キーパータイムスというキーパーコーティングのニュースレター最新号に
「車のボディーと会話しろ」と ある店長の指導法が載っていました。
「タイヤに祈る」ということがタイヤ屋の使命であるようなことを書きましたが
これは「タイヤと会話しろ」ということかもしれません。
「店と会話しろ」とも話をした事があります 「植物とも会話する」とも書いたことがありますが
それらのものにも ちゃんと「心」が備わっていると信じています。
「植物や車のボディーやタイヤに「心」が備わっている」
そんなバカな事あるか? と思うのはたやすいけれど
備わっているかも・・・・と思うことが出来たら楽しいし より大切に感じてくる不思議さを味わえるのです。
「店と会話しろ」と聞いて
スゴウ店の臼井店長は
看板が汚れているのに気が付いて看板にキーパーを掛けました。
物言わぬ店と会話するとは 「店」と人との一体感にヒントがあるようです。
人はよく「私の体」と表現しますが これは「体」と「私」が別なものであることを
前提とした表現です、飛躍すると肉体の死は決して「私」の死ではないということに
結びついていきます。
では 「私」とはいったい何者なのか?
少なくとも肉体ではなく 肉体を入れ物とした「霊魂・魂魄」が
「私の実体」らしく思われてきます。
「私」が肉体と店 そして店内の植物もまとめ上げて表現しているのが商売のような気がします。
そして 「私」も個別な存在ではありますが
あるレベルでは渾然一体とした
「私たち」になって他との区別はなくなります。
誰か一人の失敗が あの店は○○だと全体の評価にすりかわるのは
お客様は「私」の一体性を観じているわけです。
もし枯れ枯れの植物が店先にあるならば
その店の雰囲気は枯れて陰気を醸し出していることになります。
すると植物も店も実は「私たち」の表現体であり
「私」が毎日風呂に入り肉体の汚れと疲れを落とすように
「私」の表現体である店も汚れを取り植物に活性を与えるのも
全てが繋がっている・一体であるというという認識になり
喜びに溢れることになります。
個の殻が破れて意識が拡大するにつれ
店も植物も他人もあらゆるものがひとつである感じが
増してくるのです。
アンスリウムは今年株分けした二鉢です。 KPS岐阜店の入り口に華やかさを与えてくれています。
そこまでいくと「私」あるいは「私たち」という存在は
肉体や店や植物などあらゆる要素を使って
お客様をもてなそう・与えよう・喜ばれようとする存在である事になります。
それを人は商売の神様と呼ぶわけです。
逆に
お客様から奪おう・売りつけてやろうとする存在もあるように見えるわけで
それを人は悪徳商人と呼ぶわけです。
「私」は肉体や店や植物を包含した存在として意識の中にあるわけです。
伊藤として表れ 武藤として表れ 上村として表れ 臼井として表れ
高山として表れ 舟橋として表れ 大山として表われているのは
タイヤとキーパーの「七福神」といっても良いわけです。
考え方や意識は他の人やものまでも包み込むと
個と全体との関係性が理解できて 自らの成長が感じられます。
当社では 成長の渦が大きくなって
全てのスタッフが磨かれ高まり その結果として
業績が向上しつつあります。
ありがたいことです。
「車のボディーと会話しろ」と ある店長の指導法が載っていました。
「タイヤに祈る」ということがタイヤ屋の使命であるようなことを書きましたが
これは「タイヤと会話しろ」ということかもしれません。
「店と会話しろ」とも話をした事があります 「植物とも会話する」とも書いたことがありますが
それらのものにも ちゃんと「心」が備わっていると信じています。
「植物や車のボディーやタイヤに「心」が備わっている」
そんなバカな事あるか? と思うのはたやすいけれど
備わっているかも・・・・と思うことが出来たら楽しいし より大切に感じてくる不思議さを味わえるのです。
「店と会話しろ」と聞いて
スゴウ店の臼井店長は
看板が汚れているのに気が付いて看板にキーパーを掛けました。
物言わぬ店と会話するとは 「店」と人との一体感にヒントがあるようです。
人はよく「私の体」と表現しますが これは「体」と「私」が別なものであることを
前提とした表現です、飛躍すると肉体の死は決して「私」の死ではないということに
結びついていきます。
では 「私」とはいったい何者なのか?
少なくとも肉体ではなく 肉体を入れ物とした「霊魂・魂魄」が
「私の実体」らしく思われてきます。
「私」が肉体と店 そして店内の植物もまとめ上げて表現しているのが商売のような気がします。
そして 「私」も個別な存在ではありますが
あるレベルでは渾然一体とした
「私たち」になって他との区別はなくなります。
誰か一人の失敗が あの店は○○だと全体の評価にすりかわるのは
お客様は「私」の一体性を観じているわけです。
もし枯れ枯れの植物が店先にあるならば
その店の雰囲気は枯れて陰気を醸し出していることになります。
すると植物も店も実は「私たち」の表現体であり
「私」が毎日風呂に入り肉体の汚れと疲れを落とすように
「私」の表現体である店も汚れを取り植物に活性を与えるのも
全てが繋がっている・一体であるというという認識になり
喜びに溢れることになります。
個の殻が破れて意識が拡大するにつれ
店も植物も他人もあらゆるものがひとつである感じが
増してくるのです。
アンスリウムは今年株分けした二鉢です。 KPS岐阜店の入り口に華やかさを与えてくれています。
そこまでいくと「私」あるいは「私たち」という存在は
肉体や店や植物などあらゆる要素を使って
お客様をもてなそう・与えよう・喜ばれようとする存在である事になります。
それを人は商売の神様と呼ぶわけです。
逆に
お客様から奪おう・売りつけてやろうとする存在もあるように見えるわけで
それを人は悪徳商人と呼ぶわけです。
「私」は肉体や店や植物を包含した存在として意識の中にあるわけです。
伊藤として表れ 武藤として表れ 上村として表れ 臼井として表れ
高山として表れ 舟橋として表れ 大山として表われているのは
タイヤとキーパーの「七福神」といっても良いわけです。
考え方や意識は他の人やものまでも包み込むと
個と全体との関係性が理解できて 自らの成長が感じられます。
当社では 成長の渦が大きくなって
全てのスタッフが磨かれ高まり その結果として
業績が向上しつつあります。
ありがたいことです。