中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

有一腿

2024年09月14日 | 中国グルメ(美食)
金華火腿

 今回の話のテーマは、豚の後ろ足一本を丸々塩漬けにし、寒風に晒して作られる、金華火腿(金華ハム)。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)

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 広東人の雑食性を形容することばに、こういうのがある。「翼のあるものは、飛行機以外。四つ足のものは、テーブル以外。広東人は何でも食べる。」

 たとえ飛行機が食べれたとしても、広東人はおそらくあまり食べたがらないと思う。なぜなら飛行機という二枚の翼を生やした物体はいつも遅れるので、これを食べようと思ったら、たいへんな我慢強さがなければならないからだ。それに比べ、足(脚)のテーブルに対する重要性は、明らかに翼の飛行機のそれより高い。紫檀やマホガニーなど、中国の堅木を使った家具の典型として、明式の家具がもし「圓腿側足(円形の脚は斜めに立ち)、方腿直足(方形の脚は直立する)、及び三弯腿(外に広がる馬蹄脚)、鼓腿膨牙(腰部から外に孤を描いて飛び出し、端は内側に収まる)」という美しい脚部の系統を欠いていれば、テーブルの脚の安定を欠くなど二の次で、「その力強さはやさしくしとやかな中に含まれる」という品位や外観が大いにマイナスされてしまうだろう。

 我々が肉食に対して行う審美判断はある程度まで明式の家具と同様で、鳥であれ獣であれ、足はおおむね最も美味しい部分である。

 足の旨さは、主に常に運動していることにより、食べると味が良く、筋肉のきめの細かい口当たりがすることによる。肉付きの多寡や厚みは二の次である。正にいわゆるとびらの枢(とぼそ。回転軸)は虫に食われず、流水は腐らず、水の中を転がる石には苔が生えない。足の旨さはその運動による。

 直立歩行してから、足は人体の上で絶えず運動する部位となった。もちろん、進化した両手も猶更閑でいることがなくなった。たとえ静かに座っている状態でも、多くの人のは知らず知らず勝手に両足を揺すぶっている。足を揺すぶるのは極めて佳くない着座の姿勢で、民間には「女が足を揺すぶるのは下品、男が足を揺すぶるのは貧乏」という言い方がある。アメリカ神経医学会の医学研究報告はこう指摘する。いつも両足を揺すぶらしている人は、潜在的に「注意力を集中できない多動性障害症候群」の兆候がある可能性があると。研究によれば、我慢できずに両足を揺すぶっている男女に言わせると、両足をちょっと動かしてやると、気持ちが良くなり、座っていようが横になっていようが、両足を動かせる状態にできれば、体中が心から気持ちよく爽快に感じられるのである。

 このように、「女が足を揺すぶるのは下品、男が足を揺すぶるのは貧乏」という言い方には、別に科学的根拠は無いのだが、家畜の両足が、正常な運動以外に、もし人類のように何かあろうが無かろうが、ぶるぶる揺すぶり運動をしてくれれば、食べてみればきっと爽快の上にも爽快で、しかもそれはメス、オス関係ないであろう。広東人が好むガチョウのもも肉のローストで言えば、事情通は必ず左足を選んで食うが、どうしてだろう。なぜなら左足はガチョウの利き足で身体を支える足なので、肉質の上でもたいへん滑らかで爽快なのである。

抗金名腿(宋代、抗金戦争から生まれたハムの名品)

 足について言えば、食用の家畜の中で、豚の足が見た感じが最も醜い。しかし美味しさから言うと、豚の足が第一と認識され、おそらくその他の家畜の足を推す勇気は誰にもないだろう。

 豚の足はほとんどハムを作る唯一の原材料である。中国の「二大美腿」(二大ハム)は、雲南の宣威火腿(「火腿」はハム)と浙江の金華火腿である。その中でも後者は多くのハムの中で最も代表的なものである。金華火腿(金華ハム)が総合的な営業販売上で成功したポイントには、以下のことが挙げられる。1、当地原産の良質の豚、「金華二頭烏」を選定した。この豚の頭、臀部は真っ黒、それ以外は皆白で、後ろ脚はとりわけ肉付きがよくたくましく、赤身が多く脂身が少なく、脚が細く爪が白く、皮が薄く肉が柔らかく、ハム制作に最も適していた。


金華二頭烏

2、ハムの発明は、聞くところによると宋代の抗金の事跡と関係がある。伝えられているところでは、南宋の名臣、宗澤が金兵に抵抗するため、旧都開封に残留していた。ある時、生まれつき倹約家の宗澤は、食用で余った豚のもも肉を塩漬けにした。当時は、開封までの距離が遠く、また冬の寒さも厳しく、豚の脚は寒風に晒して乾かすと、腐敗しないだけでなく、味わいは却って一層美味しくなった。宗澤は浙江義烏の人で、彼や彼の部下がこの豚の脚を食べて後何度も金兵を破り、義烏の同郷の人々はこの知らせを聞いて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)しない者はいなかった。ハムの発明はこうして大々的に広められ、しかもひとたび人気に火が付くと、その人気は今日まで続いた。

 義烏のハムはずっと「 金華火腿」(金華ハム)の名を冠せられ、「金腿」の名は後世まで伝わって販売されたが、もちろん抗金運動とは関係がない。その一、ハムの生産が盛んな東陽、義烏、金華などの地は、昔総称して金華府と呼ばれた。その他、金華はこの地域の商品の集散地であった。曾て、聞くところでは義烏の人は自分が作ったハムを金華まで運んで売り、自分はハムの表面の削り取った黴の生えた部分しか食べれなかったそうだ。

 莱陽の梨、徳州の扒鶏の類を含め、中国にはこうした冤罪やでっち上げがとても多い。「金腿」はとても響きの良い名前だが、全体として実事求是的にはやはり「義腿」と言った方が聞こえが良いだろう。「火腿」ということばの由来にもいくつも異なる説がある。その一、『東陽県志』によれば、「蹄を燻(いぶ)すを、俗に火腿と謂う。その実は煙で燻し、火を使うに非ず。腌(塩漬け)し晒(さら)し燻すを法(手本)の如くせば、果たして土地の常品(その他の通常のもの)に勝る。腌する所の塩は必ず台(台湾の)塩、燻す煙は必ず松煙、気香烈ならば入るに善く、之を制す(作る)に時に及び(ちょうどよい時期に)法の如くする、故に久しく旨しと称す。」その二、某役所によれば、金華ハムをテーマにした連続テレビドラマで、ある恋人のカップルがベーコンを塩漬けにする工場で逢引きした時、うっかり大火を引き起こし、遂にはベーコンがハムになってしまった。その三、その肉の色が、「日の出の川辺の花の赤色が火焔に勝る」ほど美しいのと比肩し得るので、「火腿」と名付けられた。

風騒入骨(あだっぽさが染み渡る)

  金華火腿について、今日までなお事実と証明されていない民間の伝説がある。毎回百本の金華火腿を塩漬けにして仕込む度に、その中に必ず犬の脚を一本混ぜて入れるようにしていた。一本の犬の脚を百本の豚の脚に紛れ込ませる、この時の犬の役割は人に代わって犬の脚が「羊の放牧」での番犬の役割をするのではなく、目的は塩漬けの過程で豚の脚の味をととのえるためである。

 犬の脚はそんなに美味しいのか。どうして一本で百本に対応することができるのか。このことを知っている者は恐らくあまりいないだろう。鄭板橋(清代の文人で、揚州八怪のひとり)は犬の肉を好んだと言われ、とりわけ犬のもも肉が大好きで、いつも「一匹の犬に八本の後脚が生えていればいいのに」と言って嘆いた。

 金華火腿は美味であるが、料理の上ではいつも様々な用途に使える高級調味料の共演者の身分で登場した。中国の南方や北方の料理系統の様々な名菜の中で、金華火腿の「有一腿」を主な材料とする料理はよく見られる。それと同時に、また多くの人が、これを食べてみると、口当たりが粗野で硬く、塩辛過ぎ、しかも長い時間貯蔵されていたので、我慢できない「‌‌哈喇味」(鼻に衝く臭み)があって嫌がられる。でも実際は、うまく作られた金腿(金華ハム)は肉質が柔らかく滑らかであるだけでなく、食べてみて、その本当の味を知りたいなら、ただひとつ、蒸すことこそ最上の方法であり、薄く切って米の飯と一緒に蒸すと、油や脂肪が飯に尽く吸われ、芳香が尽きることなくすばらしい。これを原料に配しても、その味はまた良い。しかしそうすると 金華ハムがよく蒸された後に呈する、火のように赤くつやつやし、脂のように白くきめ細やかな美しく艶めかしい景色の眺めは大いに破壊されてしまう。


