心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

患者が看護師のために存在するというなら、看護師というのは罪な存在になってしまう

2018年12月03日 | 看護学について

「その人らしい人生、生き方ができるように支援する」

「その人らしい人生=価値観」

頻繁に目にする文章です。

 

では、末期ターミナルの高齢患者から

「辛い、生きていても意味がない、早く殺してほしい」

と言われたら、あなたはどう答えますか?

「死にたいくらい、辛いんですね。」

で果たして、患者は救われるのでしょうか?

末期がんの疼痛や老人性疼痛と呼ばれる原因不明の疼痛に対して

「モルヒネ」という麻薬鎮痛剤を使う。

そもそも、患者は「疼痛という肉体的な痛みだけ」で「死にたい」と本当に訴えるのでしょうか?

 

それはさておき、「辛い、生きていても意味がない、早く殺してほしい」というのが

その人らしい人生、生き方であるのならば、看護過程における、発達課題は達成されていることになってしまいます。

つまり、現行の看護過程では、

「痛みや、麻痺、拘縮などで自由にならない、寝たきり老人に対して、座して死を迎えさせる、つまり何もできない」

ということになってしまいます。

「その人らしい人生、生き方を生きること」

が果たして幸せなのでしょうか?

・がん治療を医者の言うがままに受けて、痛みと疲労感、倦怠感の中でADLが低下していき、廃用性症候群になり寝たきりになる。

・脳梗塞により、完全麻痺となって寝たきりとなる

・糖尿病が進行し、腎機能がやられ透析をする、壊疽を起こし、片足切断する。

どれも「その人らしく生きた結果」ではありませんか?

「その人らしく生きることができるように」というのは、「わがままに、自由気ままに生きることを手伝うこと」

と解釈することができます。

しかし、自分の蒔いた種で、寝たきりになり、欲望がかなえられなくなった人達を「どうやってその人らしく」支援するのでしょうか?

私にはわかりません。

「好きなように生きる、好き勝手に生きる」ことが「個性」や「自分らしさ」そして「幸せな生き方」であるならば、人を騙し、詐欺や不正を行い、いかなる手段を使っても己の欲望を叶えた人だけが「幸せになれる」とでもいうのでしょうか?

生まれながら裕福な家庭で育った人は何の努力もなく「幸せをてにすることができる」のでしょうか?

違います。

「その人らしく生きる」というのは、その人が持つ個性才能をいかんなく発揮し、

①世の中で光り輝く人生を歩むこと

②いつも心に喜びを感じて生きること

ではないでしょうか?

一生で使いきれない富を得ても、他人がうらやむような地位や名誉や財産を持っていて、

「心が虚しく、何をやっても喜びが長続きしない」人生ならば、個性才能を発揮しても虚しく苦しい人生になってしまいます。

つまり、「いつも心に喜びが満ち溢れて、感謝と感動が絶え間ない生き方」をする前提条件に、「個性才能を発揮すること」が含まれているのです。

それはどういうことか?というと「成長し続けること」他ありません。

では成長し続けるにはどうすればいいのでしょうか?

答えは簡単です。

「毎日、生まれ変わること」「古い自分を捨てて、新しい自分になること」

です。

つまり、幸せな老人、高齢者というのは、謙虚であるはずです。

「人間は歳を重ねれば重ねるほど、”謙虚”になっていく」

はずなのです。

そして、心からへりくだり、謙虚になっていく人が幸せな人=成長し続ける人なのです。

しかし現実はどうでしょうか?

世の中の評価や、自分の欲望を満たすためだけに人生を生きてきて、病気になり寝たきりになる。

何も楽しみがない、喜びがない老人ばかりではないでしょうか?

以下、デイサービスに通ってくる老人についての記事を転載いたします。

・・・・・・・・・・・・・・・(老い・肉体という牢獄「生きる意味、なかった気がする」竹崎法子 さん)

 現在、日本には寝たきり、認知症、虚弱など、介護の必要な高齢者が450万人を数える。これは10年前と比べ2倍の数という。
 テレビでもよく介護問題が特集されるが、介護する側にも、される側にも、見落とされている点があることを、老人福祉に携わる親鸞学徒は指摘する。

「毎日、山ばっかり見ているのよ」
 その80代のA婦人は、遠い目をしてポツリと言った。

 10年前、脳梗塞で倒れて以来、右半身が動かない。テーブル炬燵のリクライニング付きの椅子に座り、終日、窓の外を眺めている。
 同じ姿勢のままでは床擦れに似た症状が起きるため、1時間置きに部屋の中を壁伝いに歩く。一人では外へ出られない。

