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天使の傷 上/マイケル・ロボサム

2022年08月15日 | もう一冊読んでみた
天使の傷 2022.8.15

マイケル・ロボサム 『 天使の傷 』 を読みました。

会話が素敵です。

他人の嘘が見抜けたら、ポーカーをしても面白くもなんともないだろう。
特殊な能力があっても人生幸せとは限らない。




 「エンジェル・フェイスを見かけたのはジョージだけでした。二階の窓に男の子がいると想い、手を振ったけど、向こうは振り返してくれなかったそうです」

 「別居なさったわけをお尋ねしてもかまいませんか」レニーが尋ねる。
 夫人は両手を見つめる。「夫が退職するときに約束したんです。いっしょに旅行へ出かけて古い友人を訪ねたり、庭の手入れをしたりしようって。でもあの人は、昔の事件にすっかり夢中で、もう一度調べようとしてたんです。夫はそういう事件をシロクマと呼んでました」
 レニーが怪訝な顔をする。
 「忘れられない出来事のことだよ」わたしは説明する。「思考の抑制に関する有名な心理学の実験に由来している。何かを----たとえば、シロクマのことを----忘れようとすればするほど、シロクマはますます頭に浮かんでくる」


 兄はぼんやりした顔で母を見た。「やつらが話をさせてくれない」
 「だれが?」
 「声がするんだ」
 こんな感じで二年近く----いい日と悪い日のあいだを浮き沈みしながら----過ごし、先々のことがまったくわからなかった。妄想型統合失調症の患者といっしょに住むのは、小刻みに音を響かせる時限爆弾を持ち歩くようなもので、速くなったり遅くなったりはあるものの、音が絶えることはない。


 イライアスを愛し、本人にとって最良のことを望んでいると自分に言い聞かせるが、自由になってもらいたいとまでは思えない。人と行為を切り離し、罪を憎んで罪人を憎むべきでないのはわかっている。それを試みたが、できなかった。自分が人格者だったら、やさしい心の持ち主だったら思いやりのある人間だったら、聖人だったら、イライアスが求めている赦しを与えられるのかもしれない。わたしには無理だ。

 バーが徐々に混み合ってくる。アンジーは接客に追われる。こちらへもどってきて、最後にこう言い残す。
 「たしかに、テリーを追い出して別れたけど、会えなくなるなんて思ってもみなかつた。お風呂に浮かべるゴムのアヒルみたいなやつだったよ。ぜったいに沈まない。しばらく水のなかで押さえつけても、かならず浮かびあがって顔を出す。なのに、いなくなる日が来るなんて」


 あたしの手のなかで銃がだんだん重くなった。
 「だれかを撃つときには、ここを狙え」テリーはそう言って、胸の中心を指した。「体のいちばん広い部分だ。おれの胸を狙って引き金を引け」
 あたしは首を横に振った。
「弾ははいっていない。さっき見たろ」
 どうしてもできなかった。


 「いいか、よく聞けよ、スカウト。おまえがどんだけ強いとか、どんだけすばしっこいかって問題じゃないんだ。大事なのは、こわくてたまらないときにどう反応するかなんだよ。しょんべんを漏らして、両脚がびしょびしょになるかもしれないし、心臓が喉までせりあがり、体が震えて、まともにものが考えられなくなるかもな。だが、そのときが来たら、ぐずぐずするな。何を狙うかとか、すばやく動けるかなんて関係ない。必要なのは腹構えだ」
 “腹構え”の意味がよくわからなかったけど、あたしはだまってた。
 「そのときが来たら、引き金を引け。わかったか? 悪魔のように戦え。隅に追いつめられたネズミのように戦え。檻に入れられたライオンのように戦え。生きるか死ぬかが懸かってると思え----まさに命懸けの戦いなんだ。わかったか?」
 「うん」


  『 天使の傷(上・下)/マイケル・ロボサム/越前敏弥訳/ハヤカワ・ミステリ文庫 』


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