蜜汁火腿

 実を言うと、金華ハムのこうした赤くする方法は、確かにとても特別な赤色である。色彩の名称で、「加州紅」(カリフォルニアレッド。カリフォルニアワインの赤)、「中国藍」(チャイニーズブルー、又はプルシャンブルー。染料の名前。紺青(こんじょう))、「喜馬拉雅白」(ヒマラヤホワイト。真珠、水晶、鰐皮など)以外に、わたしは肉感が強く感じられ、あだっぽさが染み渡る赤色を、「金華火腿紅」と名付ける必要があると思う。


 世の中の「美腿」には、中国の「金腿」(金華ハム)、「雲腿」(雲南ハム)以外に、もっとポピュラーなのは、英語でhamと呼ばれるもので、イギリスやアメリカで盛んに作られ、食べられている。アメリカの火腿(ハム)は字ずらの上では名実ともに「美腿」(中国語でアメリカは「美国」なので、アメリカのハム)であるが、けれども梁実秋先生(1903‐1987台湾でのシェークスピア研究の権威。散文家)の見解によれば、この「美腿」は決して「不味い訳ではないが、別のもの……ただ金華ハムと同日に論じることはできない」。つまり、これは中国でも様々なブランド名で売られている、国産の「火腿腸」(ハム・ソーセージ)に似たものである。それ以外に、地球上には金華ハムと「同日に論じる」ことができる「美腿」があり、おおむねスペインとイタリアのふたつの産地にのみ存在するものだ。

外国火腿(外国のハム)

 スペインやイタリアのハムは生で食べるが、その味わいは金華ハムとは異なっている。その食べ方のひとつに、生ハムメロン、すなわち紙のように薄いハムでメロンを覆ったり巻いたりしたもので、西腿(スペインハム)や意腿(イタリアハム)の代表的な食べ方である。ピンク色の半透明のハム、黄金色のメロンの身と硬い緑のメロンの皮。生ハムメロンがもたらすものは、先ず一種の視覚的な衝撃である。甘さの中に生臭い塩気を帯びた味わいは、更に奇異である。金華ハムと冬瓜のスープを飲み慣れた人にとって、これは最初は受け入れ難いものだ。

 スペイン人とイタリア人は、食習慣の上で多かれ少なかれ「ハム中毒」の気がある。たとえば、スペインでハムを売る店は「生ハム博物館」と呼ばれ、マロルカの名監督、ルイス・アラゴネスは日本のあるクラブチームから200万米ドルの年俸のオファーを断った理由が、「日本にはスペインハムが無い」からであった。ビガス・ルナの1992年の映画作品、『ハモンハモン』(ハモンはスペイン語でハムの意味)で、更にスペイン人のハムへの思いを極限まで押し広げた。映画の男性の主人公はハム工場の配達員、ラウルである。ハムの貯蔵室に住むこの背の低い男は、ずっと闘牛士になることを夢見ていた。彼の熱愛の対象は、男物の下着工場で縫製をする女工のシルビアである。しかしシルビアは、ひたすら、自分の母親を深く恋する工場の若社長ホセと結婚したいと思っていた。ホセの母親はシルビアと息子の結婚を望まず、ついにシルビアがラウルを好きになるよう仕向けた。この過程で、ラウルのことを好きだったのは、ホセの母親自身だった。こうした愛憎劇が爆発するや、ラウルとの間で武器を持って殺し合いが始まった。ホセの武器は、一本の太く大きなハムの大腿骨であった。ラウルは手に一本丸ごとのハムを持って武器とした。この映画は1992年第49回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。この時、金獅子賞を受賞したのが、張芸謀の『秋菊打官司』である。

 ハムと言えば、そしてスペインとイタリアと言えば、ついでにサッカーのことを取り上げざるを得ない。わたしは、このふたつの国は快速の突破能力を具えたフォワード選手を豊富に生み出しているが、それは「ハム文化」と無関係であるとは思えない。言い方を変えると、サッカーは本質的にはつまるところ、足首や脚を使った運動なのである。この問題に対する理解の違いが、ある地域のハム文化が発達しているか否かを決定づけている。東方のハム文化大国として、中国サッカーチームが依然としてアジアの壁を突破できないのを、故郷の皆さんに恥じるのはまあ置くとして、我が国のハム文化の奥深い中身に対し申し訳ない。このことは実に道義上許されないと思う。

花拳繍腿(ポーズはきれいだが、実際の格闘ではあまり役に立たない)

 豚の脚以外に、美味しい「美腿」はたくさんある。しかし火腿(ハム)と比べ、どれも花拳繍腿、つまり、そのポーズはきれいだが、実際の格闘ではあまり役に立たない拳法であるだけだ。

 中国人は誰もが鶏のもも肉(鶏腿)は食べる価値があり、「魚の頭は骨の端には肉がついておらず、鶏やアヒルはもも肉やむね肉だけが食べるのに適して」いて、「鶏を食べるならももを食べなければならず、住む部屋は南向きであるべき」と、富貴な生活を形容した。実際は、鶏のもも肉は肉がたくさんついているが、肉の味や口当たりは手羽先やむね肉に遠く及ばず、何なら「鳳爪」(足先。もみじ)にも及ばない。大きな肉の塊りを食らうというのは、貧しさの象徴である。曾て土地の悪者が人を誘拐すると、人質に鶏肉を食べさせてみることがあったそうだ。鶏丸々一羽用意し、相手が箸をつけるのがどの部位であるかを見た。もも肉を挟めば、身代金は適量で良い。手羽先を挟むと、家の財産を使い尽くすまで待った。

 別のもうひとつの「鶏腿」、田鶏(カエル)の太ももはとても美味しい。「烤櫻桃」という名の有名な料理は、カエルの太ももを材料にしている。いわゆる「櫻桃」は、カエルの太ももの肉が上向きに縮み上がって丸くなり、同時に一段の骨が露出し、まるで茎の付いたサクランボのようで、食べてみると、肉質がきめ細かく、すべすべして柔らかく、格別な噛み応えがある。もちろん、この二本の「美腿」を除くと、一匹のカエルの全身には何ら食べるに値するところは無い。

 食肉族について言えば、最も食指が動かぬが、捨てるには惜しいのは、ある種の水生動物の脚で、例えば蟹やイセエビの類である。脚はたくさん付いているが、肉感に乏しく、食べてみると瓜子(ヒマワリやスイカの種)を噛み割るのと同様、面倒である。しかし、イセエビの前足(正確に言うと、節足動物のはさみ)は次のような特殊な情況下では絶対に捨て置くことができない。つまり、もしイセエビが生前に一方のはさみを失ってしまうと、その精華が全て、残った一方のはさみに集中し、美味なることこの上ない。

 ソルジェーニツインの小説『癌病棟』の中で、ひとりの患者がこう言う。「一本の足を失うと、根本的に生活ができない。」それなら、生まれつき足の無い魚類は「二本の足を欠いているので、根本的に美味を語れない」と言うことになるのか。このうえなく魚を食べるののが好きな者は、この問題についての意識が、大体においてとても矛盾している可能性がある。一方において、食客たちの水掻き(すなわち魚の尾びれ)と魚翅(フカヒレ)への追求は、ひょっとすると潜在意識の中で「魚腿」や魚の「完全性」への渇望を持っているせいかもしれない。また一方で、足の無い生物は、世界で最も美味な食物であるのかもしれない。李漁(1611年—1680年。明末~清初の文学者、劇作家)は美しい女性の顔や髪、手足を語り尽くしたが、ただひとつ、 美腿(ふともも)のことは語らなかったが、なぜだろう。わたしは、それは主に太ももがスカートの中に隠れていて、視覚的な衝撃を引き起こすすべが無かったせいだと思う。見えない腿は、機能のうえで見えない手よりもっと強大であるが、腿が無いのはひょっとすると 美腿の至高の境地かもしれない。これすなわち南派の武術(カンフー)での「佛山無影脚」(地面に足の影さえ映る暇もないほどの素早い連続足技)のことである。
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和猪油偷情(ラードと逢引きをする)

2024年09月04日 | 中国グルメ(美食)
猪油(ラード)

 今回のテーマは豚の油、ラード。これで炒めた料理は旨いのですが、健康志向の昨今では、使用が憚られることが多く、そういえば、香港の中秋節の月餅の宣伝で、ラード不使用を謳っているケースがありました。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)

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 豚肉の脂身は、もはや人々があまり敢えて食べようとはしなくなった。少なくとも、既にあまり人々が人前で、公然と食べることをしなくなった。事既にここに到り、猪油(ラード)は豚肉の脂身の粋ではあるが、それ以上に提起することさえ憚られる禁忌となった。

 猪油 (ラード)がいつからわたしたちの日常の食生活から離れてしまったかを、時期の上で確定するのは大変難しい。ラードはつまるところ、食用油の配給切符の対象でなければ、肉の配給切符、全国糧票(中国全国の食糧配給切符)の対象でもない。ひとまず1985年を境目として、北京、上海、広州、及び中国東南沿海の大部分の都市の住民について言えば、これ以前に出生した人なら、多少はラードに触れたことがあるだろうが、これ以降に出生した人々は、基本的に生まれた時から先天性免疫のようにラードとは一線を隔している。

