日本霊異記は奈良薬師寺の僧、景戒によって著された勧善懲悪と因果応報を説いた仏教説話集である。日本の数多い説話集の中でも「日本国現報善悪霊異記」ーここでは簡単に霊異記と呼ぶ事にする。これは最も古い説話に属するものだ。仏教説話としての「霊異記」(日本古典文学大系ー岩波版を参照している)が成立したのが、解説者氏の話では弘仁13年(822年)と言うから、ザット数えて1195年も前の事である。景戒のこの著作が3~4年で書き終わる訳がないから、それに編集と筆記を換算すれば、凡そ1200年以上前に書き出された物であろう。上・中・下と3巻に分かれていて、上巻35話、中巻42話、下巻39話、合計116話で構成されている。おもに仏教的な因果応報を基にした、勧善懲悪の話が説かれているのだが、中には、それとは直接関係のない庶民の挿話もある。私がこの霊異記に親しみを感じるのは、当時の人々の素朴な生活実感も描かれており、平安時代初期の自然観、生命観、価値観が、自ずと滲み出ていて、誠に胸を打つものがあるからだ。景戒の自己紹介とも云える短い自叙伝が、下巻の終り近い38話に収録されて居るので、それは著者がこの説話を読むであろう不特定多数の読者に向かい、己の人生を語ったものだろう。
日本国に仏教が入って約300年、当時の仏教は「奈良仏教」と云って、インド由来の仏教を鳩摩羅什や玄奘らがダイレクトに漢訳した物であり、それは日本人の国民性に合う様な、十分に消化された仏教では無かった。一般庶民にはアビダルマ(存在の分析)とか言われても、何の事だかサッパリ分らないはずであり、その意味では仏教哲学としても、心の救済の宗教としても、一般民衆の心の血肉としては受容されていない未消化な外来思想であったと私は想う。どんな偉大な思想であれ、その民族の根底に在る生活感情と結びつかなければ、決して血肉と成る事は無いと言ってよい。南都八宗は学問としては、誠に立派なものであり、存在論や、認識論、宇宙論、生命論、呪術論など、大変に哲学的であり分析に優れて居り、果敢に人の心の深淵に探求の道を探し深層心理学的であるが、どこか一般民衆の生活感情と合致しない物があったのだろう。倫理哲学としては余りに高尚であり、庶民の生活感情とは直接的には薄いと感じられる。仏教が渡来する以前に日本国の民衆の中に在った信仰がある。それは遠く何万年もの過去にまで遡る事が出来る自然信仰でも有った。後年(江戸時代)に神道は整備され宗教の形態を感じさせる物に近付いたが、本来は自然に対する恐れ、或いは畏れの感情と感謝の感情の入り混じったものであろう事は、いまも日本の祭りが引き継いでいる潜在意識である。日本文化の根源を知るには、この原始神道の姿を明らかにする事が必要だ。自然を崇拝する古神道は、現代の一神教よりも何層倍か優れていると私は想う。人類を救うのはこの神道であろう。それは我々が常には忘れている魂の故郷へ誘う物であるから。
景戒は、この霊異記を書く以前は、和歌山と奈良の境辺りに生まれた人で、生家は何をして居たのか?兄弟は何人居たのか?よく分かっていない。想像だが、おそらく一集落の長、辺りの家にうまれ、二十歳くらいで結婚し、何かの商いの様な事をしていたのだろう。文字が書けて計算が出来るのには、職業としては商人辺りが想像できる。どんな事情が有ったのか分らないが、然し後年に薬師寺の寺僧に成って居るからには、景戒には僧に成りたい、或いは成らねばならぬ強い意志が有ったのかも知れない。僧は、当時は謂わば高級な職業であり身分でもあったのだろう。当時の僧は自分で勝手に成れるものでは無く。正式に僧になるには日本にある三戒壇(当時、日本には三か所に戒壇(当時の総合大学)が在った。それは北から、下野薬師寺、奈良の東大寺、九州の大宰府である。)で学び、官許を得る必要が有った。それが無い自称の僧は私度僧と言った。
原始仏教、草創の地であるインドの仏教は「日本霊異記」が書かれた9世紀半ばには、なぜか、当のインドでは衰退し、およそ10世紀には消滅している。砂漠の中から生まれた一神教が、強烈な布教を展開し、従わない民族を暴力で破滅に追い遣ったような事は仏教では見られない。元々、仏教は一神教のような神を前提として居ないのだ。その本体は心理学と思弁哲学に近いものであり、一説では、仏陀はモンゴロイドであった可能性もあるという。一神教の特徴である神という支配者は仏教では存在しない。それは神道でも同様だ。草創に地で消滅した仏教は、それでも「北伝仏教」として、チベットに波及し、当地の伝統信仰であるボン教と融合して「チベット仏教」として法灯を守った。チベット仏教には「西蔵大蔵経」の膨大な経典群が残されて居り、インドではすでに失われた経典類が残されて居る。これは貴重な物で、9世紀末には衰退し10世紀にはインドで消滅した小乗仏教、大乗仏教の、その経典がチベットに伝えられた事の意味は大きい。
