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“瓜子”(クアズ)というのは、西瓜、南瓜、ひまわりなどの種を炒って塩などで味をつけたもので、中国ではお茶受けとしてたいへんポピュラーな食べ物である。おもしろいのはその食べ方で、殻を前歯で割って中身を食べるのだが、中国の人たちは、手を使わず、種をそのまま口に放り込むと、前歯と舌をうまく使って、殻を割り中身を取り出し、殻を吐きだす。この瓜子の殻を前歯で噛み割る動作には、これ専用に“嗑”、発音はke4 という字が当てられている。
瓜子(クアズ)を齧る音を聞く(聴瓜子)
各種のものを食べる音の中で、水を飲む音を除き、最も聞いていて気持がよいのが、瓜子(クアズ)を前歯で噛み割る(“嗑”)音である。
瓜子を齧る(“嗑瓜子”ke4gua1zi3)音は、主に以下の三つの部分が絶えず組み合わさっている。瓜子の殻は前歯の先でパリッ(“劈劈剥剥”pi1pi1bo1bo1)とはじける。吐き出す時に、唇と舌の間で発せられるぱらぱら(“淅淅瀝瀝”xi1xi1li4li4)という音。そして周囲にこぼれ落ちた瓜子の殻から伝わるあの空洞のこだまである。66年前、豊子先生(1898-1975年。漫画家。散文家)は、女性の瓜子を噛み割る音を澄んで耳に快い「タッ、タッ」(“的、的”)という二つの音で形容した。66年前の瓜子がとりわけサクッと炒られていたのか、それとも66年前の女性の歯がとりわけ鋭かったのかは知らないが、「タッ、タッ」という音から、今日では瓜子を齧る音を連想するのは難しく、むしろ、いくぶん、留守番電話装置の信号のようである。
その実、瓜子を齧るリズムは、音声よりもっと人をうっとりさせる(“引人入勝”)。自分が、或いは他人が瓜子をかじるのを連続二分以上聞いていると、あのとぎれとぎれのリスムは、まるで竹と肉がいっしょに生じた中国式のジャズのようであることに気がつく。
もちろん、こうした音声とリズムは、多くは静かな部屋で、ひとりで瓜子を食べている時に気がつくのであって、普通の状況では、往々にしてがやがやとしたよもやま話(“閑言砕語”)の声の中に埋没してしまう。雨が芭蕉の葉にかかるのと、空腹の馬が鈴を鳴らすのが耳に快いのは、その前提は雨があまりひどくなく、芭蕉や馬の数もあまり多くないことである。大雨が一群の芭蕉の林に降ったり、馬が腹を空かせて暴れているのは、聞いてみても、大きな厨房の中で料理を作っているのと区別できない。
瓜子を齧るのは、中国人が持って生まれたもの(天賦)である。瓜子を齧る音は、たいへん中国らしい音声である。春節は、一年の中で「中国の音」の最も強い月で、同時に瓜子の販売の最盛期(“旺季”)である。商品分類上、瓜子は通常、炒った豆類(“炒貨”)に分類されるが、実際は、音声の意味では、瓜子、マージャン、花火、爆竹は、新年の年越しのにぎやかな雰囲気のために存在する正月用品(年貨)であり、どれも皆、“炒貨”でなく“吵貨”(発音はどちらもchao3huo4で同じ)、つまり「騒々しい商品」と呼ぶことができる。
瓜子は食べても何の足しにならない。その主な属性はそれを唇や歯といっしょに動かして発生する音の効果の上に成り立っており、この音の美学上の意義は固より小さくて取るに足りない(微不足道)ものだが、実際の作用から言うと、少なくともRave Party(乱痴気パーティー)での薬物の乱用の問題の解決のために、一種の建設的な考えを提供する可能性がある。Rave Partyの現場に瓜子の自動販売機を設置し、瓜子を齧る(“嗑瓜子”)ことでドラッグを齧る(“嗑薬”)ことに代えることを提唱すれば、地面一杯の瓜子の皮の上で、もっと優れたDJでも出せない幻想的な音響効果で狂ったように踊ることができるかもしれない。
瓜子臉(うりざね顔)
Super Bowlの勝者が、なすべきことは積極的に行い、誰にも譲らない(“当仁不譲”)「世界王者」であるなら、世界の一切の瓜子に関する歴史は、全て漢字で書かれたものである。