 ラードを食べないのは、絶対的にそうすべき理由があってのことである。その理由というのは、ラードに含まれる飽和脂肪酸が過多で、コレステロールの量(LDLコレステロール)を増加させ、それにより動脈硬化を引き起こし、直接には高血圧、心臓病、脳梗塞などを引き起こす。実際のところ、医者の無味乾燥な説教だけでは、ラードを多くの人々の厨房から追い出すには不十分である。ラードが寵愛を失ったそのポイントは、第1、生活が豊かになった。第2、ピーナツ油、コーン油、サラダ油、オリーブオイルを含む多くの代替油が続々と登場したことによる。

 明らかに、ラードを食べないのと豚肉を食べないのは、応対するのは同じ道理で、健康観念の他、実質的な物質の基礎がなければならなかった。例えば、赤身型の肉豚が大量に育てられると、これら赤身型の「よく肥えた豚」は豚インフルエンザワクチンを投与してからより多くの赤身を生産する際、「豚肉に油脂を使うのを禁止する」のが自然と食品市場で売買双方の共通認識になった。

 豚肉が大変好きな蘇東坡は曾てこう言って嘆いた。「肉が無ければ人は痩せ、竹が無ければ人は低俗になる」。ただ、かれはここでこの「肉」が脂身なのか赤身なのかはっきり言わなかった。現代の人々の解釈では、ここでの「肉」は赤身であることは間違いない。なぜならわたしたちは「 竹が無ければ人は低俗になる」ことに同意しているだけでなく、更に脂身が人を低俗の上に更に堪えがたい程に低俗にすると信じて疑わないからである。もちろん、わたしのようなラード愛好者であれば誰もが、身をこのような危険な環境下に置き、ラードに対する思慕がひとたび抑えが効かなくなり、ひいては身を焦がれるようになるに至ると、逢引きをするかのように、こっそりと豚の脂身を買って来て、自分でラードを調製すれば解決ができる。けれども問題は、こうした「白い恐怖」に溢れたラードを食べてしまおうとすると、それはわれわれ自身の油に変わってしまうので、止めるしかなく、「こっそり食べることができなかった」と言って自分で自分を慰めた方がましである。

肥白(太って白い)

 「白」はいつも「胖」(肥満)と結びつき、実際の経験もおそらく同様である。豚がそうなら、人もまたその右に出ることはない。けれどもその中の道理は、誰かに真面目に探求された様子がない。太った人の皮膚の色が白いのは、決して太った人の多くが生まれつき怠け者だからではなく、屋外での活動に従事することを好まず、陽の光を浴びることが少ないからである。

 何れにせよ、太って白い(「肥白」)のはわたしに消し去り難い印象を残した。生涯で初めてこの言葉を読んだのは、『子夜』という長編小説の中で、たいへん痩せておられた茅盾先生が手ずから書かれたものである。しかし、作者が「肥白」で形容したのは決してひとりの人物の外観上の容貌ではなく、太ももであり、チャイナドレス(旗袍)の端から露出したものである。今思い返すと、わたしは世の中に本当に「肥白」と呼ぶに値するものがあり、それはただラードはだけであり、それも凝固した状態のラードである。これはおそらく中国語でバターのことを「黄油」と言う原因のひとつでもあろう。奇妙なことに、「黄油」(バター)を食べるのは、多くが白色人種であり、ラードは大部分が黄色人種の「代表的油」であり、それなのに白いのである。もちろん、ラードの白色は決して白色人種のような青ざめた白色ではなく、どう言えばよいのだろう、幾分きめ細かいなめらかさを帯び、少し薄暗くゆったりした光沢を発し、つまり、少し「しっとり」し、少し「脂ぎった」そういう「白」い「肥白」である。そうだ、他でもなく徳化窯で焼かれたあの白磁は、玉のようにきめ細かい地の上に、釉薬をかけた面は脂のように透き通った白で、世に「中国白」と呼ばれ、またの名を「猪油白」と言う。これを手で触ると、触り心地はまるで、十年以上も使われてきた象牙の麻雀牌の中の白板(パイパン)のようである。

 実は、わたしはとっくに、「温泉水で凝脂を洗い流す」という中の「凝脂」は、「肥白」を美とした白居易の時代、正にラードとの共通の感覚を借用した可能性が強いことを思いついていないといけなかった。柏楊先生はそれゆえ嘆声をもらされた。「凝脂とは、本当に白先生が最初、どうやって思いつかれたんだろう。この二文字だけで、ノーベル賞を獲得することができるよ。」聞くところによると、中国古代の有名な美女たちの身体の上のそうした「凝脂」とそのお手入れには、通常ラードを配合した美容クリームが使われたそうだ。ファッション雑誌誌上に「伝統的ラード美容術」という記事が掲載され、そのやり方は次のようなものである。新鮮なラードをきれいに洗った顔に塗り込み、その後水蒸気で蒸す。もしスチーム美容機が無い場合は、大きなお碗に沸騰したお湯を注ぎ入れ、バスタオルで首から上をお碗もろとも包み込み、お碗の中の熱気を直接顔面に当て、5分から10分蒸してからバスタオルを取り去る。もしスチーム美容器も大きなお碗と沸騰したお湯も無い場合は、ラードを直接顔に塗り込んでも良い。

黒澤明


寧波湯団

 ラードの中国料理での主要な役割は、炒め物の料理に使うこと。正確に言うと、これを用いてネギやニンニクと一緒にごま油を強火で熱して炒めた料理は、フランス人が習慣的にヘットで赤玉ねぎを強火で炒めるのと似ている。

 ラードを炒めて中国料理を作るのは多くの利点がある。とりわけラードが厨房を追放されて後、こうした様々な利点がおもむろに回想されてきている。例えば、ラードの発煙温度が高いので、高温の油で炒めたり油で揚げるのに適していて、比べてみると、比較的「健康」的な不飽和脂肪酸(PUFA)を含む油類は、通常では高温に耐えきれず、酸化し変質しやすく、且つ濃密な油煙を発生させ、却って健康に有害である。

 実際には料理を炒めることは二の次で、以下の三つの南方の点心では、ラードの役割や能力が完璧な境地に達している。

 寧波湯団は、またの名を猪油湯団と言う。水車で挽いたもち米粉で皮を作り、豚の背脂と黒ゴマに 餡を作り、それをより合わせて団子にし、沸騰したお湯の中で三分煮て、白砂糖を加え、キンモクセイを振り掛け、再びこの団子を見ると、表皮は白玉の色を呈し、ひと口噛んで皮を破ると、黒ゴマとラードが混ざり合ってできた黒くつやつやした暖かい流れが勢いよく飛び出す。もし猪油湯団のためにブランド名を考えるとすれば、わたしは「黒澤明」が最も良い選択だと思うが、どうひっくり返しても毛生え薬のブランド名にはならない。(この文章が書かれた当時(2004年ごろ)、中国内で「黒澤明」というブランドの毛生え薬が売られていたようだ。)


芋泥


蝦餃

 芋泥(里いものマッシュ)は、福建で盛んに作られる檳榔芋を原料にし、砂糖、ラードを加えて蒸して作る。里いもの他、芋泥 が美味しいか否かは、全て糖分とラードの分量と温度の間のバランスに依り、つまり、この三者の間に一種の脂身、甘さ、粉、柔らかさ、熱さの入り乱れた融合を作り出している。エビの剝き身と豚の脂身を餡の材料とする広州の蝦餃(エビ餃子)も、熱力に依って蒸篭の中で豚の脂身とエビの剥き身の中の肉汁が染み出してこそ美味しいのだ。芋泥 と蝦餃が双方ながら健在だけれども、ただ鶴に乗って去ったラードの味は再びめぐり合い難い。人に虚しく「人面は何れの処に去るか知らず、桃花は旧に依り春風を笑う」の嘆きを催させるだけである。

 結局のところ、漢民族は飲食の上で、豚肉文化を代表する民族であり、豚肉を取ってラードを捨てるなんて、情理から言って許容できないのだ。健康に良いかどうかなんて、十数年前に起こった黄土文明と海洋文明の争いと同じで、犯したのは方法論の間違いである。わたしはこう信じる。こうした情況は、誰が正しく誰が間違っているか、誰が優勢で誰が劣っているかはどうでもよくて、重要なのは、誰が美味しくて誰が不味いかということである。中国料理がラードを捨てるというのは、あたかも毛筆の文字を書くのに墨汁を使うのをやめ、ブルーブラックのインクに浸して文字を書くようなものである。もちろん、墨汁は言うに及ばす、毛筆、ペン、鉛筆、クレヨン、ボールペン、甚だしくはキーボードだけ使ったって、中国語の文字は書けるのだが。

