中国語学習者のブログ

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沈宏非のグルメ・エッセイ: フカヒレ(魚翅)の社会学

2010年07月14日 | 中国グルメ(美食)
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                  フカヒレ(魚翅)の社会学

 フカヒレ(魚翅)はこれまでずっと高級広東料理レストランの看板メニュー(“招牌菜”)であった。店に一歩入ると、ガラスケースの中に、白い(“白生生的”)巨大な背ビレが、店を鎮める宝として置かれ、更にはスポットライトで照らされている。見た感じ、奇妙である。水族館のようであるが、展示されているのは、海洋生物の肢体の一部である。

  満漢全席の“海八珍”の一つとして、フカヒレは中華料理の最高傑作(“巓峰之作”)であり、また常に富貴の象徴であり、フランスのフォアグラ、ロシアのキャビアと同等の地位に処せられてきた。中国の主要料理も、フカヒレが無いと歓迎されない。広東料理(粤菜)は言うまでもなく(“自不待言”)、譚家菜(北京飯店二階)は“黄燜魚翅”によって世に知られ、孔府食単にも“菊花魚翅”があり、浙江料理には“火瞳翅”があり、広東料理と対等に振る舞っている(“分庭抗礼”)。正にいわゆる“無翅不成席”(フカヒレが無いと宴席が成り立たない)である。《本草綱目拾遺》によれば、「凡そ宴会の佳品として、必ず此物を設けて“珍享”(珍重)する。」

 フカヒレが“珍享”されるのは、以下四つの理由による。一、珍しい。二、美味しい。三、利潤が相当ある(“利潤可観”)。四、料理人の技量が十分に顕示される。

 しかし、海鮮の売価がこのうえなく「猛々しく上がり」(“生猛”:本来は海鮮の活きがよい意味だが、ここでは価格の値上がり具合を揶揄している)で、“漁利”(努力せず横から利益をかすめとる。漁父の利(“漁人之利”))ということばがことのほか生き生きとしている今日では、殺されることを恐れないなら、フカヒレは唯一、レストランの中で首を長くして「殺される」(調理される)のを待っている食材だと思う。なぜなら、フカヒレを下処理(“炮制”)するのは、たいへん面倒なことだからである。《随園食単》は言う。「魚翅は爛(くず)れ難し。須(すべか)らく両日煮て、剛を摧(くだ)いて柔と為す。」“煮両日”と言うのはいささか誇張があるが、“摧剛為柔”は確かに時間がかかり、水に浸し、とろ火で煮込み、異味を除き、骨(“枯骨”)を取り除くなど、一連の複雑な手順が必要である。水に浸すだけでも、一晩置かなければならず、分業が進んだ厨房でも、シェフがちゃんとしたフカヒレ料理(“翅饌”)を煮るには、少なくとも五六時間以上必要であろう。老鶏、金華ハム、陳皮、豚の赤身などいっしょに煮込む物は別に難しくなく、家庭でも手作りできないことはないが、贖(あがな)えない時間と作る意欲のことを考えたら、お金を払ってレストランから買ってきたとしても、間違っている(“不公道”)とは言えない。

  だから、フカヒレは、それなら食べなければよいので、もし食べるなら、信用のおける(“信誉卓著”)レストランに行って食べることだ。道理はたいへん簡単である。なぜなら、世の中で、あなただけが面倒なことが苦手なのではないから。

  後進国のフカヒレの産地では、例えばマダカスカルのマーケットでは、原住民の売る新鮮なフカヒレが、キロ当たりわずか数ドルである。香港の商人が専用にチャーターした飛行機で買い付けに来る。飛行機のチャーター料を除き、フカヒレの価格の付加価値は、アワビと同様、後半の制作過程で乗せられる。