馬王堆漢墓の女性の死体の腹の中から未消化の瓜子が発見されたけれども、瓜子の歴史は最高でも宋、遼までしか遡れない。なぜなら、ヒマワリやスイカが瓜子を作る「親会社」(母公司)であるが、何れも五代時期にようやく中国に入り始めたからである。ともかく、私は世界で最初に瓜子の殻を剥き、口に入れたのは、女性に違いないと信じている。女性だけがこのような生まれつきの注意深く細かな観察力と辛抱強さを持っている。もちろん、小さくて器用な口と指先も、欠かすことのできない工具である。
たとえ、将来、考古学的な証拠により瓜子は男性が発明したものだと明らかになったとしても、瓜子は女性の食品であるという社会通念として認められた(“約定俗成”)現実は変えることはでいない――女性だけが、瓜子をこのように優美で上品に食べることができ、このように美しい。もちろん、女性が瓜子を齧るのは自分のためで、男性の気を惹くこととは無関係だが、一粒の取るに足りない瓜子について言えば、このように優雅に食べられれば、たとえ一個の瓜になるという輪廻を果たすことができなくとも、死んでも悔いのない幸せと見做すことができる。もっと粗野な女性でも、ひとたび瓜子を手にすれば、動作は自然に美しく変化する。二十数年前、私は広州の東郊で学校に通っていたが、都心と行き来するバスは、毎日、化学工場と製鉄工場の女工で満員であった。座っている者も立っている者も、女工たちは手に一袋のスイカの種の瓜子を持ち、《カルメン》の中でタバコ工場の女工たちが皆、紙巻きタバコを口にくわえているのと同様であった。私はしばしば彼女たちの瓜子を齧る美しい姿に心惹かれ、同時に「広州カルメン」たちがスイカの種の殻といっしょに口から飛び出すびっくりするような下品な言葉の中から、徐々に早期教育を終えることができた。
成都の茶館は茶館での瓜子の消費量が中国で第一位である。他所と異なるのは、成都の茶館は、男性が時間つぶしに来るだけでなく、女性も時間つぶしにやって来ることである。私は、成都の女性は「うりざね顔」(瓜子臉)の比率が高いことを発見した。おそらく中国第一だろう。広東人は、これは「形により形を補う」(“以形補形”)理論の動かぬ証拠(“鉄証”)だと信じている。実際は、生まれつきどのような顔型であろうと、口を尖らし瓜子を噛み割るその時は、一人一人皆、うりざね顔(瓜子臉)である。
中国女性のいくつかの代表的な「中国語で言う“顔型”」(漢語臉型)には、瓜(瓜子)の他、がちょうのたまご(鵞卵)、焼餅(シャオピン)、苦瓜があり、何れも食べ物である。言うまでもなく、「うりざね顔」(瓜子臉)は公認の美女の顔型である。鄭秀文(Sammi Cheng、香港の歌手)が人気が出た由縁は、自分の“焼餅臉”(丸くてのっぺりした顔)を、心を鬼にして“瓜子臉”に直したからだと言われている。“瓜子”が指すのがひまわりの種(“葵花子”)なのか、それとも多少丸くぽっちゃりした南瓜の種なのか、ということに至っては、“美白”の意味を参考にし、やはり後者が正しいだろう。
中国文化の精華(“国粋”)として、瓜子を欧米に輸出するのは、現状ではたいへん難しいだろう。最も可能性があるのは、私はやはり日本だと思う。これは私たちが何れも米の飯を食べ、「同文同“種”」(文字を同じくし、人種を同じくする「同文同種」と、同じ「種」(瓜子)を食べる、をかけた)であるからではなく、日本の漫画の中で、男女の主人公は、うりざね顔(瓜子臉)が多数を占めるからである。
齧る(“嗑”)芸術
私が瓜子は女性の食べ物であると信じる由縁は、女性の「齧る姿」(嗑姿)に対する偏愛というより、むしろ男性が瓜子を齧ることへの嫌悪と言った方がよい。
男性が瓜子を齧るのは我慢できない、とりわけ一群のちょうど瓜子を齧っている男性、雄の第二性徴が突出して発達していればいる程、「齧る姿」(“嗑姿”)は尚更卑しくて見るに堪えず、一粒の女性の指先で弄ばれているダイヤモンドのような瓜子が、ごつい手で大きな口の男性の手に渡ると、一匹のノミが抓まれているかのようである。同様に直接口に触れるものでは、紙巻きタバコに男女のサイズの違いがあるが、不幸なことに瓜子は生まれつきLady sizeしかない。大きさの比率の美感の問題の他、男性が瓜子を齧る音は濁っていて、聞くに堪えない。したがって、私は以下の二つのケースを除いて、男性は瓜子と「これ以上の関わり合い」(“瓜葛”→“瓜”をかけている)を持ってはならないと思う。