油然而生的幸福(自然にわき起こる幸福)

 動物性の油脂が一般に獣臭い臭いがする以外に、ラードには別に一種の独特な風味があり、わたしたちにある種、自然にわき起こる快楽と安らぎをもたらしてくれる。これは市井に充満する息吹であり、極めて世俗的なもので、暖かい幸福である。

 幸福な味わいを描くのに長けたフランスの女流作家、フランソワーズ・ルフェーヴルは、『幸福の預金通帳・ラードで炒めた玉ねぎにパンを添えて』の中でこう書いている。「ラードを温めて溶かしながら、わたしはそれを注視しつつ、心の中になんとも形容し難い悦びが湧き起こった。溶けたラードが熱せられてジィジィと音をたてたら、もう刻んだ玉ねぎの薄切りを投入していい。玉ねぎが炒まって黄金色を呈したら火から下す。わたしは両目を閉じ、この幸せな一食に心から感謝する。誰に感謝すべきかは分からないが、確かなのは生活が改善し、もっと幸せになれるだろうということだ。けれども幸福がやって来る前に、この摂氏0度を下回る冬の夜にあたりに広がる黄金色の玉ねぎの香りは永遠に忘れることができないだろう。そのことを想像するだけで空腹感を取り除くことができ、はるかかなたの深い悦びが自然と生まれてくる……。今や調理が終わり、これをお碗に入れ、ラードが冷えて固まってくれば、この料理は完成である。この時間を使って、硬くなったパンを火にかけて炙り、指を温め、同時にパンの香ばしい香りがしてきたら、固まった玉ねぎのラード炒めを今しがた炙ったパンの上に載せ、あら塩を振り掛け、これと一緒に一碗の薄い牛肉スープを付け合わせて飲めば、そのしみじみとした味わいと食べた時の満足感は、それに加えて凍てつく夜に露営しての食事であってみれば、これまでの生涯で永遠に取り戻し難い感覚であった。」

 ラードに詩心を与えた暖かい文字の記録は、張小嫻『友情的猪油』に見ることができる。「深夜2時に「猪油撈飯」(ラードを加えて炊いた蒸籠蒸し飯)に来て夜食を食べた。元々何も考えていなかったが、食べながら蔡瀾が笑い話をするのを聞くうち、ふと、友達って本当に良いものだと感じた。少しの苦しさを我慢すれば、たくさんの友達があなたのことを心配し、ひいては進んで徹夜であなたに寄り添い夜食を食べ、笑い話を話してあなたに聞かせてくれる。本来なら太るのを恐れるのに、恩に感謝してそれに報いようと、小さなお茶碗に半分の猪油撈飯を食べてくれる。食べることが友情なのである。」

 よく知ったラードに付き従い、これらの見ず知らずの人がしばらく感動するうち、ふとたいへん奇妙に感じたことがある。ラードに対してこのような感覚を持ち、口に入れたラードの幸福と「深夜の友人」、「早朝のシャワー」、「夜眠れずにいた後、また寝入ることのできた満足感」、「冬の日にヒヤシンスの花が咲いた」、及び「屋外に行って服を乾す」(以上は皆ルフェーヴルの『幸福の預金通帳』に書かれている)を同列に論じているのは、どうして皆「太ることを仇のように恐れる」女性たちなのだろうか。


猪油渣(油かす)


猪油渣(油かす)

 香港人が言う「油渣」は、ディーゼルオイル(柴油)のことを指す。「柴油」という言葉は、時には人々に柴米油塩醤醋茶(生活必需品のこと)を連想させ、勝手に何かを想像するような感覚であるが、腹が減っている時にガソリンスタンドで「油渣」の二文字を見ると、わたしは我慢できずこっそりつばを飲み込んでしまう。

 ガソリンスタンドは実際はつばを飲み込むのにたいへん不適切な場所であるが、「油渣」はわたしに、つい極めて旨い「猪油渣」(油かす)を連想させてしまう。 油かすは、脂身の肉を煮詰めてラードを取った後に残った残滓だが、決して豚肉の余りのよこしまな部分ではなく、反対に、豚肉とラードの結晶と呼ぶに堪えるものである。もしラードを流れ動く建物と言うなら、猪油渣 (油かす)は凝結する音楽である。小さい頃上海では、軽食堂で小皿に少し塩を振り掛けた油かすが置かれ、しばしばわたしや何人かのクラスメートが放課後のおやつにした。これは子供にとって豪華な散財品で、ただたまに手に入るものだった。

 実際、1980年代以前に生まれた貧しい者にとって、ラードをこの世の珍しいごちそうと見做す者はあまりいなかった。周潤発によれば、彼は小さい時生活が苦しく、ダイコンがひとつ、油かすがいくつかあれば、飯を一碗食うことができた。油かすはそれでももったいなくて食べれず、必ず母親に残しておいた。

 中国以外では、聞くところによるとフランスのワインの産地、ボジョレーでは、油かすは今に至るもなおたいへん人気のあるおやつで、当地の人はまたこれを肴に酒を飲むそうだ。このことは本当にわたしのような年寄りを安心させる良い知らせで、もし油かすが食べたくて仕方がなくなった時に、少なくともひとつは行く場所がある、たとえ多少距離が遠い恨みはあるけれども。

 炒め物の料理を作ったり、点心の餡にする、及び油かすを作る以外に、ラードは直接食用にされることがたいへん少ないようだ。つまり、外国人がバターを食べるように、直接パンの上に塗るようなことはない。わたしの印象では、ドイツ人だけがラードをパンに塗ることがあるようだ。蔡瀾先生が愛情を注ぎ、苦心して経営された「猪油撈飯」は、最もラードと親密に接触した食べ方と見做されている。わたしは 猪油撈飯は上海料理(上海菜飯)を焼き直して生まれたものではないかと感じている。菜飯(おかずと飯)と言えば、思い起こされるのが、三年前に上海のあるレストランで、料理の注文で、泣くに泣けず笑うに笑えない経験をした。わたしは「おかずと飯はありますか。」(有菜飯嗎?
)と聞いた。店の答えは「ありますよ。ご飯は何杯要りますか。」それで聞いた。「まだいいです。料理はラードで炒めますか?」答えは、「大丈夫ですよ(帮帮忙)、今は誰がラードなんか使うものですか。安心なさい、絶対にラードは使わないですよ。」それで答えた。「すみません、それなら料理は要りません。」

 わき目もふらずに飲み食いを終え、店を出て振り返ると、店の看板には明確にこう書かれていた。「正宗猪油菜飯 」(正統なラードで炒めた料理)。
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焼乳猪

2024年08月31日 | 中国グルメ(美食)
shāo rǔ zhū
子豚のロースト

出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)

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 烤乳猪(子豚のロースト)のことを、広東人は焼乳猪、或いは焼猪と言う。この点については、ことばの規範のことであまり質問すべきではない。なぜなら、 烤乳猪であろうと焼乳猪であろうと、この料理は広東人が発明したものだからである。それはちょうど、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後そこの土着民をずっと「インディアン」と呼び続けたのと同様、服従せざるを得ない。

 『礼記』の中で取り上げられた「炮豚」が現代の焼猪の調理法と比較的似ているけれども、「炮」páo、炙られたものがいったい乳猪であるかどうかは、言葉が簡単すぎて分からない。これに比べ、広州での考古学的発見はもっと説得力があり、南越王第2代、王趙胡(紀元前122年頃)の墓の中で、焼乳猪用のコンロ、フォーク(子豚の身体に突き刺し、火にかけ全体を炙るのに使う串)、子豚の残骨などが発見された。

 広東の焼乳猪が天下に抜きん出た技法であることを除き、乳猪(子豚)の広東の人々の風俗の中での様々な付加的用途も、たいへん明らかである。婚礼の祝宴には必ず出さねばならない他、清明節のお墓参りに、広東人は焼乳猪をお供えする。毎年この時期は、焼腊店(ローストした豚、鶏、ダックや燻製のベーコン、腸詰を商う店)では「祭祖金猪」(祖先にお供えする金の豚)を大量に販売し、大いに金儲けをするゴールデンタイムであった。この他、焼乳猪は珠江デルタ一帯の昔の風習では、貞節か否かの符丁と見做された。新婚初夜、女性の方に出血が見られれば、初めての里帰りの日に、男性方は必ず赤い紙に包んだ焼乳猪をお礼に贈り、それを持って行く道々鐘や楽器を打ち鳴らし、以て近隣にこのことを公示した。

 もし出血が見られなければ、やはり里帰りのセレモニーはするが、ただ焼乳猪が焼鵞(ガチョウのロースト。一説には生の豚の耳一対)に変わった。劉万章著『広州的旧婚俗』によれば、「新婦が貞節であったか否かは、焼乳猪が贈られたかどうかを見れば明白で、もし焼乳猪が贈られなければ、訴訟沙汰となり、たいへん悲しいことであった。」