また、北伝とは別なコースで、小乗仏教である「南伝仏教」が有る。これはスリランカからビルマ、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、に伝わった。北伝は主に大乗仏教の系統だが、南伝は小乗仏教の傾向が続いている。私は行った事は無いのだが、生きている内に一度で好いから出掛けて見たい。ジャワ島にはボロブドールの遺跡が有る、カンボジアにはアンコールワットの遺跡が有り、当地では大いに栄えた事を物語っているらしい。仏教が発生の地でなぜ滅びたのか?には多くの原因があるだろう。仏教はヒンズー教に吸収される形で現在もインドの中に痕跡として残っている。
百十六話という、多くの話は日本各地の怪異・奇譚として話題に載せられたものである。一つ一つ読んで見るのも宜しかろう。面白いもの、考えさせられるもの、好色で滑稽なもの、機知に富んだもの、恐ろしいもの、悲しいもの、奇跡的なものが根幹と成っている。景戒は、この説話集を書くにあたって、何を資料として参照したのだろう。彼がこの仏教説話集を書く以前に、この様な伝承逸話は他にも存在したのだろうか?、多分、有ったと私は想像している。人間の生活、その社会性、男女の営みは縄文時代を遥か超えて、人間に成ったときから生活感情は存在していたのだから。恐らくは、薬師寺が寺のネットワークを通じて集めた、各地の数々の逸話、伝承、奇縁、奇跡、色欲、吉兆、悪事、善行、狂気、慈悲、徳、化け物、幽霊、怪異、などの話が、すでに有ったのだと思われる。先ず彼がひとりで、これだけの話を集める事は現実には不可能だ。然し乍ら景戒は行基菩薩の弟子だったとも聞く。行基上人に従い、各地を放浪し逸話を集めないとも限らない。ただ常識的な考えでは、薬師寺の指導者が景戒に寺が集めた所の逸話伝承の編集を命じたのだろうと思う。
むかし親父の本棚で、子供の頃、たぶん小5だろう。この本を見たことがある。おそらく岩波文庫だろう。題名を見ると何とも恐ろしげな題名である。「日本霊異記」、「霊異」とは、お化け幽霊のことか!と思っていたのだ。臆病な子供であった私は、その題名から容易にこの本を開く事はなかった。なぜか知らぬが子供はお化けや幽霊を怖がる。生まれて来る前の深い記憶が、そうさせるのか??景戒、個人に付いて、その下巻38話の話以外に、確実な人物像、性格、描像、などは伝わってはいない。彼がどうして私度僧に成ったのか?僧になると云うのは、当時はどういう志向性が働いたのだろうか?是だけの話をまとめるには、切磋琢磨の相当の努力が要求される。逸話伝承は、生のかたちでしか伝わって居ないだろうから、それを勧善懲悪を背景とした説話として編集するには、確かな知性と文才が必要だろう。
私は思うのだが、「霊異記」の中に、ある貧しい夫婦の下に起こった事件がある。私には不思議と、その話は景戒自身の身の上に起きた怪異と二重に見えまた思えて仕方がない。それはこういう話である。
ある年のこと、夏が涼しくお天道様の光が見られぬほど悪天の日が長く続いた。その年の秋は、五穀がことごとく実らなかった。夫婦はやまの毛物をとって暮らしを立てていたが、その年は毛物さえ死に絶えたかと思われるほどに、山には毛物が見つからなかった。穀物と毛物を交換して暮らしを立てていた男は、食べる物にも事欠いた。妻はやせ衰えてお乳さえ出なくなり、腹を空かせた子供は、泣く力さえ失っている。男にはもう一刻の猶予も無かった。やまの中の大池に行けば、沢山の渡り鳥が来ているだろうと思い、朝早く気力を振り絞って、妻子の為に家から五里ほど離れた山の池に弓と矢をもって出かけた。
男は、道も不確かな山道を息をせいて急いだ。家に待つ、歳の行かない子供と妻の為に必ず獲物を得ようと決心して居た。森の中の大池に着き、静かに木の陰から覗いてみると、毎年、数多くの渡り鳥が羽根を休めている筈の池には、池之端に足った二羽の鴨の夫婦が泳いでいるだけである。男は、鴨でさえも飢えているのか?と思い、木陰から大きな方のオス鴨を狙って矢をつがえて放った。矢は運よくオス鴨を射て男は鴨を手に入れた。鴨を手に来た道を帰る途中には、山のキノコが沢山生えていて、汁の中に入れて食べれば、これほど美味い物はない。腰籠に一杯のキノコで、今夜は腹を満たす事が出来る。秋の日は暮れるのが早い、キノコや木の実を拾いながら家に付くと、その夜はキノコを料理して、妻も子も腹いっぱい食べて、久し振りにヒモジイ思いをせずに寝た。