第一、瓜子を売ることで、商売上成功し、さらに個人の身分や地位も向上した場合。 第二、下腹部に痛みがあり、頻尿や排尿困難等の症状のある男性は、薬の服用の他、適量の瓜子を食べるとよい。南瓜の種には豊富な脂肪酸を含み、前立腺のホルモン分泌を助ける効果があると言われている。毎日、50グラム前後、生でも加熱したものでもよく、三か月以上続けて食べるべきである。
馮鞏と牛群(相声=日本の漫才に相当、の芸人)は、これまでずっと私が好きな芸人であったが、新聞で、春節晩会(日本の紅白歌合戦に相当する、年越しのバラエティー番組)を準備するため、馮、牛の二人で毎回70斤(1斤は500グラムなので、35キロ)の瓜子を準備し、猛烈に齧ると言っているのを見て、私は実際に笑えなかった。二人のりっぱな旦那さん(“大老爺們”)が、齧っているのがどんな瓜子であっても、煙草を吸ってくれている方がましである。
しかしそう言ってみて私自身も信じられないが、男性が十人いると、そのうち九人は齧って(“嗑”)いるその様はたいへん見苦しい(“悪形悪状”)。しかし、瓜子を噛み割る速度と技巧について言えば、私の見聞きしたところでは、九人の女性がかかっても一人の男性にかなわない。インターネット上で“小三”というペンネームで書かれた、出色の“嗑文”、瓜子を齧ることを論じた文章がある。「手にシラミ(“虱子”)より少し大きいかどうかの西瓜の種の瓜子を持ち、機関銃(“続子弾”)のように右側の口の端から連続で素早く放り込むと、一対の前歯(“門牙”)しか見えないが、左側の口の端から直ちに殻が噴き出され、噴水のようだ。しかも、二枚の殻はきれいに割られ、全てが揃っており(“囫圇個儿”hu2lunge4r)、唾の一滴も付いていない(“連口水都不沾一点”)。しかも遅れることなく口の中で咀嚼している。あの一山の瓜子はみるみる減っていき、瓜子の殻はみるみる増加し、あっという間に袋一杯が食べ尽くされてしまった。」
悪くない、文中の“嗑主”、齧っている主は正に男性であろう。男でなくて、誰がこんなに効率よくできるだろうか。
ひまわり(葵花)宝典
“黒瓜子”は西瓜の種、“紅瓜子”は白瓜(“白蘭瓜”)の種、“白瓜子”はかぼちゃの種であり、これら白いの、黒いの、赤いのが全て揃って比べると、ひとり、ひまわりの種だけが半分黒、半分白である。なぜならそれは「模様付き」(“花”生。“花”は模様の意味)であるからで、“瓜子”(クアズ)でなく“花子”(ホアズ)である。
瓜子の価格は瓜に随って高くなり、大いに「おやじ、英雄、いい男」の雰囲気がある。しかし、かぼちゃの種や西瓜の種は、ひまわりの種ほどおいしくない。ひまわりの種(“葵花子”)はよくひまわりの種子と間違われるが、実際は、これはただの一粒の種子ではなく、一個のちゃんとした(“道道地地的”)果実である。ひまわりの果実は典型的な痩果(そうか。乾果の一種。果実は小さく、果皮が堅く、成熟しても裂開せず、内部に果肉に密着せず1個の種子を入れるもの)であり、体型は小さく、果皮は薄く、多少紙質を呈し、中に一粒の種子を含む。したがって、瓜子と比べ、ひまわりの種(葵花子)は生まれつき、木の実(果仁)に似た成熟した味わい(“韻味”)がある。西瓜の種を炒ったのを再度加熱するのは、ちょっと奇妙な(“陰陽”)感じがする。ひまわりの種を太陽の日に当てたのを冷ますと、口に入れた時にぽかぽか暖かい(“暖意融融”)。実際、ひまわりの種は更に炒る必要があるだろうか。これらがひまわりの花に随い毎日を過ごした(“逐日”)歳月の中で、日に当って十分に成熟している。
西瓜の種や“紅瓜子”(白瓜の種)のように「ぬぐっても落ちない」(“揮之不去”。“悔之無及”、後悔先に立たず、という成語があり、それとかけて、しゃれている)渋みを取り除くため、炒る時にしばしば大量の調味料を加える。これらの香料には、ウイキョウ(茴香)、サンショウ(花椒)、桂皮、八角などが含まれ、皆発癌作用のあるサフロール(黄樟素)を含んでいる。食塩、香料(香精)、サッカリン(糖精)等の調味料については、過多に摂取すると、健康に悪影響を及ぼす。最近の研究の報告によると、瓜子に含まれる油類は、大多数が不飽和脂肪酸(亜油酸)であり、過量に摂取すると、大量のコリン(Choline胆碱)を消費し、体内での燐脂質の合成と脂肪の回転に障害を引き起こす恐れがある。大量の脂肪が肝臓に蓄積すると、肝細胞の機能に深刻な影響を及ぼし、肝細胞が破壊され、ひどい時には肝硬変を引き起こす。