 広東、香港一帯では、今日でも依然女性が結婚前に貞節を失うことをからかって「失猪」と言うけれども、焼乳猪がどういう訳で貞操と関連付けられるのかは、考えないといけない問題である。イギリスの作家、チャールズ・ラムは『烤猪技藝考原』(豚のローストのテクニックの研究)の一文の中でこう言っている。「それはまだ月足らず(月経の周期に達していない)のちっぽけなもので、未だ曾て汚されていない豚たちの世界の悪習に過ぎない。つまり色欲の観念で、それは彼らの遠祖から代々伝わって来た悪習である……」

 やはり少しこじつけの感がある。そうでなければ、誰か代わりに劉心武先生に聞いてみてくれないだろうか。

食べるのはつまり皮の部分である


 北京ダックを食べる時、皮に付いたやわらかい肉さえあれば、あんなに大きいアヒルの身体は捨ててしまって顧みないので、いささかもったいなく感じさせる。けれども、焼乳猪は、食べるのは一枚の皮だけで、北京ダックよりずっと高慢である。

 この黄金色でもろくてさくさくした皮について、チャールズ・ラムはこう書いている。「わたしは終始こう信じている。この世に、オーブンの担当のコックが極めてすばらしい火加減の超絶なテクニックで作り出した、あの一噛みすれば砕け、少し口に触れれば融けて無くなり、芳しくてサクサクし、歯触りが心地よい、茶褐色で脆(もろ)い子豚の皮に比べられる美味は存在しない。この「脆皮」ということばを、別のことばで置き換えることはできない。それは、あのサクサクし(「酥」)、しっとりした壊れやすい薄い外皮を噛んでみようと思わざるを得ず、そうして思う存分、その中の全てのすばらしい内容を楽しもう。あの凝固した脂肪(「凝脂」)のような糊状のねばねばしたもの、脂肪という言葉ではあまりに不十分で、言葉では表現し難い暖かみのあるもの、それはすなわち油脂の花、そのつぼみは初期であれば摘み取ることができ、芽をふく時は食べることができ、その無邪気で邪(よこしま)な思いが無い段階、つまり……脂身と赤身、脂と肉のめったにないすばらしい結合で、この時両者はとっくに融け合ってひとつになり、緊密で分かちがたく、このため玉露や玉から作った美酒(「玉露瓊漿」)のような非凡な逸品に変化した。」

 わたしが長々と『烤猪技藝考原』という一文を引用したことをお許しいただきたい。そうせざるを得なかった原因は、第1に、これが今までわたしが読んだことのある焼乳猪に関する最も美しく、最も満足のいく文章であったから。第2に、このような文章が結局イギリス人の手によって書かれたのは、常日頃焼乳猪を食べている中国語作家に恥ずかしさを感じさせるに足るからである。もちろん、高健先生の訳文は、更に原著に忠実であってしかも原著を越えており、しかも「凝脂」や「玉露瓊漿」とは言わず、単に「酥」の一文字だけを使って、どうやって原文のambrosian(神に値する)、adhesive oleaginous(ねばねばした油質の)、crackling(かりかりする上皮)、brittle(脆い)の類の表現の境地に及ぶことができるだろうか。

 『烤猪技藝考原』は18世紀の戯れに書かれた文章であるが、詩のような言葉、少しも出し惜しみしない詞藻(しそう)で、歯の浮くような(ロミオとジュリエットの)ロミオに迫るかのような愛情の独白なのである。ただし、チャールズ・ラム本人が正統な広東式の乳猪を本当に食べたことがあるかどうかは、これまでのところ考証した者を知らない。しかし、ラムが文中で紹介している友人のM(マンニング)は、17世紀初めに中国に住んだことがあり、広州で医師をしていた。

 乳猪のあの脆い皮をローストするのは、決して容易くできることではなく、誠にラムが言うように、極めて優秀なオーブン担当のコックと絶妙な火加減が必要である。

 10キロ以下で、まだ乳を断っていない子豚を殺し、内臓を取り出し、調味料に漬け込み、蜜を塗り、串を挿して炭火の上に置き、上下にひっくり返しながら90分ほどローストすれば出来上がる。ローストする時は、絶えず上下にひっくり返して、均等に加熱し、同時に小さな刷毛で絶えず豚の身に油を塗らなければならない。全体をサクサクした皮に焼き上げる秘訣は、やはり先ず乳猪の胴体の内側を炙り、それから外皮をローストすること。こうしてはじめて、肉の油がゆっくりと表皮に浸透し、遂には「肉の脂身と赤身、脂と肉のめったに見られない絶妙な結合」という、「玉露や玉から作った美酒(「玉露瓊漿」)のような非凡な逸品」が完成するのである。

 もっと研究された作り方は、聞くところによれば、耳やしっぽが焦げ付くのを防ぎ、乳猪が完全にきれいな体形を保つため、コックたちは正式にローストする以前に、菜っ葉の葉などでこれらの部分を包み込み、また豚の腹の中を水で満たした瓶で塞ぎ、腹腔が焦げ付かないようにするそうだ。

 広州では、皮の表面の違いにより、乳猪の流派には二通りがある。すなわち「麻皮」派と「光皮」派である。「麻皮乳猪」は、また「化皮乳猪」とも呼ばれ、特徴は強火でローストし、また絶えず油を塗り、同時に絶えず錐で皮の表面を突くことで、油がはじけて出る気泡で乳猪の表皮を柔らかくし、最後にゴマ粒のように均一に広がった気泡を形成させ、黄金色を呈し、食べてみると比較的もろくてさくさくとした歯触りで、「口に入れると融けてしまう」と称賛されている。

 「光皮乳猪」に至っては、工程上は上記のような技術的な含量を欠いているが、外見は赤や紫の、まばゆい色彩が溢れ、見かけを論じれば、「麻皮派」は全く相手ではなかった。「麻皮乳猪」と「光皮乳猪」は食べ方でも違いがある。前者は薄い皮の下の柔らかい肉も一緒に切り出し、千層餅(小麦粉を捏ね、表面に油を塗って何層にも折りたたんで焼いた、内部がパイ状になったビン)に挟み、海鮮醤(味噌、砂糖、酢、唐辛子などを混ぜて作った調味料)、砂糖や細切りのネギ、赤トウガラシの細切りなどを点けて食べ、後者はただその薄くもろい皮に、甜醤(テンメンジャン)を点ける。

 白砂糖と甜醤(テンメンジャン)は、どこの広東料理のレストランでも、焼乳猪を食べる時のお決まりの調味料である。このふたつは極めてありきたりのもので、生のネギと甜醤が北京ダックに欠くべからざるものであるのとは異なるが、ある程度は乳猪の最終の味を決定する。

閃亮登場(スポットライトを浴びて登場する)

 乳猪は美味しいだけでなく、見栄えもする。

 乳猪の美味は幾多の文章に見ることができるが、それは既にチャールズ・ラムにとどめを刺し、焼乳猪の見栄えの良さに至っては、形(全身に南宋、哥窯(かよう)で焼かれた青磁のようにひび割れの紋様が入っている)、色(エビ茶色や黄金色を呈する)の他、更に正式な宴席で乳猪を出す時の体裁に見て取れる。

 『清稗類鈔』の記載によれば、「焼烤席は、俗に満漢大席と言い、宴席の中でもこれ以上ない上品である。ツバメの巣、フカヒレなど珍しい肴以外に、必ず焼猪(焼乳猪)を出し、それは必ず丸焼きでないといけない。酒が三巡すると、焼猪を出し、コックや召使は皆礼服を着て入場する。コックは料理を捧げると待機し、召使が手にした小刀で身を割き、器に盛り、膝を屈して、首座の客に献じる。」

 「満漢大席」はすなわち「満漢全席」で、中華料理の最高峰の料理である。許衡の『粤菜存真』が記載する広州、四川両版の 満漢全席メニューによると、そのどちらにも 焼乳猪が現れる。広州のメニューでは、焼乳猪は「二回目」の「熱葷」(肉、魚料理)として、フカヒレの姿煮、翡翠珊瑚、口蘑鶏腰といった料理のすぐ後に出され、この度の最後のメイン料理となる。比較的簡略な四川膳のメニューでは、焼乳猪は「叉焼奶猪」の名で、「四紅」(すなわち叉焼奶猪、叉焼宣腿、烤大田鶏、叉焼大魚)の首位に列せられる。

 もし例えば結婚式、同窓会、表彰式の類でその宴会を取り仕切ることになったら、乳猪を出しておけば、宴会の格式は他に勝りこそすれ決して劣らないものとなるだろう。楽器や太鼓が一斉に鳴り響き、数十頭の乳猪が数十台の色とりどりに飾り付けられた輿に乗せられ、古代の料理店の給仕に扮した服務員が1列縦隊で輿を担いで登場し、乳猪の両眼には赤色の電球が取り付けられ、会場の照明が暗くされると、子豚の両眼から絶えず点滅する赤い光が突出し、これは掛け値なしの「光り輝く登場」であり、主人の面子も賓客たちの気持ちも、この時に頂点に達する。