だが夜半に成って不思議な物音が、台所の方から聞こえてくる。ガサガサという音に目が覚めた男は、さてはキツネが狙っているのか?と、そっと台所の方を覗いた。そこには取って来たオス鴨を梁に掛けて置いたはずだ、弓と矢を持ちだしてつがえた。だが、何とそこには、池で一緒に泳いでいたメスの鴨が、冷たくなったオスの鴨を、一生懸命に温めて、しきりに一緒に飛んで行こうと、揺り起こしている場景だった。男は一瞬にしてすべてを悟った。男の手は震えて、目には涙がドット溢れ出た。男は鴨を殺した事を深く悔いた。生活のためとは云え、メスの鴨に取っては掛替えのない夫の鴨を射てしまった。これまでも、生活の為に毛物を取って暮らし、数々の生き物の命をうばう殺生をしてきた。男は深く悔い、妻子をあずけて僧になった。
日本霊異記に書かれた、この話の男が景戒であるとは言わない。然し、私は、この話を読んだとき妙に景戒のことが思い出された。若しかして私度僧になった理由の一端には、これにも似た事が有ったのだろうか?と。
元々日本人は、大自然の摂理を自らの倫理として生活を立てて来た。ゆえに、山を神として命を取って生きる宿命、その為に夥しい神社を奉り、生きモノに感謝をして生きてきた。それは、縄文以来変わる事はなかった感情だ。大自然と言うものへの心の持ち方で有り、なを且つ、自分自身が大自然に属する物としての生活の規範であった。自然の恵みに感謝し、その畏れを知る生活感覚があった。それが、日本の根幹であり日本人の生き方であった。仏教は、そこにひとつの哲学を持ち込んだ。だがその哲学が日本人の生活感情に溶け込むまで、仏教は本当の意味では日本的文明には受容されなかった。仏教が日本に受容された後の伝統は、神道と仏教の融合であり、それはいま今日も連綿と続いている。
宗教という方便を離れて、世界は死にゆくものと生まれくるものとの出会いの場である。出来れば、此処では、世界と言う硬い言葉を使いたくはない。「この世」というコトバが一番似つかわしい。「この世」と云う言い方は、すでに「あの世」を前提としている。
世界と言う場があるのでは無く、生まれくるものが、それ自身で時間を背負っているのだから、その時間を背負ったいのち自体が、出あう場がこの世だ。あの世はこの世に現れる以前の、混沌としたものと言う以外の想像が湧かない。現在の全ての宗教は、それを解く力など元より無いと知るべきだ。幕末に日本を訪れた多くの外国人が、日本と言う国の特殊性について言及して居る。彼らの疑問は、日本人が貧しい身なりをして居るにも拘らず、「みな一様に幸せそうな顔をして日常を生きている事」であったという。ペリー艦隊が来航して幕府の官僚と会い、帰国するときのペリーの書簡は、日本と云う国がやがて世界の最先端に変貌するだろうと書いて居る。彼の航海記を読むとペリーの眼は節穴では無かったらしい。
古典としての「日本霊異記」が、私達に新たな感動をもたらすのは、生活感覚に溢れたた多くの話が、自然に我々を、日本と言う国の、本来の国体という文化的伝統に連れ戻すからなのだろう。絢爛たる日本古典文学群の森は、今まで余りにも蔑ろにされて来たのが現状だ。古代から紡ぎ残された、我々の祖先の培った膨大な量の古典文学の原生林、幾多の哲学思想の深い森を、自ら探検する若者は居ないのだろうか?
先日、親父の蔵書をひっくり返して居たら奥の方から、ボズウェルの「サミュエル・ジョンソン伝」が出て来た、30年以上も前の、中野好之(「すっぱい葡萄」の中野好夫の長男)翻訳の三巻本である。暫し、この本を読むうち、あの有名な英語辞典の編纂者サムエル・ジョンソンの語る強烈な機知と皮肉、(腐敗した国家には、多くの法律がある)とか、(地獄への道には、善意と云うタイルが引き詰められている)…に驚嘆していると、ふとジョンソンよりも1000年以上も前の説話集の景戒も、こんな人物の一面も有ったのかもと思われた。そして同じく、明治の画期的な日本初の国語辞典「言海」の製作者大槻文彦を思い出した。著名な医家でもある大槻玄沢の孫として国語の統一に尽くした人物である。
江戸から明治にかけて、日本語を現在ある口語体に創り上げて行ったのは、漢学を基礎土台として持ち、更にその上に蘭学を乗せた人々であった。過去の膨大な古典群と共に、今の日本語が有るのは、この様な遠い昔から言葉を磨いてきた人々の弛まぬ努力と熱意に因る物である事を改めて肝に銘じた次第である。これ等の人々は日本人の誉れであります。 井頭山人(魯鈍斎)