 鎖につながれたのでもない、厳しい規律があるのでもない。
 だが老いは、自身を肉体という〝牢獄〟に閉じ込める。

 夫に5年前に先だたれ、心安い友達も皆〝旅立った〟。電話をするにも耳は遠く、テレビも見飽きた。することのない1日は果てしなく長い。
 2世帯住居の裕福な家庭だが、長男夫婦とは完全に仕切られ、食事を運んでくる以外、顔を見ることもない。
「家族の迷惑にならぬよう、1日でも長く元気でいないとね」
 言葉とは逆に、老婦人の瞳に、光はなかった——。

■尊厳とは程遠い終幕
 

 竹崎さんは大学を卒業後、父親の経営する老人福祉施設に就職した。
 相談員として、高齢者とその家族の希望を調整し、それぞれの家庭に応じた介護計画を立てるのが役目である。

「最後まで尊厳のある生き方を」。それが理事長でもある父の理念だ。
 しかし要介護高齢者の家を訪問するたび目にするのは、家族のエゴがむき出しとなった、尊厳とは程遠い終幕だった。

 ある独り暮らしのB婦人を訪ねた時のことである。
 その婦人は以前、造園業を営む長男夫婦と同居していた。嫁との折り合いが悪く、次男の家に移ったが、その次男が亡くなり、一人になった。
 長男夫婦の家に戻りたいと言ったが、嫁の強い反対で見送られたままである。

 年とともに体力は衰え、炊事、掃除、洗濯もままならず、次第に家は荒れ、汚れていく。
 だれの目にも介護が必要だった。
 話し合いを持つため、竹崎さんと長男の嫁が、老婦人の家を訪ねた。

 嫁がお茶を出そうと台所に向かった。流し台には使った食器が山となっている。
「あーあー」。何やらぶつぶつ言う声が聞こえる。
 おばあさんはテーブルにあった菜切り包丁を握り締めた。
「これで刺してやろうかと思う……」

 おとなしいBさんの口からとは思えぬ言葉だった。
 話し合いは淡々と進んだだけに、余計、不気味に感じられた。

 後日、竹崎さんは、嫁と二人で話す機会を得た。
「薄情な嫁、と義母は近所に言って回っているようだし、そう思われていると思う。でも私はこの家で目一杯やってきた。夫の仕事を経理で支え、乳飲み子を抱え本当に大変だった時、あの義母は何もしてくれなかった。今になって世話をしろだなんて……」と涙ぐむ。

「生きるのって本当に大変」
  嫁のその言葉が胸に刺さった。

■励ます言葉がない
 

高齢者介護による心身の疲労で、それまで良好だった家族の人間関係がギスギスし、虐待、共倒れに至るケースもある。
 そうならぬよう対処するのが相談員の仕事だ。

 しかし、高齢者介護には高い費用がかかるうえ、家族の自由も奪われる。
 しかも人生50年といわれた時代から80年となり、昔より介護期間が長くなった。将来ある若者と違い、死を待つばかりの高齢者に、家族の対応は次第に冷たくなっていく。

 介護家族の悩みを打ち明けられても、励ます言葉がないのが実情だ。
 救いのない話に、聞いた側も苦悩する。
 職員も、適当に相槌を打つか、仕事と割り切り、規定どおりの介護で済ませてしまう人が多い。

■介護の根底にある問題
 

 若い時は、人は楽しむために生きている、と考える。できるだけ楽しめば、それで十分いい人生ではないかと。
 だがその思いは、やがてふりかかる〝老い〟の現実に裏切られる。

「生きる意味なんてなかったような気がする」
  終日、部屋から山ばかり見ているという前述のA婦人はそう語った。

■なぜ生きる?

 介護の必要な家を訪問するたび、その問いかけが頭の中をグルグルと回り続ける。
 介護の根底にある問題は、生きる意味の分からない者同士が生きている、そこに行き着く。
 竹崎さんは身をもって感じた。

 学生時代に聞法していた時には分からなかった「なぜ生きる」のリアルな重みであった。
 親鸞学徒の介護職員としてできることは何なのか。就職して1年目、そう自問するようになっていた。
「デイサービスの日は、うれしくていつも朝早く目が覚めるのよ」
 介護施設を訪れる高齢者から、よく聞かされる言葉である。