 もっとすごい演出の場合、会場を練り歩いた乳猪が厳かにテーブルの上に置かれても、依然会場の照明は落とされたままで、一筋のきらきら光るスポットライトが乳猪の上に当てられ、まるでその子豚がすぐにスピーチを始めるかのようだ。

乳猪全体(子豚の丸焼き)

 広東では、焼乳猪はレストランで食べることができるし、街の焼腊店(ローストした豚、鶏、ダックや燻製のベーコン、腸詰を商う店)で買うこともできるが、何れにせよ、乳猪を食べる時はその一部だけ買うのは良くなく、丸々一匹の丸焼きが良い。

 いわゆる乳猪の一部というのは、一匹の乳猪の身体から切り取られた十や二十の枚数の皮である。もちろん、子豚一頭全体のローストが素晴らしければ、その一部の焼け具合も決して遜色無いだろう。ただ、外観の印象は、一頭全体のあの満足感は感じられず、またそれ以外にも、並べて冷凍されるので、皮の歯ざわりやサクサクした脆さが多少差し引いて考えないといけなくなりがちである。一頭丸焼きの乳猪は、レストランのメニューを書いた看板では、「乳猪全体」と書かれ、メインディッシュの名称である。しかし、「乳猪全体」を食べようと思ったら、数人で行ってもだめで、おそらく「友達全員」とか「親密な友人全員」を集めなければならない。人数は十分に集めるのが難しいだけでなく、「全体」(一頭丸ごと)の乳猪は通常予約が必要である。

 不幸なことに、乳猪は会食や宴会でしばしば「雰囲気を作り出す」重要な役割を担っており、およそ「乳猪全体」が出される場合は、十中八九が皆「全体大会」の類で、その盛況さは空前で、にぎやかで混乱した現場では、実際に乳猪を子細に楽しむことが大いに妨げられる。今年のはじめ、香港で「万衆一心千禧耀東華」(大衆が心をひとつに長しえの幸福を祝い、東中国を照らす)という慈善公演に参加した芸人たちのグループは、主催団体の手配でレストランに行き、祝賀宴会を開催し、大衆と共に楽しんだが、最後は気まずい思いで別れた。その原因は、主に騒々し過ぎたからで、舞台の下で「参加者全員が飲み食い」するのはまあ良い。それ以外に大声で酒席のゲームをする者、更には大声でカラオケを歌う者までいた。しかし、宴会に多少関与した歌手の楊千嬅が事後に芸能ニュースの記者に語ったところでは、彼女はこうした「回りがたいへんにぎやか」なところで歌を歌うのは別段気に留めていない。というのも、これまで彼女は様々な経験をしたが、彼女がはっきり憶えているのは、こうした場所で歌を歌う時、お客の中にはテーブルの上の焼乳猪を食べることばかり考え、更に食べる時に音を立てる。楊千嬅が言うには、こういう情況は本当に受け入れ難く、自分が甜醤(テンメンジャン)になったように感じると。それで、彼女は誓いを立て、自分にこう言い聞かせた。「気を付けて歌を歌おう。決して乳猪の甜醤にはなるまい。」

 甜醤と言えば、わたしは実際、これはあるレストランの乳猪を試すひとつの重要なめやすだと思う。わたしは、大部分の乳猪を売るレストランは、焼き加減は皆悪くないのだが、ただ一般に誠意に欠けるということを発見した。豚と一緒に出される甜醤と白砂糖は、皆固まってしまっている。明らかに、これは厨房の中で長い間貯蔵されていたという悪い結果である。
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腊味

2024年08月24日 | 中国グルメ(美食)
là wèi
写真は、煲仔飯

 本短編の題、「腊味」というのは、燻製にした肉や魚のことです。「腊」とは肉類の処理方法で、肉を塩や味噌に漬け込み、冬の寒風に晒して乾燥させたもの。「腊」は「腊月」のことでもあり、 旧暦12月を指します。腊肉は中国版ベーコン。これを使った料理も「腊味」で、広東省の「煲仔飯」は、米の上に腊肉などを載せて炊き上げた、広東風釜めしで、腊肉が調味料として料理全体に風味をつけています。沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)より。

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 腊肉(燻製肉)はいつもわたしに降雪、綿入れの上着、ストーブや、冬の間の様々な行事を連想させる。もしひとつの食べ物で冬を形容するなら、「腊味」を先ず思い浮かべるだろう。

 「腊(臘)は乾し肉である」(『辞源』)。およそ塩漬けにしてから、 「腊尾」(旧暦の12月の終わり)から春のはじめに取り出して食べるものが、「腊肉」と見なせる。中国のベーコンの類、これも塩漬けを経て作った「乾し肉」である。欧州の「乾し肉」もたいへん美味しいが、食べようと思えばいつでも食べることができ、結局のところ「腊味」と呼ぶことはできない。更に西洋人たちの暦(こよみ)の中には曾て(フランス革命暦)、熱月(テルミドール。7月19日から8月17日)、霧月(ブリュメール。10月22日から11月20日)があったが、「腊月」(旧暦12月。師走)は無かった。

  腊肉は湖南、広東両省で産するものが最も良い。違いは、湖南のものは塩辛過ぎ、また塩漬けの過程で更に煙で燻すので、味が剛直で、且つ錯綜し複雑な煙で燻された感覚(稲のもみ、サトウキビの皮、みかんの皮、木屑を含む)がある。「腊味」を中心とする代表的なものに、「腊味合蒸」がある。一緒に蒸すのは、細長い腊肉を除いて、細長い 腊魚があり、料理酒、ラード、鶏のスープを調味料とし、蒸篭に入れて20分蒸すと、色つやは黄金色に輝き、塩味と共に香味があり味が濃厚で、実に天意が間に入ったかのようだ。


湖南煙燻腊肉

 広東式の 腊味の製造は煙を出さない加工で、それゆえ味は比較的淡白で、湖南人がそれを食べてみると「まだ半生で十分燻されていない」ように感じるかもしれない。正にこのことにより、広東式の腊味はこれだけをそのまま食べるのはよくないし、湖南の腊味のように他の材料と一緒に蒸すやり方の「全体会議」を行うのもよくない。広東式腊味が演じるのはしばしば味を整える役割であり、つまり、これが通常参与するのは、一場の「拡大会議」であり、しかも列席者の身分である。例えば秋、冬の季節にだけ市場に出る煲仔飯(広東式釜めし)は、広東式腊味の魅力を最も良く体現している。コンロの火が土鍋の底をゆっくりと、しかし着実に熱し、一方土鍋の中は、米の飯が主体で、腊肉 (燻製肉)が添えられている。表面を覆った腊肉 (燻製肉)、腊鴨(燻製にしたアヒルの肉)、腊腸(中国式の腸詰)の肉汁がやさしく、全面的に土鍋中の米に浸透し、鍋の蓋を開け、醤油をかけ回すと、炊けた米の香りと肉の香りが顔をなで、更に広東特有の暗くじめじめした寒風が手助けし、鍋を受け取る時は意気消沈していても、これを食べるや感動し涙をこぼす。それゆえ、広東人はあまり「腊肉」とは言わず、その代わりに「腊味」という言葉を使うのである。

 「腊肉」と言えば、必ず「希腊」(ギリシャ)を取り上げないといけない。なぜならこうした肉の保存方法は早くも2500年前の古代ギリシャの時代には存在したからであり、そして今言っているのはその中国版である。実際、冷蔵庫が発明される以前、乾し肉の製法は完全に食物を保存する目的から生まれた。塩蔵であれ、乾燥、燻製、炙りなど、その方法は多種多様だが、キーワードはただひとつ、水分を抜くことである。多様化したのは手段だけでなく、更に水分を抜く目標が含まれ、牛、羊、馬、鹿、獐子(しょうし。キバノロ。シカ科だが、雌雄とも角が無い)、クマは皆、その当時乾し肉にされる人気の獲物だった。どうせ保存するなら、何でも乾し肉にすることができた。人間は乾し肉にできないか。できますとも、とてもよくできる。遠い昔にはミイラ、最近のものは蝋人形館がある(「腊」(臘)と「蜡」(蝋)は何れもで同じ発音)。しかし、「腊人」の原則は、牛、羊、馬、鹿、キバノロに対する「区分なく乾し肉にする」のとは全く異なり、それはこれまでずっとひとつの規準に則り実行された。すなわち成功した人でなければミイラや蝋人形にされないのだ。

