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漂泊ー明治人野口英世の軌跡

2017年11月11日 21時15分13秒 | 日記

 私は現在の小学校図書室の蔵書の収蔵内容はまるで知らない。だが、昔の小学校の図書室には、数々の偉人伝シリーズが必ず有った。西郷隆盛、伊藤博文、福沢諭吉、とあるが、寧ろ医科学関係の方が多い。北里柴三郎、志賀潔、鈴木梅太郎、の中に野口英世もあった。他にも牧野富太郎、とか、江戸時代では伊能忠敬、二宮尊徳があった。私は、その中の一冊野口英世を借りた。野口は、日本国と日本人が西洋に強い劣等感を持っていた時代(今でもそれを持っている人も多く居る様だが…)、一農民の出身から精励刻苦により、世界的業績を成し遂げた立志伝中の人物として易しく説かれていた。この写真と挿画が印象的な楽しい本は、「あなたたちもこの夢に挑戦しなさい」と諭しているようでも有った。この本の図書カードには、借りた人の年月日と何人かの名前が載っている。これを読んだ先輩や友人達は、果たしてどんな感想を持ったのかしら?と、本を読み終えて思ったものであった。

江戸時代二百五十年の後に開国して幾ばくも無い時代に、日本は驚く様な、多くの個性ある人物を輩出した。現在(2017年)の時点で歴史を振り返れば、西洋列強の圧倒的な軍事力と科学技術力による暴力的な武力的植民地獲得競争の前に、白人世界に独り対抗し得た国は、世界中に多々ある国の中で、日本国以外に探しても一つとして見つからない。東洋の植民地を解放した大東亜戦争以前、白人世界の暴力と人種差別は殊の外大きかった。現在の日本人に、その認識が無いとすれば、以前の確固たる歴史的事実を、日本人自身が忘れたか或いは知らない、または、知らされて居ないだけなのだろう。人が何かを知るには、それと比較する別な物が必要だ。それが無ければ、正統な評価する事が出来ないからだ。開国当時の日本人は、敗戦後の日本人に比べれば明らかに、性根から異なっていた様だ。日本人自身が自らの存在の系譜を知る為には、恐らく本当の江戸時代を知ることが必要だろう。明治人、詰まり江戸時代に生まれた彼らは、一旗揚げる気概にも溢れている。その努力も中途半端な物では無かった。今よりもモット気概に満ち、気性も激しかったのではなかろうか? 別な表現を借りれば戦国武士の魂が僅かばかり残されて居たとでも言えよう。

私は、永く野口英世博士に付いて、図書室で読んだ頃の認識以上の域を出なかった。然し是だけではあるまいと想像して居たので、戦前に出された古い野口の伝記を読んだ。この伝記は、小学校の伝記シリーズに比較して、野口清作の実像を正確に伝えている。暫し読み進めると人間野口の実像が、おぼろげ乍ら分ってくる。逆境に対して心から努力し、相当苦労もしたな、と思った。彼が幼児の時に、偶々起きた火傷による手の癒着という事故で、本人も嘲りを受け悔しかったろうとおもう。当時は不自由な手に同情する人も少しは居ただろうが、大方は冷やかな者も大勢あったろう。敗戦後の日本人は、なべてアメリカ化の為に、個人の権利ばかりを謂い、自己犠牲を嫌い、本来の日本人の思い遣る協調性と不屈の団結力を破壊され失っている。

後年の事、そう、私がまだ20代の頃か?渡辺淳一氏の、有名な野口の評伝「遠き落日」が雑誌「野生時代」に掲載された。それは直ぐに単行本として出版されて、それは古い伝記と重複する所があった。だが、遠き落日の野口はもっと闊達で生き生きとして居て、これは非常に優れた評伝であった。無理やり渡米の為に用立てた渡航費を、送別会だと云って吉原で芸者を揚げてドンチャン騒ぎの挙句、渡航費用の大方を使ってしまう事などは、破天荒の最たるものだ。然しそれはフィラデルフィアのロックフェラー研究所を目指し、フレックスナー博士の所に片道切符で出かけ、夜も眠らぬ男と言われるほど狂気じみた努力を続けた野口の破天荒な性格の一端と何処かで繋がっているものだろう。やがてその努力は報われることになる。伝記シリーズの野口英世は、芸者を揚げての散財など、この辺の事情は小学生に読ませるには都合が悪いので省かれたのだろう。だが、野口の凄さは、本当はこの破天荒な性格と表裏一体なのだと思う。アメリカに渡った人で、日本で発刊された野口英世の伝記を、本人に渡して読ませた所、野口は、「これは人間ではない、この様な人間は居るはずがない」、と怒ったという。

