まってる。それが国芳師匠の弁だった。


明治初期は、絵師達にはどんな時代だったのか。

 人間、いつでもどこでも聖人君子でいられるものではない。誰も見ていないところで悪口を言い募りたいこともあろうし、心の奥底に貯まったままになっている毒を吐き出したくもなる。しかし、それすらも許されないというのはいささか杓子定規だし潔癖に過ぎるというものだ。
 「しょうがねえ。そういう世の中になっちまったんだからな」
 「そういうことだね」
 息苦しいったらないね。ぽやこうとして止めた。これさえ、もしかしたらもう許されないことなのかもしれない。


この激動の荒波を彼ら絵師達はいかに生きぬいたか。

 嘘でもいい。幻でもいい。自分の見ている景色に納得ができるなら、人はいつからでも歩みを始めることができる。
もしその景色に納得がいかなくとも、自分白身の心の内のありように納得できるなら、どんなに苛烈な日月の許であっても走り続けることができる。


身につまされるところも多多ありました。
門下生達の人生の浮き沈み、篤とお楽しみあれ。

   『 おもちゃ絵芳藤/谷津矢車/文藝春秋 』


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