 歴史上最も有名な「腊肉」は孔子の話に出てくる。「束脩十条」shù xiū shí tiáoは、孔子先生が教育を行う時の定額の学費であった。「束脩」(そくしゅう)は、生肉に香料を加え、寒風で乾した「腊肉」の束のことである。文革末期の「批林批孔」運動の時、「束脩十条」はまたかたじけなくも孔老二(つまり孔子)の公開裁判のための証言に加えられ、72に10を掛け、少なくとも720本の 腊肉は、孔子を悪辣な「肉食者」階層とし、教師たちを徹底的に整理するのに十分なものであった。不思議なことに、わたしがこれまで食べたことのある様々な孔府菜(山東省で歴代帝王が孔子の祭礼にささげた料理から発展した宴会料理)の中では、均しく 腊肉を見かけたことがない。「晩春に、春服は既に準備でき、成人の冠を被った者5、6人、子供6、7人が沂水で沐浴(もくよく)し、風に吹かれて雨乞いの舞を踊り、歌を歌って帰った。」この清明節のピクニックの一団には、「成人5、6人、子供6、7人」以外に、「腊肉を7、8本」を携帯し、野外での食事に用いなかったのだろうか。「三月(みつき)肉の味を知らず」、いったいそれは「肉味」だったのか、それとも「腊味」だったのか。孔子は結局肉を食べる方が好きだったのか、それとも音楽を聞く方が好きだったのか。これらのことはあまり言い出しにくいが、けれども腊肉の質感から言えば、授業料の受領に使う「ハードカレンシー」としての適用を失ってはいない。

 やはり先ず古人に替わって心配するのはやめよう。泣きたくとも涙が出ないのは、世界的にも美味なる腊味が、ひょっとすると遂にある日、「健康」という名の下に徹底的に消滅させられるのではないか心配なのだ。更に気持ちが落ち着かないのは、冬になってもあまり寒くならず、一年で四季のうち春夏秋はあっても冬を欠き、終生冬の寒風に晒した「腊味」を知らないことになる。そうした情況では、本当に腊肉が、「蝋燭が燃え尽き、涙のように融けて流れた蝋のように干乾びて固ま」ってしまうのではないか心配だからだ。
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条順

2024年08月17日 | 中国グルメ(美食)
条順 tiáo shùn
(体つきがしなやか)

 今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。 「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。

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 『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足しで、空腹感を鎮めるために供するという、一種の「且点心(正に気持ちに火をつける)」という着火剤となる美食である。
 
 しかし、「点」(火をつける)の字は別に「面条」(麺類)と「心」(気持ち)の間の関係を表すのに相応しいものではない。麺類の形状を論じるにせよ、麺類の美味しさを語るにせよ、それとわたしの気持ちの間には様々な思いがまとわりつき、あたかも「繞梁三日」(調子が高まり激しく揺れ動く)音楽のようで、たいへん心にまとわりつく。成都人は美女を「粉子」と呼び、美女の尻を追うことを「繞粉子」rào fěn ziと言う。この「繞」の字は、同様にわたしの麺類に対する気持ちを表現するのに相応しい。

 手を加えられた日常の食物の中で、見た目のしなやかさと美しさで言えば、麺類が一番である。麺の前身は、ふっくら太った小麦粉の団子であり、切り刻まれることで、小麦から細長い麺になり、驚くべき艶めかしい変身を実現していて、このため麺は小麦粉の最も美しく最も科学的な線状の延伸、展開である。

 70年代の北京の隠語で、美女に対する評価は、「盤正条順」という高度に濃縮された四つの文字であった。「盤」とは顔立ち(顔の輪郭)を指し、「条」とは体つきのことである。「盤正条順」は見た感じ、「名正言順」(名分が正当であれば道理も通る。名分も言葉も正当である)を焼き直したものだが、「正」は別に正確の正ではなく、端正の正でもなく、今日言うところの「正点」(定刻、定時)の「正」に近い。「順」に至っては、体つきのしなやかさ、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同様で、食べたいのがこの「順」であるなら、「順」は麺の見た目だけでなく、より重要なのは食感で、正にこの「順」だけが、わたしたちに、麺を食べる時に遠慮なく発することができ、食事の時に本来は発してはいけない、ズズッ、ズズッ と続く心地よい音を表すのであり、或いは魔物のようにしなやかな美女が、「順」であることで人に聞こえる「ズルッ」とすすり込む音なのである。

 もちろん、湯麺(タンメン)であるか撈麺(混ぜ蕎麦)であるか、箸を使うかフォークを使って食べるか、こうした要素も「順」に多大な影響をもたらし、場合によっては見た目が全く異なる。例えば、スープの無いスパゲティは元々湯麺 のような「美女が湯船に浸かる」色気が欠けており、更にフォークで巻いて食べても、少しも「順」の快感は感じられず、せいぜい口に頬張っても歯にまとわりつく柔らかい麻花(小麦粉をこねて細かく切り、ねじり合わせて油で揚げた揚げ菓子)のようなものだ。それに比べ、曾てイタリアの貧しい人が手で引っ張って伸ばした麺を高いところに「吊り下げ」口に入れた食べ方は、却ってより「条」の感覚を得ることができた。更に、広東人が作る麺類はたいへん不味い。それはまた広東語ではいつも「麺条」のことを「麺」とだけ言って「条」を付けないのと関係しているかもしれない。

面面観(麺についての様々な考察)

 『随園食単』「点心単」に列記された麺類は、全部で「鰻麺」、「温麺」、「鱔麺」、「素麺」、「裙帯麺」の五種であり、墨を惜しむこと金の如しか、麺を惜しむこと墨の如しか知らないが、少なすぎる気がする。

 袁枚は82歳まで生き、行ったことがある場所は少ないとは言えず、食べたことのある麺は思うに上記の五つに止まらないにちがいない。ところがこれら五つの麺だけ選んで食単に入れたのは、郷土の習俗や個人の好みの問題以外に、これら選ばれた麺に各々その独特な点があったからに違いない。しかしわたしはそれ以外に、五つの麺にはひとつの共通点があることを発見した。それは、その調理過程で、スープ、餡かけの効果をとても強調していることである。「鰻麺……鶏のスープはこれを澄ませ、鶏のスープ、ハムのスープ、干しキノコのスープを沸騰させる」、「素麺は、前日に干しキノコを水でふくらませ煮出したスープを澄ましておく。翌日そのスープに麺を加えて沸騰させる」。最後まで書いて、自分でも幾分不注意が過ぎると思ったのか、一筆を加えた。「およそ麺を調理するには、必ずスープを多くするのが良い。碗の中に麺が見えなくするのが良いのである。食べ終わっても麺をまた加えると、人をうっとりさせることができる。このやり方は揚州で流行っているが、正に甚だ道理がある。」

 もうひとりの清代の美食家、李漁は、袁枚より百年あまり早く生まれている。原籍は浙江省。江蘇に生まれ、これらふたりの終生の「麺類飲食生活区域」はほぼ完全に重複し、人生に対する態度も非常に似通っているが、彼らの麺に対する態度は大きな隔たりがあり、甚だしくは轅(ながえ)を南に向けながら、車を北に走らせるかのように、行動と目的が全く一致していない。李漁は『閑情偶寄』の中でこう批判している。「北人は小麦を食べるのに多くは餅(ビン)にするが、わたしは細長く切り分けて一本一本はっきりさせるのが好きだ。南人のいわゆる「切麺」がこれである。南人が麺を食べるのに、その油塩醤醋などの調味料は、皆麺のスープの中に入れ、スープは味があるが麺は味が無い。これは人の重視するのが麺にあらずスープにあり、未だ曾て麺を食せずというのはこのことである。」

 李漁は雄弁であるだけでなく、言だけでなく行動もでき、彼はふたつの上記の理論に基づく麺を打ち立てた。名を「五香」、号を「八珍」と言い、重点は麺を切る前に「醤(味噌)や、酢、山椒の粉、すりゴマ、茹でたタケノコ或いはキノコを煮、エビを煮た汁」、及び「鶏、魚、エビの三つの肉……と生のタケノコ、シイタケ、ゴマ、花椒の四つの物を細かく挽いた粉末を」尽く数えて麺の中に入れる。その目的は「諸物を調和させることで尽く麺に帰し、麺は五味を備え独りスープが澄み、こうしてようやく麺を食べるのはスープを飲むのとは異なることとなる。」

梨花帯雨(梨の花がしっとり雨に濡れる)

 湯麺(タンメン)についての忠実な擁護者として、わたしは袁枚は李漁よりずっと優れていると信じざるを得ない。

 麺について言えば、麺自身の味も固よりたいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除いて、すなわち小麦自身の品種と品質以外に、麺の重要なセールスポイントはすなわち噛み応えであり、上記の要素を除き、噛み応えは小麦粉を捏ね、切り、茹でる技術により決まる。麺の味は、主にスープから汲み取られる。それと同時に、スープにも麺固有の芳香が溶け込む。こうして、スープも麺も、柔らかくもあり強靭でもあり、スープしたたる麺は、梨の花が雨がしっとり雨に濡れるように艶めかしい。