  今日のフカヒレ料理(“翅饌”)は、百花斉放であるが、基本的に袁枚の“魚翅二法”に基づく。すなわち、「一に好き火腿(中華ハム)、好き鶏湯(チキンスープ)を用い、鮮筍(新鮮な竹の子)、氷糖(氷砂糖)を一匁(“銭”)ばかり加え、とろ火で煮て柔らかくする。これが一法である。一にただ鶏のスープだけと細かく切った大根の千切りを用い、折ってバラバラにした鱗翅(ヒレ)をその中に混ぜ、碗の上に浮かんだ時に、食べる者が、それが大根かフカヒレか見分けがつかないようにする。これがまた一法である。ハムを用いる時は、スープが少ないのが宜しい。大根の細切りを用いる時は、スープが多いのが宜しい。総じてとろりと溶けて柔らかい(“融洽柔膩”)のが佳く、海参(ナマコ)の臭いが鼻に付くのや、ヒレが固くて盤を跳ねるようなのは、お笑い草である。呉道士の家で魚翅を作る時は、“下鱗”(ヒレの下の方)は用いず、上半分の根元の方だけ用いると、また格別な風味がある。大根の千切りは水を二回揉み出して、臭いはようやく消える。嘗て郭耕礼の家で“魚翅炒菜”(フカヒレの炒め物)を食べたが、たいへん佳かった(“妙絶”)!残念ながら、その作り方は伝え聞いていない。」

 人はサメを十分痛めつけて(“折磨”)後、このように料理人を痛めつけるのである。それゆえ、魚翅と鶏翅(鶏の手羽)は一文字の違いであるのに、価格は天と地ほどの差がある(“天壌之別”)。したがって、多くの人が恨めしげにこう言う。「あの春雨のようなもの。」もちろん、これ以外に料理を頼む前に小声でこうつぶやく人もいる。「先ずフカヒレで口をゆすごうか(漱漱口)。」

 好きでも嫌いでも、フカヒレはいつも食客の強烈な反応を喚起する。これはフカヒレが経済の指標の一つであるからである。香港はフカヒレの全世界の貿易の中心で、世界中でフカヒレの消費の最も多い場所である。しかしフカヒレが口に入る量の増減は、全てハンセン指数(“恒生指数”。香港の株式市場の代表的な指数)のコントロール下にある。ある経済誌の統計によれば、香港の歴史上のフカヒレの輸入量の増減は、ハンセン指数の曲線の起伏とおおよそ一致しているそうである。

  一食一食しっかりフカヒレを食べようが、甚だしくはフカヒレで口をゆすごうが、これは香港人がどうしても手に入れたいと願う(“夢寐以求”)「成功した」生活様式である。ある人が宝くじ(“六合彩”)に当たったり、株式や不動産が一夜にして高騰したら、彼自身が思うこと、或いは他人が、彼が最初にやるにちがいないと思うこと、それはフカヒレを腹一杯食べに行くことである――もちろん、“魚翅撈飯”(フカヒレの姿煮と蒸籠蒸しご飯)であればいうことがない。

  フカヒレはたいへん上品に食べることができるが、たいへん俗悪に食べることもできる。“魚翅撈飯”は俗悪の代表作である。

 いわゆる“魚翅撈飯”は、先に煮ておいたフカヒレを、ご飯といっしょに掬い取って食べる(“撈食”)。凝ったものは、レタス、香菜、ネギの細切り、大根の細切り、及び豚肉の細切りなどの付け合わせと共に供せられ、もっと凝ったものになると、濃い味付けのアワビの煮汁、乃至はアワビの薄切りが付け合わされる。正直言って、“魚翅撈飯”は味覚上、そんなに悪いものではない。なぜなら、フカヒレはやはり昔からの方法で処理しなければならず、手を抜くことはできないからである。恨むべきは、この行為自身で、米飯といっしょに食べられるフカヒレは、(その価値が)如何なるフカヒレ・スープをも超えることはできない。

 “魚翅撈飯”は、香港人の1980年代初期の傑作である。あの時代、ほとんど全ての人が株式市場や不動産市場でひと儲けした(“大撈了一票”)。十分儲けたら、自然とフカヒレを食べる(“撈魚翅”)ことを考えた。しかし、たとえフカヒレであっても、あの黄金時代には既に通俗的な食べ物になってしまっており、それだけでは、もはや何の証明にもならず、そこで、好事家の思い付いたのが、フカヒレでご飯を食べる食べ方であった。

