東漢荘園明器・陶庭院
西漢時代の燕国(続き)
北京地区の貧富の差は日増しにひどくなった。大商人や富豪地主の多くの一般の人々に対する搾取や圧迫はたいへん残酷なものだった。『漢書・酷吏列伝・厳延年伝』によれば、涿郡の「大姓(名門)の西高氏、東高氏は、郡吏以下皆これを恐れ避け、敢えてこれと触れようとせず、皆曰く「寧ろ二千石を負うても、豪なる大家を負わず。」賓客は放って盗賊となる。発すればすぐに高氏に入り、吏は敢えて追わず。次第に道路は弓を引き刀を抜き、その後敢えて行く。その乱れることかくの如し。」西漢後期、北京地区の土地は併呑され搾取され、圧迫は一層ひどくなった。
早くも武帝の時期、北京地区の階級矛盾と階級闘争は既にたいへん先鋭化していた。『漢書・酷吏列伝・咸宣伝』によれば、「吏民はますます犯罪を軽視し、盗賊が増えた。南陽に梅免、百政あり、楚に段中、杜少あり、斉に徐勃あり、燕、趙の間に堅盧、範主の一族がいた。大群は数千人に達し、勝手に号令し、城邑を攻め、庫や兵を取り、死罪を赦し、郡守、都尉を縛り辱め、二千石を殺した。檄(げき)で県に告げ、向かって食を具う。小群盗は百人余りを以てし、郷や里を掠奪する者は、数を称すべからず。(数えきれない)」西漢の終わりには、全国各地の農民が次々蜂起した。西暦24年(更始二年)、劉秀が緑林軍の破虜将軍となって大司馬の事を行い、秩序を保って北に向かい、薊に着いた時、王郎が邯鄲で帝位に就き、檄を飛ばして十万戸で劉秀を招こうとしたが、劉秀は将軍王覇に命じ、薊の市中で兵を募り、王郎攻撃の準備をした。「市の人皆大いに笑い、これを邪と諭した。覇は羞じて退く。」(『後漢書・王覇伝』)この時、故広陽王劉嘉の子劉接は薊で兵を挙げ、王郎に呼応した。薊の秩序は混乱し、皆恐怖にかられ、王郎の使者が既に到着したとのうわさが流れ、城内の大小の官吏は皆外に出て出迎えた。劉秀は兵力が弱かったので、皆を率いて南に逃げた。後に上谷太守耿況、漁陽太守彭寵の助けを得て、邯鄲を攻撃して破り、王郎を殺した。翌年、劉秀はまた呉漢に十二将軍を率いて潞(今の北京市通県)の東と平谷(今の北京市平谷県)一帯に派遣し、大いに尤来、大搶、五幡などの蜂起軍を破った。この時、将軍馬武らは劉秀に薊で皇帝を称するよう建議したが、劉秀は同意しなかった。後に鄗(こう:今の河北省柏郷)に至り、自立して皇帝となり、東漢王朝を建立した。
東漢の幽州
東漢のはじめ、今の北京地区は長期間戦乱の中にあった。建武二年(西暦26年)二月、漁陽太守彭寵(ほうちょう)が背き、自ら士卒二万人余りを率いて、幽州牧朱浮を薊で攻め、更に兵を分けて広陽、上谷、右北平の各郡を攻略した。八月、劉秀は遊撃将軍鄧隆を派遣し、朱浮を助け彭寵を討った。鄧隆軍は潞(今の北京市通県)の南に居り、朱浮軍は雍奴(今の天津市武清県蘭城村)に居た。彭寵は軽装の部隊で大いに鄧隆軍を破った。翌年三月、涿郡太守張豊が背き、無上大将軍と自称し、彭寵と連合した。彭寵は薊城を攻撃して破り、燕王を自称した。更に上谷、右北平を攻撃して奪い取り、北は匈奴に通じ、南は割拠勢力の張歩らと結び、劉秀に反抗した。建武四年(西暦28年)五月、劉秀は将軍祭遵、劉喜らを派遣し涿郡を攻撃して破り、張豊を捕らえた。祭遵はまた屯良郷(今の房山県竇店)に進軍し、劉喜は屯陽郷(今の河北省涿県長安城)に進軍した。匈奴は兵を派遣し、彭寵を増援し、上谷太守耿況を撃破した。彭寵は薊城を退き、漁陽を占拠し防備した。翌年二月、彭寵は召使いの子密に殺され、子密は劉秀に投降し、漁陽は遂に平定された。