■デイサービスとは日帰りの介護を指す。

 自宅で暮らしながら、週に2、3度、施設へ来て介護を受ける。入浴させてもらったり、体操や手工芸、アサガオ栽培などの園芸やおやつ作りで半日を過ごす。

 同じ境遇の高齢者同士、おしゃべりできるのが何よりうれしい。
 職員から大事にされ、快くトイレの世話もしてもらえるので、思う存分お茶が飲めると喜ぶ人も少なくない。
「いつお迎えが来るか分からないんだから。今のうち楽しまないとね」
「そうそう、いっぱいおいしい物食べて、皆としゃべってね」
 利用者たちの会話は、一見、屈託なく楽しげだが、笑顔の奥に陰りも漂う。
 わが家で肩身の狭い思いをしている裏返しともいえるからだ。

「社会的なつながりも、健康も若さも失われる一方の高齢者は、この先自分がどうなるのか、皆、先が見えないんです。その心はだれも分かりませんし、分かったとして、どうしてあげようもないんです」
 高齢者の抱える孤独は、若い人のそれとは異なるものと竹崎さんは語る。

■本当に必要なのは未来の真の明かり
 

施設で行う手芸などの作業の中で、重視されているものの一つがカレンダー作りだ。
 1カ月分のマス目がかかれた白い紙に、自分で日付を入れ、利用日や行事を書き込む。イラストも加え、自分だけのカレンダーができ上がる。

 なぜカレンダーなのか。

 福祉職員となって間もないころ、神奈川県の葉山町で職員研修を受けたことがある。50代くらいの理事長が言った。
「運動会や花見、夏祭りなどの季節行事や、外食、買い物、ドライブなどを短い周期で入れることが大事です。先の楽しみを常に与える。そうすると、そこまでは生きようという気持ちになる」
 だからカレンダーを作り、予定をいっぱい入れることは、高齢者の生きがい作りに大きな効果があると力説していた。

 竹崎さんは言う。
「立場上、高齢者に生きる道筋をつけるのが仕事です。それは他人の人生が自分の手の中にある感じです。『今日は楽しかった。明日もまた』と、先に希望を持たせ、明日へと向かわせる。でもそうやって生きてどこへ行くのか?どこへ連れていくのか?考えずにおれなくなるんです」

 ゴールがなければ、歩き倒れしかない。高森顕徹先生から聞かせていただくとおりだった。

 施設を利用する人たちは、毎年10人以上亡くなっていく。
 そう遠くない未来、自分の番が来ることを、利用者は薄々感じている。

 ここ数日、姿を見せなかったTさんの家から電話があった。
「先週、おばあちゃんが突然倒れて、入院させましたけどそれっきりで……」
 Tさんは亡くなった。そのことを、仲良しだったグループに告げにいく。
「Tさん、お亡くなりになったそうですよ」
 できるだけ優しく言うよう努めているが、一瞬、沈黙、戸惑いが見える。だがすぐに「仕方ないよねえ」という空気に変わる。

 デイサービスの日程は予定どおり進み、施設内には笑い声も響く。だがその瞬間にも、目に見えぬ命の砂時計の砂が落ち続けているのを竹崎さんは感じている。

「高齢者に生きがいを、とは行政側からもよくいわれます。でもその生きがいとは、死を待つだけの耐え難い時間を、ごまかす手段でしかないのでは?と次第に思えてくるんです。本当に必要なのは未来の真の明かり——人生の目的ではないでしょうか」

 

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

 

これは浄土真宗の信者が高齢者のデイサービスで働いていた時に感じた、「現代の高齢者社会の現実」についての手記です。

「自分の欲望を満たすことで喜びを得ているだけでは、老後に絶望の人生が待っている」

ということを高齢者介護の現場から伝えています。

人生は自分の欲望を満たす、「一時的な快楽・享楽にふけるためにある」わけではありません。

それでは、犬や猫のような動物と同じです。

筆者が言うように、

「高齢者に生きがいを、とは行政側からもよくいわれます。でもその生きがいとは、死を待つだけの耐え難い時間を、ごまかす手段でしかないのでは?と次第に思えてくるんです。本当に必要なのは未来の真の明かり——人生の目的ではないでしょうか」

とあるように、ある意味、現代社会は、「人生は生き地獄」のように作られています。

病気で動けなくなって、高齢という生理現象を「病気だ」と宣告されて、手術をしたり、寝たきりにならないように懸命にリハビリする。

それでも若者のように動き回ることもできなければ、新鮮さもなく楽しむこともできない。

その原因は、「自分の人生の生き方、自分と向き合ってこなかったことにある」と終末期に悟ることがあるかもしれません。

しかし、既に時遅し。

 