野口は、師匠・友人たちの援助と、本人の努力の末に済生学舎で医師免許に合格したが、彼の手の火傷に依る癒着の為に手先を使う外科の様な分野には進む事が出来なかった。19世紀から20世紀に掛けては、人類の業病も呼ぶべき、風土病、伝染病、の研究が進んだ時代であった。彼は、その病気の原因を突き止め、治療の方法を探る基礎医学に進むことを決めた。後年、北里細菌研究所に、助手として入所した野口は、その所長であった北里柴三郎が、明治の初年に、医学の先進国であったドイツに留学しコッホたちと共に、破傷風菌の単離、血清療法など感染症の治療手法にも大きな業績を上げた為に基礎医学に魅惑されたのだろう。それで野口は、北里の進んだ基礎医学の方面に進もうと決心したのだと思う。細菌に因る感染症は、細菌を純粋培養する事で、その細菌に効果のある治療法を開発する事が出来る。北里も野口も志賀も、顕微鏡下での病原菌を発見する事に精力を費やした。

 野口の生家は、今も猪苗代湖畔に「野口記念館」となって建っています。明治21年7月15日(1888年)会津の象徴の山である「磐梯山」は、水蒸気爆発と言う種類の噴火によって、北側の半分は吹き飛んで仕舞い、その土砂で川がせき止められ、現在の檜原湖が生まれた。五色の色を斯く斯くに持つ美しい沼もうまれた。災害は多くの人の生活を破壊し、また死者も多く出たが、現在は火山のもたらした変化が観光資源となって地元民の生活を潤している。「磐梯国立公園」は実に美しい所である。私は、もう遠いむかしの事だが、「裏磐梯高原ホテル」に泊まりました。それは広々とした池の向こうには、半分が吹き飛んだ荒々しい磐梯山の北面が絶景をつくって居ました。

彼は子供の頃に、この噴火を体験しているという。弟をつれて川に魚を捕りに行ったそこで、恐るべき轟音と共に、この世の終わりかと思う程の足元を揺るがす振動を感じた。あとで考えれば、予兆は有ったらしいが、当時の地元の人々は、それが大爆発につながる物とは、露にも思わなかった。水蒸気爆発は、地下水が上昇してきた灼熱のマグマに触れて、一気に気化膨張することで猛烈な爆発力を発揮する。この膨張する力はものすごく、元々は秀麗な山容であった磐梯山の北側半分は吹き飛んで仕舞った。幸い水蒸気爆発は、大量の溶岩を噴出しない為に一瞬で終わったが、だが大量の土砂が人々を襲い多くの死者を出し、吹き上げられた土砂は村は埋没して、山間部の川を堰き止め檜原湖を出現させた事は上に書いた。

 野口英世は、立志伝中の最も有名な一人であるが、また、彼の個性的な人柄ゆえに、多くの毀誉褒貶に溢れて居る。世の中には偉人が、つまり「謹厳実直」でないと気に食わない人間も多数いるのだろう。私は、自分が好い加減な性分の性格なので、野口の羽目を外した行動をある程度理解できる方である。だが世の中には、自分が決して出来ない事を、他人には欣然と要求して恥じない人間もいる物で有る。単なるお馬鹿さんなのか?幼稚なのか?は知らない。いつまでも成長せず幼稚なままでいる人が多くなったのが現代である。つまり現代は、その様な人達を許容できるほど豊かな社会なのだ。だが野口の時代は決してそうでは無かった。時代はもっと厳しいものがあった。

