2022年11月11日、祝祭の日を迎えるにあたって、9月から準備していました。
「有休をとって、東京、新宿で明け方のお祈りをしよう」と考えていたのです。
しかし、途中10月の御言葉で
東京の波長が中国人、外国人の観光客、移民によって崩されていると分かって進路変更することになりました。
11月11日を迎える1週間前から、喉の違和感を感じ始め、ついに鼻詰まりが取れなくなってしまいました。
発熱はなく、ただ1日中鼻炎で苦しむ、鼻をかむと鼻血が出るくらい粘膜も弱ってしまいました。
臭いを全く感じなくなり、毎朝楽しみにしていたレギュラーコーヒーも飲めなくなりました。
(コーヒーは香りが味なのですね~)
明け方の祈りも集中できず、悪寒も続いたため、外でなく部屋で祈るばかりでした。
祈っていて、「今年一年は、肉の(世間)の仕事に溺れていたなぁ。
東京にお祈りに行けて本当に良かったな。
でも御言葉で世の中の仕事を減らして神様の仕事をしなさいと
出たため、方向転換したい!RAPTさんから使命を貰って一緒に仕事がしたいな!」と感じるようになりました。
祝祭の日を5感の1つ、「嗅覚」を失って過ごすことで、「力が湧いてこない1週間を過ごすこと」になりました。
11月3日からの1週間、明け方も祈りが続かない、twitter情報拡散も力が入らない、情報分析ができない、言葉が思い浮かばない、
食欲もなくなり、1週間で体重が5kg近く落ちました。
時々、胃痙攣をおこすようになったのです。
また調子が良い時に食事をとると、体全体に倦怠感が走り、再び関係のない、鼻炎が再発、鼻水が止まらなくなり鼻閉感と生活することになるのです。
それでも何とか、RAPTさんが配信してくださる、朝会の音声を何度も聴くことで恵に満たされますが、大きな悟りが来ない。
そんな時、祈っていて、祈りに蓋をしてくるものがあります。
それは「世の中の仕事」です。
私が握りしめているのは「経済」なのです。
「経済よりも、信仰を選べますように」
「世の救いのために人生を全て使えますように」
ここを悟ったとき、全身に力がみなぎります。
実は今の職場(看護学校)では「医学」という大嘘や「看護師という夢を手に入れる」という欺瞞を教えなければなりません。
辻褄の合わないことも「そうだから」という理由で教えなくてはなりません。
「教育」なんて先になく、「洗脳」しかないのです。
そんな折、実習引率で市の中核病院に看護師として就職した卒業生と話すと
「先生、奨学金返済期間まであと2年、あと2年で仕事辞めたい。
日勤で前残業1時間、あと残業2時間毎日させられててさ、しかもサービス残業だよ」
「じじばばが脳血管詰まらせて入院してくるけど、急性期病棟なのに、老人ばっかり。しかもDNAR(延命拒否)ばっかりで、死んでいく人ばかり相手にしていて、気持ちが沈む」
「夜勤1回手当が12,000円で、夜勤なかったらまともに生活できないよ、看護師給料いいはずなのに、話が違う。」
と看護学生時代には知らされなかった過酷な現実を話してきます。
実は私は「学生たちが就職してこうなること」は最初から分かっていました。
看護学校3年生の担任をしていたので、とにかく卒業させること、国家試験を合格させることが仕事だったのです。
資格は人を幸せにしないことが分かっていての仕事をしていたのです。
また「看護師免許をとってしまうと、他の仕事に行きにくくなる、逆に潰しが効かないこと」についても伝えていません。
「どれだけRAPTブログのこと、神様の御言葉について伝えてこれたかな?」
と振り返ると、伝えられた学生は4年間でたった2人です。
しかもその2人とは音信不通となり、信仰を続けれているか不明です。
「なんて効率が悪い仕事をしているのだろうか?」というのが正直な気持ちなのです。
人生の選択で苦しんでいる、資格が自分を守ってくれると洗脳され、やりたくもない勉強を修行のようにさせられ苦しんでいる学生を見て
「御言葉」や「真理」を伝えられない現実。
「もっと洗脳しろ、もっと躾しろ」とはっぱをかけてくる職場の上司たち。
「ペテロ、イエスについて私は知らない」と言わなければならないことがいかに地獄であるのか?
と、今の職場にいて、強く感じています。
「嘘の上」になりたっているのですから。
「信仰が人を幸せにする」「愛だけが人を幸せにする」
とRAPTブログで悟っているのですが、仕事ではそのような真実を伝えることができないのです。
「1か月僅か20万円を得るために、経済のために、お金のために言いたい事が言えない状態」
なのです。
まさに、経済の奴隷なのです。
RAPTさんを通して、神様が2022年10月に「経済よりも信仰をとりなさい」と御言葉が出た時にとても強いインパクトを受けました。
同時に、「神様はもう待ってはくれないのかもしれないな」という気持ちが伝わってきました。
「切らなければならないことは、思い切ってすっぱりと斬らなければ、助からない、救われない」
と感じたのです。
「いくらお金があっても、肉体と霊体が健康でなければ何も意味がない」
霊の健康つまり、健全な脳機能、思考ができなければ、お金も時間もむなしいものになる。
「当たり前だと思っている健康も、霊の力がなければ脆く、維持すら難しい」
「健康のために生きることがどれだけバカバカしいか?
人間は神様のために生きる、救いのために生きることで、結果として肉体と霊体の健康が維持されるのだ」
と悟っているのに実践できていない自分の至らなさを痛感しました。
神様と愛をなすために、取り除くべきもの、排除すべきものが明らかになった祝祭日となったのだと思います。
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写真は、祝祭日に温泉に行って、食べた定食です。
この時は鼻炎も弱く、とても美味しいくいただけました。
てんつゆと天ぷら、素敵な組み合わせだと思います!
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