 “魚翅撈飯”が飲食人類学(Anthropology of food)に提供した素材は、それが口腔に提供した娯楽性よりもずっと豊富である。“魚翅撈飯”の社会機能は、次第に漠然としてきた社会等級を再び明晰化するのを助けるものであるが、使われているのはある意味、逆行した、粗野な手段である。世間を見たことのない田舎者(“没見過世面的郷巴佬”)は、通常、次のように金持ちの日常生活を想像する:左に金、右に銀。朝鮮人参が口に入らぬ日は無いと。ある日、田舎者(“郷巴佬”)もこのような生活を送るようになると、金持ちはそこでいくつか失ったものを感じ、恥ずかしさや憤りをも感じるようになる。このような状況から脱するため、遂には次のような憎まれ口をたたく(“損招”)――「黄色い緞子で尻を拭く――高価なものをつまらぬことに使う」(“鵞黄緞子擦屁股”)。あなたは毎食毎食フカヒレを食べていないのか。よろしい、たいへんよろしい。でも慌てないで。あなたがたから見て、ご飯(“撈飯”)や麺(“撈麺”)といっしょに食べるのは、牡蠣油、漬物、豚足などの下賤な物で、良くても牛の腰肉(“牛腩”)くらいだろう。でも今度はわざわざフカヒレでご飯を食べようとしている。米飯で満足できないなら、麺でもよろしい。このことは何を表しているか?まだ気がつきませんか。このことは明らかにあなた方にこう言っている。あなた方は自分が富貴な、成功したフカヒレと見做されていると思っている。でも、今私が見ると、漬物、豚足の類に過ぎないと。

 火瞳翅、鳳呑翅、菜胆翅であろうが、蟹黄翅(フカヒレ・スープにカニみそを加えたもの)、鶏煲翅であろうが、はたまた最近流行の木瓜翅(パパイヤの果実を器にし、それをくり抜いて、中にフカヒレ・スープを入れたもの)であろうと、フカヒレの調理方法は次々と現れて尽きない(“層出不窮”)。しかし、食べ方は一種類しかない。すなわち、フカヒレそのものには味が無く、ガツガツ食べる(“大嚼”)ものではなく、正に袁枚が言うように、「海参(なまこ)、燕窩(つばめの巣)は平凡な卑しい人(“庸陋”)のようなもので、全く個性が無く(“全無性情”)、人の籬(まがき)の下に集まる。」全ての正しい(“正路”)フカヒレ料理(“翅饌”)は、その美味の最終は鶏と中華ハム(“火腿”)を煮て作る“上湯”(シャンタン)の中から誕生する。

 しかし、フカヒレの“富貴”のため、フカヒレが食卓に出されるや、食客の注意力は期せずして皆(“不約而同”)スープの中のヒレの多寡に集中し、しかもこれが騙されていないか(“受騙上当”)判断する標準となっている。フカヒレがスープの中に入っている数は固より定価の根拠の一つであるが、フカヒレの料理の中での根本作用は、他から味を借り(“借味”)、味を調和させる(“和味”)ところに重きがあり、それ自身の「食べ応え」(“可嚼性”)ではない。

 道理は誰でも知っているが、実践上は「より速くより安く」(“多快好省”)の衝動を抑制するのは難しい。だから、タイの中華街(“唐人街”)の多くの魚翅店が、専ら香港の旅行者のために一種のファーストフード式のフカヒレ料理を作り、「ヒレがたくさん入っている」ことを売り物にし(“売点”)、大きなお椀に、一杯に入っているのは全部フカヒレで、値段はたった40数香港ドル、はるばる来た(“遠道而来”)香港の食客は下顎を大いに喜ばせる(“大快朶頤”)と同時に、ある面、仇を取ったような痛快感を味わうことができるのである。