 それゆえ、「人の重んじるのは麺に在らずしてスープに在り」というのはもとより片方に偏してしまっており、逆にもし「人の重んじるのはスープに在らずして麺に在り」とし、「麺が五味を具え、スープは独り澄む」ようにするのも、専ら一方の味を好むものとなる。わたしたちが一碗の美味しい麺に対する要求は、一碗一碗どの麺も皆到達すべきだ。麺を食べないといけないし、スープも飲まねばならない。こうしてはじめてスープも麺も共にすばらしくなり、功徳円満となる。科学的にも市場の角度からも、スープと麺が「一体化」する有利な形勢が勝ち取れる。

 もちろん、上海冷麺のような干麺、拌麺(混ぜ蕎麦)、或いは新疆の「大盤鶏」の中の「幅広」の麺も美味しい。わたしが嫌いなのは、ただ人為的に各種の外の物を麺の中に混ぜることだ。広東人は 湯麺 であれ 干麺であれ、うまく作れない。ただ李漁の教義を継承し、その伝統を発展させ、技量を皆小麦粉を捏ねる点にかけ、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺や餅(ビン)をでっち上げた。

 湯麺(タンメン)に対する態度の上で、李漁はひとつの極端な例で、張愛玲はまた別の極端な例である。すなわち、彼女はただそのスープを好み、麺は食べなかった。「わたしはあいにく湯麺が最も嫌いで、「スープがたっぷりで麺が少ない」、思うに一番いいのはいっそ無いことで、ただ少し麺の味が残り、スープが澄んで濃厚なこと……杭州のガイドは皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺(上海蟹入りの麺)を食べる手配をしてくれた。当時、この老舗レストランはまだ上海のレストランのように「大衆向け」に、料理の値段を低く抑え、仕事の手を抜き材料をごまかし、品質を低下させてはいなかった。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、わたしは麺の上にかかった具を食べてしまうと、スープがほぼ無くなったので、箸を置いた。自分でも、今の中国の情勢下でこのように気ままに食べ物を無駄にするのは、いささか罰当たりなことだと思った。」

 わたしの自宅に客を招待し、 湯麺を召しあがっていただく時は、必ず特大のどんぶりを用う。どんぶりのサイズはできれば自分の顔より大きいものを使い、人の五官をスープの湯気の熱さで燻せば、ひとしきり、またひとしきりと感動が人々の顔をなでながらやって来る。

南人北相(南方の人が北方の人の容貌を兼備する)

 袁枚が記録した麺料理は、皆南派(南方)のもの、いや基本的には江蘇、浙江の二省を出ることさえなかった。麺料理は畢竟北方に由来する食品であり、ちょうど李漁が『閑情偶寄』の中でこう言っている。「南人は米を食し、北人は麺を食すのが常である。」

 袁枚は浙江の人だが、もし彼が北方の満州族出身で、関(居庸関)を越え、北京の役人になっていたら、おそらく彼は、麺という北方人の主食を「点心」の中に入れることはあり得ないし、そうする勇気も無かっただろう。北方人の日常の飲食生活の中で、麺は 点心と見做すことができないだけでなく、貧しい人々にとっては、麺は更にある種、精緻な小麦を使った食品と称するに足るものであった。これと同時に、北方の麺は日常の食べ物として普及しているだけでなく、その様式種類もすこぶる多く、山西省一省だけでも、麺の食べ方は百種類以上あり、当地の家庭の主婦は、更に「360日、毎食麺料理にしても、料理が重複しない」という腕前を持っている。もし袁枚が33歳で「官を辞して故郷に帰」っていなければ、『随園食単』の麺類メニューもきっと5種だけに止まることはなかっただろう。

 それゆえ、江蘇、浙江一帯で中国で最も美味な麺料理が盛んに作られた所以は、第1、ここは広義の南方であり、江蘇、浙江は曾て戦乱の禍と大運河による漕運の便により、中国北方の精緻な文化の最も深遠且つ最も長期間に亘る影響を受けたため。第2、北方の麺が初めて南に渡ったばかりの時、江南の精緻な飲食もまた初めて「北方の麺」の薫陶を受けたため。それゆえ呉越の麺料理は確かに「南人北相」、南方の人が北方の人の容貌を持つことで、双方の長所を兼備することとなった。

 翻って、北方に引き続き残った麺料理、その中でもわりと代表的な北京の炸醤麺(ジャージャンメン)を例にすると、たとえ文人たちが「雪のように白く柔らかくしなやか、平らで整った手延べ麺、四月の柳の葉に似たキュウリの細切り、卵、さいの目に切った豚肉、きくらげ、キノコ、黄ニラを油で揚げて作った味噌」というような言葉の修辞でそれを賛美していたとしても、わたし個人の経験では、北京旧市街、南城に住む「老北京」、昔から北京に住む人のお宅で御馳走になろうと、東城の五つ星ホテルのレストランで食べようと、炸醤麺はどこのものも美味しくない。そして最も不味いのは、他でもなく炸醤、油で炒めて作った肉味噌の塊りである。

 ネット上で広く流布した長編読み物、「包子麺条大戦」の一節で、炸醤麺が主人公になっている。ここで再度紹介しよう。なに、北京人に怨まれたって構わない。「さて、小籠包は殴られて後極めて不愉快になり、肉包(肉まん)、豆沙包(餡まん)、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょになって、かたき討ちをしようとした。ちょうど路上で炸醤麺に出逢ったので、皆は炸醤麺を取り囲むとそれをぺしゃんこにして虫の息にした。帰路の途中、皆は小籠包に言った。「君は本当にそんなに麺を怨んでいるのか。こんなに殴ったら死ななくても障害が残るだろう。」小籠包は言った。「元々、わたしもただ適当に何発か殴ればいいと思っていたのだが、奴がなんと全身に大便を塗りたくっていようとは誰が知ろう。こんなだとわたしは奴を殴る勇気が無くなる。本当によく考えたものだ。こんな意気地なしのチビがわたしの気持ちに火を点けた。殴り出したら節制が効かなくなって……」」

 実は炸醤麺が最も不味いわけではない。広東人の麺料理、とりわけあのワンタン麺というものを食べてはじめて、本当にこれは「惨たんたる人生を目の当たりにした」と叫びたくなるのだ。

拉麺(ラーメン)


 蘭州ラーメンは既に一碗の麺料理からひとつの神話に変化しており、流行の言い方を真似ると、ラーメンとは蘭州という「都市の名刺」である。

 ほとんど蘭州ラーメンと同期に神話になったものに、更に日本のラーメンがある。蘭州と日本は地理の上では遠く離れていて、双方の飲食文化はまた高度に異質であるけれども、これら二種類のラーメンとその土地で形成されたラーメン文化の間には、ある微妙な類似点が存在する。

 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺(タンメン)で、「重湯」、スープが重要な麺類であり、どちらもスープが勝負のカギを握る。前者は牛や羊の肉をスープの主要な材料とし、後者は醤油、味噌、豚骨とコンソメスープを4つの基本的なスープの基本部分としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽、香菜、唐辛子を除いて、蘭州ラーメンの原料の配合と名目は、日本のラーメンの原料やそれらの使用目的が極めて多いことに遠く及ばない。それには次のようなたとえをすることができる。蘭州ラーメンをWindowsとするなら、日本のラーメンはLinuxのようなものだ。後者は基本プログラムが完全に開放されたプラットフォームであり、およそ思いつき得る材料であれば、何でも意気揚々とスープの中に注ぎ込むことができる。こうした意味において、日本のラーメンは実際、集団での創作の成果であるかのようだ。

 日本のドラマやソニーを除いて、日本人のものの大部分が聞くところによると中国から伝わったものだそうで、ラーメンも例外ではない。ある人の説では、中国のラーメンは早くも三百年あまり以前に日本に上陸したそうである。当時、一心に「反清復明」を主張していた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明の浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り長崎に到り資金を準備したが、やむを得ない事情で実現できず、やむを得ず1659年長崎に落ち着くこととなった。水戸藩第二代藩主で、徳川家康の孫、水戸黄門が儒学をたいへん好んだため、一年の時間を費やして家臣を長崎に派遣し、三顧の礼を尽くし、遂に 朱舜水を招聘して江戸水戸藩邸に居留してもらうこととなった。朱老師は水戸黄門に儒学を講義しただけでなく、彼に中国の麺料理をふるまった。『朱文恭遺事』の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、レンコンの粉で作った平麵で、スープは豚肉のハムを煮つめて作った。

 もうひとつの説では、現代の日本のラーメンは、日本在留の浙江出身の華僑、潘欽星が大正年間(1920年代初め)に創始したと言われている。

 いずれにせよ、わたしは蘭州ラーメン、日本のラーメン、呉越の湯麺(タンメン)、及び李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星といった既に亡くなった江蘇、浙江の人々の間には、麺類でつながった関係が、歴史と美味の霞みの中にたたずんでいるように感じる。

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