実際には、食用のものは皆有害であり、瓜子もまた例外ではなく、適量がよろしい。ただ瓜子の問題についてだけ言うと、食べないでいて、一旦食べだすと、自分でしばしば抑えが利かない状態に陥ってしまう。ひまわりの種は比較的噛み易く、しかも味があっさりしているので、齧りだすと取り憑かれたように(“中了魔症”)止まらなくなり、いつも思わず知らず、談笑し興が乗って来ると(“談笑風生”)、眼の前の瓜子の殻は山のように堆積し、またもや恐ろしい造山運動を形成する。
ゴッホ(“梵高”)以後、ひまわりの種(“葵花子”)の母のひまわりは、西洋の精神病研究上、ずっと「きちがいがたわごとを言う」(“譫狂”)ことの符号であった。中国では、ひまわりは文革期、“忠義”のしるし(代碼)であった――ひまわりの花は永遠に太陽の方を向いており、たいへん直観的で、中国式の認識論に符号した。しかし、今考えてみると、このしるしは狂気じみていて、Stupid、ばかげている。“瓜子”であれ“花子”であれ、またそれが太陽を向いていようがいまいが、最終的には皆食べられてしまう。これが中国式の実践論である。
うんこの先が伸びる(長個屎尖頭)
中国以外では、世界各国の人々は誰も瓜子を食べない。めんどくさいから嫌だとか、美味しくないから嫌だと言うより、むしろ彼らは終始、一粒の瓜子の中に含蓄される(“蘊含”)ものの広さや深さ(“博大精深”)に入り込む(“滲透”)ことができないからと言った方がよい。
瓜子の不思議さ(“吊詭”)は、それが形態上、食べ物のようであり食べ物でなく、食べた後の満腹のようなそうでないような感覚である。
瓜子も一種の口腔、食道から胃腸までの伝統的な路線を通って動くものであるが、瓜子を食べる感覚は、大半が“嗑”の一文字から来ている――言い方を変えると、「殻無しの瓜子」を売っても市場が無いのである。次に、胡桃、ピーナッツ、ピスタッチオの類は食べる時に「殻を取り除く」というプロセスが必要であるが、これらのものは、食べ過ぎると満腹で腹が膨れたような感覚が生じることを免れない。瓜子は違う。正に豊子先生が言ったように、「俗語で、瓜子がお腹を一杯にしてくれないことを形容し、こう呼ばわせる。「三日三晩食べて、うんこの先が伸びた」(“吃三日三晩、長個屎尖頭”)と。」
豊子先生がこのように瓜子の文化に関心を払う由縁は、当時の進歩的知識分子の心の中で、瓜子を齧ることは中国の貧困、弱さ、文明的でないことを形作る原因であり象徴の一つであるからで、アヘン、痰を吐くことと同罪であった。魯迅はこれを嫌っただけでなく、一切の形式の零食、つまりスナックやおやつに反対した。もちろん、西洋式及び日本の現代医学の影響を受けた魯迅や豊子たちは、瓜子が「食べても腹が膨れない」し、健康に無益であるから、否定的な態度をとったのではなく、ひどく憎んだ(“痛心疾首”)ことは、瓜子を齧ることの時間の浪費であった。豊子先生は1934年4月20日にこう書いている。「時間をつぶすのに便利なもの……世間の一切の食物の中で、いろいろ考えてみると、瓜子しかない。だから、私は瓜子を食べることを発明した人はすごい(“了不起”)天才だと思う。そしてできる限り瓜子を楽しむ中国人は、暇つぶしをするという“道理”においては、誠にすごく積極的な実行家である!中国人が「カリッ、ペッ」(‘格、胚’)、「タッ、タッ」(‘的、的’)という音の中で消費した時間は、毎年統計してみると、その数字は驚くべきものであるの違いない。将来、この“道理”が発展すると、おそらく中国全体も「カリッ、ペッ」、「タッ、タッ」という音の中で消滅してしまうだろう。私は元々、瓜子を見ると怖かったが、ここまで書いてきて、もっと恐ろしくなった。」
悪くない、「齧る」(“嗑”)と「腹が膨れない」(“不飽”)はまだ途中(“途径”)で、時間をつぶすことこそ終点である。中国が最終的に瓜子のために消滅したのではないと時間が証明してくれてはじめて、私たちは瓜子が消滅させたのは、「タッ、タッ」(‘的、的’)と過ぎ去った時間だけであることをより一層理解することができるだろう。効率、或いは金銭に換算でき、瓜子を齧る音の中で消費されるものは、時間が固より持っている品質である。
【原文】沈宏非《飲食男女》南京・江蘇文藝出版社2004年8月から翻訳