痛みや苦痛は感じることができる、意識だけははっきりとしている状態で、肉体が奪い取られてしまいます。

 

つまり、意識ははっきりしているのに、身体⇒「快楽=肉体で感じることができるもの」が使えなくなっていくのです。

そして、肉体の死、生命の三兆候反応がなくなれば、死亡です。

 

肉体が人間の存在だと考えていたのに、肉体がなくなる直前まで脳、つまり意識がある。

肉体はその役割を終え、使えなくなりますが、

「脳、(意識=霊魂)は、肉体がなくなった後、一体どこにいくのだろうか?」

という疑問が湧いてくるのは自然です。

 

人間は「脳、意識」が「次に行く場所が分かっていない」という不安はあるかもしれませんが

「どうせなら、肉体がなくなってから行く場所でもよい生活がしたい」

と思い始めます。

しかし、「次に行く場所」への準備が何もしてない。

「肉体の死」の後の準備が何もされていないのです。

 

スマホをいじりながら

 「あの世なんてあるわけない」

「死んだあとの世界なんて存在しない。目に見えるものしか認めない」

と若い人達は話します。

目に見えないものは「非科学的」だと洗脳されているだけで、あなたが今使っているスマホだって、電磁波という目に見えない物質で

通信していますよ。

スマホがなかった時代でも、テレビはテレビ線を通って膨大な容量の動画が送られてきます。

オンタイムで生放送までしています。

目に見えるものしか信じない=唯物論とは、つまり「電気やガスなど目に見えていないもので生活しているのに、見えているものしか理解できない、知能が低い思想」だと言えます。

 

「生きていても仕方ないよ」

「そんなことありません。患者さんがいるから、私のような看護実習性が実習できるのですから、一応役に立ってますよ」

「あー、そーかい。それならいいんだけど。

 でもさ、学生さん。


自分の人生は看護学生のモルモットにされて終わっていくためのものだったのかな?と思うとなんだか虚しくなるよ。


こんな結末になるのなら、努力なんかしなければよかった、無駄な我慢だった、もっとやりたいことをしてこればよかった。

肉体も精神も手遅れだった、それしか人生で分かったことはなかった。

もう人間なんてこりごりだ。あなたは私みたいな人生を歩んではいけないよ」

「はい。わかりました。

(よし、実習終わったら、彼氏と思う存分デートしよ♡)」

 

「その人らしい最後を迎えるためのお手伝い?がターミナル看護?」

笑ってしまいますね。

「その人らしい最期」が、地獄であるのだとしたら、ターミナルでの看取り、看護師という仕事はなんとも無力で地獄のような仕事だと思いませんか?

近くにいる人に、介護職員や看護師に「本当の悩みや苦しみ(=魂の苦しみや人生の虚しさ)を打ち明けられず死んでいく」現実。

 

「その人らしく」好き勝手に生きたところで、人生は絶望しかないのです。

いい加減、専門職と謳っている医療職は、曖昧な言葉で煙に巻くのは止めましょう。

「医学、人体、病気のこと以外何も知りません」とはっきり言うべきです。

「身体的な痛みや苦痛を緩和してあげることがターミナル看護だ」と低次元なレベルを「ターミナル看護だ」と思わないでください。

 

実際のターミナル期とは

私たち人間を司っている脳が苦しんでいるのです。そして脳を司る魂が、心が悲鳴をあげているのです。

 

ターミナルになった患者というのは、それこそ「毎日喜んでいなければならない」のです。

「生きていることに感謝して、肉体を離れ、旅立つ世界に夢と希望をもっていなくてはいけない」のです。

果たして、終末期の病棟に、そんな患者いるでしょうか?

 

はっきり言っておきますが、いくら年齢を重ねても、高齢者になっても「人生の目的」には到達できません。

「統合された人生を目指すこと」よりも「自分の欲望を満たす」「他人からどう思われるか?」という世間体を優先した価値観だけで生きてきた人達に、「満足した人生など送れるわけがない」からです。

 

「悔いのない人生」とは何でしょう?

・自分も明日、事故に巻き込まれて、死ぬかもしれない。

・大切な人が明日、不慮の事故で死ぬかもしれない。

毎日そう思いながら、「どうやって生きれば悔いのない人生をおくることができるのか?」自問自答した人だけしか、人生のゴールにはたどり着くことができないのです。

生死にかかわる仕事をしていて、私たち自身、虚しい人生だけは送りたくないものです。

(「悔いのない人生」について知りたい方は「こちら」で読んでみてください。)

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