アメリカに渡った野口は、最初蛇毒の研究から始まり世界的に猛威を振るった性病の原因であるスピロヘーターパリーダの研究を志し純粋培養に成功した。それはあとで不確かな面も指摘されたが、純粋培養は、現在誰も成功して居ない。その後に野口を死に至らしめる黄熱病の研究に邁進するが、アフリカのアクラで、研究対象の黄熱に感染して51歳の人生を閉じることになる。現在の認識では黄熱はウイルスであり、光学顕微鏡が対象とした細菌とは異なる、もっと小さな生物と無生物の中間に位置する物である。まさに物質の一面を有している、それはDNAが無くRNAだけで構成された濾紙を透過する小ささの生物である。物質と生物の中間に位置する最小の物質である。野口はそれを知らずに挑戦したのだった。

細菌学は、19世紀前半から~20世紀の半ばまで、基礎医学の花形の一つであった。我々は、この分野の研究の成果に依って命を長らえて居ると云えよう。ペニシリンは、普通であれば死に至る症状を快癒させたし、多くの若者のいのちをうばった結核は、ストレプトマイシンなどに依り治る病となった。この成果はいくら強調しても足りないくらいだ。思いもかけない場所でカビ等を主体にした中から、新型の特効薬が発見されたのだ。20世紀のやり残した仮題にガン治療がある。この治療は難しく、これは細菌と言うよりもウイルスが原因で起こると同時に、我々を作る普通の細胞自体が自己増殖機能としての、ガンの前駆的機能を持っている。自分の細胞がある日突然ガン化して暴走的増殖を始め、それが転移し各所で生体の機能の全体を破壊する。人はその寿命が永くなるに従いガンは恒常的に生体を襲う事に成る。ガンの治療の難しさは、これまで感染症とは全く異なる世界でもある。

 彼は51歳で、アフリカのアクラで黄熱に感染して死ぬ訳だが、野口英世が生まれ育った会津猪苗代、その猪苗代の夕陽と、遠く離れたアクラの夕陽の距離は、彼がたゆまず、夢中で歩いて来た、人生の距離を物語っては居ないだろうか?。 野口は、渡米してから足った一度だけ帰国した事がある、帝国学士院賞、受賞の為に戻ったのだ。それで故郷の父母にも会えた。その帰国の歓迎会で、過っての上司であり、野口を送り出した北里柴三郎は、「研究所では、毎日実験動物の世話ばかりさせられていた、下働きの所員の為に北里は静かに歓迎の言葉をのべた」と、野口英世の評伝、遠き落日に渡辺淳一は書いている。このあたりが野口の故郷に錦を飾ったピークであったろう。また、白人に拠る白人以外の人種への偏見と差別が無ければ、北里はその医学的な業績から云って第一回のNobel医学生理学賞を受賞していた事だろう。人種的偏見と差別は今とは比較にならない時代であったのだ。

日本史上に於いて、明治という時代はどんな時代であったのだろうか?。漱石が云うには日本の伝統文化を否定し、遮二無二西洋文化を礼賛し、それに向かって直走りに走りに走った時代だという。押しなべて、自分の文化を顧みずの西洋化に、違和感を感じた文人たちも多い。特に明治期の西欧化は、明らかに日本の技術的現状と比べて西洋の技術は進んでいた。 西洋化は日本社会に其れなりの影響を与えた。然し現在は、昭和二十年八月十五日以降の日本は自国の文化的国体を忘れつつある。過去の遠い歴史の中で、日本人は海外文化を上手に取り入れて来た。それには大事な条件が有る、それは日本語と日本の伝統的価値観を維持した上での海外文化の移入であろう。それが無ければ、恐らく日本文明は掻き回されて、独自性と活力を失う事に成るだろう。特に今は、移民を入れろ・移民を入れろと、馬鹿騒ぎをマスコミが煽って騒いでいる。それは永い未来・将来への分水嶺の時代だと考える。それが吉と出るか凶と出るかは、あと100年経たないと分らない。それは今の時点で生まれた日本人でさえ生きて居ない未来である。現在では、とうに海外に雄飛した明治人の大きな夢はすべて過ぎ去ってしまった。しかし故郷の猪苗代の大きな自然と夕陽は、変る事無く今日も清作の子供時代と同じ様に湖畔を赤々と照らし出しているに違いない。

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