 実際は、食客を満足させる太く大きなヒレは、基本的に火力不足の結果であり、火力が十分なフカヒレ料理は、ヒレが小さく細いだけでなく、柔らかくよく煮えた食感がある。食客の「重さが十分」(“斤両十足”)に対する過分な期待は、しばしばレストランやコックの低劣な、不合格の技能を覆い隠し、速やかに十分な重さと見栄え(“排場”)の料理を手配(“舗排”)させた。例えば、“大紅浙醋”(浙江省産の赤色の酢)(店によっては、赤ワインから作ったワインヴィネガーがこれに取って代わり始めている)は何のために用いるのか。それは、火力不足で、フカヒレがまだ鍋で煮られて充分に細かく滑らかになっていないので、酢で生臭さを消し、消化を助けるためである。あの一皿のもやしは、又どうやって食べるのか。これは根本的に何の風味も加えることはできず、熱々のスープを冷ますことができるだけである。

 私はまた、袁子才の嘲笑い(“哂笑”)を耳にした。「嘗て某太守の宴客に見(まみ)えた。大きな碗は甕(“缸”)のようで、白く煮られた燕窩(つばめの巣)が四両(200g)、ちっとも味がしないが、人々は争ってこれを褒める。余は笑って言った。「吾輩は燕窩を食べに来たので、燕窩を売りに来たのではないよ。」もし見た目を褒めるだけなら、お椀の中に真珠を百粒ばかり放り込めば、価値は万金である。(でもそうすると)これが食べられなくなってしまうのをどうしようか?」

 魯迅は言った。「魚翅を見て、別に路上に投げ捨てて「平民化」を顕示するのでなく、栄養(“養料”)があるのなら、友人たちと大根や白菜のように食べてしまえばよい。」

 実際、単純に栄養学について言えば、フカヒレ、燕の巣、アワビの人体に吸収される栄養分は、若干の高タンパク質である食品に過ぎず、効能はニワトリの卵とさして変わらない。《本草綱目拾遺》に言う、「魚翅は五臓を補い、腰力を長じ、気を益し痰を清め胃を開き、血を補い、腎を補い、気を補い、肺を補い、食欲を増進させる」というのは、基本的にでたらめ(“扯淡”)である。

 ある報道によれば、フカヒレを食べ過ぎると、発育不良になるという。しかし、地球上で絶えず減少しているのはサメの方で、フカヒレを食べる人類ではない。世界自然基金会の報告によれば、サメは海洋で最も凶悪な掠食動物であるが、人類がサメを乱獲した結果、サメは種の絶滅に瀕している。世界自然基金会の推定では、毎年三千万から七千万頭のサメが捕獲されている。アジアのインドネシア、シンガポール、中国(香港、台湾地区を含む)等の国が、それぞれが最大のサメ捕獲国、世界のフカヒレ貿易の中心、世界最大のフカヒレ生産国等、分担して異なった役割を担っている。

 環境保護のことはさておき、フカヒレが人間にもたらしたのはつまるところ愉悦なのか、それとも焦燥なのかは、またたいへん微妙な問題である。香港映画《満漢全席》の中で、ひとりの美食評論家がこう言った。「フカヒレは食べると、原始的で血なまぐさい(“血腥”)味がする。」“血腥”とは文化的な意味で、社会の階級や身分の認識と直接の関係があり、それは人間が自分で発明した、圧迫を行い、自分を圧迫する無数の道具の一つとして抽象化されている。特に男性主体の社会では、“魚翅”ということばは“富貴”、“成功”、“失敗”、“発育不良”といったことばと溶け合って一体となり、禁忌の連鎖の輪のひとつひとつをしっかりと構成している。

 数年前、香港の海水浴場の海面でサメが人に喰い付くという惨劇が発生した。海水浴客は現場でTV局の記者に質問された。「サメが怖くないですか?」この海水浴客は腹立たしげ(“悻悻然”)に答えた。「怖い、もちろん怖いですよ。何時だって怖い。海の中では、奴に食べられるのが怖い。レストランでは、お金が無くて、奴を食べられない(“吃不起”)のが怖い。」

【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社2000年9月より翻訳