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「哲学」とは、何をすることなのか?

2017年11月25日 08時55分49秒 | 日記
 哲学とは何か?、或いは、その価値に付いてである。哲学と言うテーマだが、今もって哲学という物は、どこまでもカビ臭く頑な物だと思われてきた。だが哲学は、人間にとって最も古く、そして、最も新しいものだ。それは寧ろ「好奇学」と呼んでも好い。その方が哲学の本質に近く、あらゆる思惟の可能性の初歩です。ひとり、何かの疑問や好奇心、懐疑が湧き、その原因を考える風になると、それが哲学に成る。哲学は、石造りの堅牢な尖塔に閉じこもり、訳の分らぬ自己撞着で、自分が迷妄に陥ることではない。不思議な対象を、明晰的な理知でもって明らかにすること、その事実を知る為に、答を示す磁石として、論理や合理性が求められた。しかし、飽くまでも哲学の価値は、「問うこと」にある。例えば、様々の錯綜した情報の背後に在る真の事実とは何か?とか また、見えている現象の根底に在る原理・法則は何か? などの それらをまったくの、白紙の状態から問う事にある。もしも哲学に価値が有るとしたら、その純粋に白紙の状態から出発して、物事の本質を問う、と言う態度以外には無いと知るべきだ。

「問う」事は、さほどに根源的で重要なのだ。さて「哲学」と題名のついた本は、或いは「哲学」と名が付く著作がどの位いあるかな? と、大きな本屋でザット調べてみると、25~6冊くらいは直ぐに見つかった。小学校3年の子供の頃に、家に古い哲学事典という分厚い本が有り、親父にどう読むの?と聴くと、テツガクだと言う。わたしは、テツガクと言うコトバを聞いて、鉄を思い浮かべ、事典に出て来る人物写真が、うつむいて居たり、何かを考えて居るらしく、不愛想な怖い顔をした人が多かったので、これは頭に鉄が入って居て、重いので苦しんでいるのか? テツガク、これは硬いぞ、頭をぶつけたら怪我をするかも?と思ったものだ(笑)。コトバの発音からは、鉄のような硬いイメージが付いて回ります。後年、調べてみると、それは、「悟る」「知る」「理解する」「洞察する」「予想する」「納得する」、謂わば理解の法則的な関係を求め、問いを重ねることで、思考や思惟の構造(勿論そういう物が有ればの話だが…)を把握する、と云う様な思惟体系の本質的な一つの方法論である事が分かった。

或る意味で、「哲学」とは、物事や、外的・内的、知覚に関するインスピレーションを追及する事で、個別的な学問に発展する以前の、アイデアの萌芽を育てる事に他ならない。であるから、その手法は芸術に似ているし、空想の翼を与えるものである。ゆえに全ての学問は哲学を、その泉としている。哲学は誰にでも出来るものであり、特別の才能は要求しない、ただ好奇心を探究心を、どんな学問よりも必要とするものだ。

つまり、理解・認識の構造・動作・などの理解の流れを調べ、その諸現象の「根本の力動と原因」を理解する思念活動のことなのだ。哲学とは、そういう事を繰り広げながら、目と耳の限界を超えて対象を探究してきた歴史でもある。そうすると、哲学は人間の思考活動の条件やその土台を知ることであり、思念活動の、最も基本的条件の探究である事が分る。哲学は「言葉を使い」、言葉を通じた理解の構造、それを対象とする方法論の一つのことだ。そういう意味では現代数学も同様だ、様々の抽象概念の背後に在ると思われる、統一的共通構造を模索しているからだ、全数学を幾何学の下に統一するビジョンを探して居る。多くの可能性が有ると思う。まだ未知の分野がそこには広がっている。

哲学は、ごく素朴に言えば、まだ厳密な方法論が形成されて居ない、いわば曖昧な対象を理解しょうとする為の把握の試みであり、それらの対象の空想段階の方法論の試みである。であるからして、合理性と数理性を基にした厳密な方法論である科学よりも、もっと曖昧で自由な発想の分野と言えるのではなかろうか。
 
例えば、「必然性」という概念は?、どう認識し表現するか。
表現は認識の質(クオリティ)と段階(レベル)に因る。


「我々の具体的な操作や、認識主体を離れて、すでに、何らかの先験的、他律的に、定められたものとしてある性質」。

では、「偶然性」とは?、「我々が、その対象に無知なために、一見、無分別な事象として現れて来る現象、乃至、性質のこと」。


あらゆる事象は概知の物としては決まってはいない。自然の現象は数限りない係数の総合として在る。そして「必然性」にも「偶然性」にも、概念の背後には「時間」の概念が有る。

人間に取って「時間とは何か」?、確かに流れでもある、だが、大森荘蔵氏のように、時は流れないという人もいる。反応の経過時間?。時間が有ると云うよりも、本当は運動が在るだけなのだ。時間は運動の結果として跡づけられるものだ。いったい運動とは何だろう?。運動とは物体が必要か?。空間が動いても運動とは言い難いのか?。質点が運動するのか?、質点とは何か?。人間の意識も運動の効果である。電子であろうが、陽子であろうが、それはどうでも好い。

人の懐く問に、自ら答えようとする営為が哲学の本領だ、また問い自体が答えでもある。哲学は好奇心の為すがままに、自らの立ち位置と存在を確かめる事である。とすると、人の突き詰めた考えは、みな哲学に似ている。好奇心には、答えの到達点はあっても想像思惟の到達点はない。であれば、これまで如何に多くの人が哲学を実行してきた事か。特に江戸時代は、時間を持て余した面白い思索者が多数いるのは面白い。




*- 将来の数学についての空想

殆んどの存在は時間で括れる、時間こそがαでありΩなのだ。時間と云うと、なにかぬ明確なフワフワとした概念の如きを思い浮かべる人も多いのだが、確率過程も実のところ、時間の別な表示に他ならない。時間は存在の自由度なので、存在も現象過程も時間で括れる。この時間のイメージを、もっと厳密に膨らますことが最も必要な分野を作る事につながるだろう。最小作用やentropyも時間の函数ないし係数に他ならない。
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