今の北京地区の行政区画は基本的に西漢の制度を踏襲したが、また変化もあった。更始の時期、ここは幽州に編入され、州牧は薊に駐在し、州牧の苗曽は後に劉秀に殺された。劉秀はまた朱浮を州牧にし、薊に駐在させた。後に州牧は刺史に改めた。東漢の終わりに、また州牧に戻した。州の下に郡(国)が置かれ、幽州の下には十一の郡(国)が属し、そのうちの広陽、涿、上谷、漁陽、右北平の五郡(国)の全部或いは一部分の地域が、今の北京市の領域となっている。建武二年(西暦26年)四月、劉秀は広陽国を置き、叔父の劉良を広陽王とし、薊を都とした。劉良がまだ国に着任しないうちに、建武五年(西暦29年)三月、移して趙王とした。翌年六月、劉秀は国家財政が困難で、各地の人口がまばらであるため、命令を出して郡県を削減させ、全国で四百余りの県を整理統合した。これは彼が当時実際に管理した県数の三分の一を占めた。同時に官吏の職を十分の一に減らした。建武十三年、広陽国を省き、上谷郡に併合した。和帝の永元八年(西暦96年)、再び広陽郡を置き、下に五県、つまり薊(陽郷を編入)、広陽、昌平、軍都(二県が元は上谷に属していた)、安次(元々渤海に属した)を管轄させた。元々管轄していた方城は涿郡に属するよう改められた。順帝の永和五年(西暦140年)の官府統計によれば、広陽郡には戸が全部で4万4550あり、人口は28万6百であった。
東漢広陽郡、漁陽郡、右北平郡の位置関係
劉秀が全国を統一して以降、「民力を養う」政策が執られ、農業生産の回復、発展に注意が払われた。劉秀は官吏の選任にたいへん慎重だった。当時、漁陽郡は彭寵の反乱による破壊のため、社会秩序が混乱し、経済の破壊が酷かった。劉秀は彭寵を滅ぼした翌年、郭伋(かくきゅう)を漁陽太守に任命した。「伋が来て、示すに信賞を以てし、首領を糾弾殺戮し、盗賊は消えていなくなった。時に匈奴がしばしば郡境を犯し、辺境はこれに苦しんだ。伋は軍隊を訓練し、攻守の計略を定め、匈奴は恐れ憚り遠くへ逃げ、敢えてまた塞に入らず、民は安んじて本業ができるようになった。在職五年にして、戸口は倍に増えた。」(『後漢書・郭伋伝』)後にまた張堪を漁陽太守に任命し、引き続き郭伋の統治方法を踏襲した。「狡猾な者は捕らえ叩き、賞罰は必ず信あり、吏民は皆用いるを楽しむ。匈奴は嘗て万騎を以て漁陽に入るも、数千騎を率いて奔撃するに堪え、大いにこれを破る。郡界は以て静かなり。」(『後漢書・張堪伝』)張堪は農業生産の発展をたいへん重視した。彼は狐奴県(今の順義)で、 沽水(こすい:今の白河)と鮑丘水(今の潮河)がその境を流れるのを利用し、稲田八千頃(1頃は百畝。6.7ヘクタール)を開き、人々に耕作させ、当地の農業生産と人々の生活を改善した。このため、張堪が太守に任命された八年間、漁陽は比較的安定していた。
この地の手工業もより一層発展し、文献の記載によれば、漁陽郡の漁陽(今の懐柔県)と泉州(今の天津市武清県)両県には何れも鉄官が設けられ、泉州は更に塩を産した。鉄器の使用が普及し、農業生産、その他の手工業の発展に大きく作用した。製陶業も発展し、出土した数のたいへん多い、技術の極めて高い陶器から見て、この時代の製陶業は既に新たな段階まで発展していたことが分かる。代表的な陶器には、釉薬を使った陶器、彩絵陶器などがある。そのうち、緑釉の陶制の荘園明器(墓の副葬品の陶器で、住まいの建物のミニチュア)はたいへん普遍的に使用された。土で形作られた荘園の種類は極めて多く、荘園内には亭(あずまや)、台(高殿、舞台)、楼閣、榭(四方を展望できる高殿)、井亭(井戸を覆って建てられたあずまや)、食糧倉庫、豚小屋、家畜小屋などの建物があり、かまど、明かり、壺などの用具、更に召使いの俑(土偶)、犬、ブタ、羊、鶏、アヒルなどがあった。これらの陶製の明器は、当地の地主の荘園の経済発展を反映していた。
東漢緑釉陶水亭
商業も相当に発展し、薊城は依然としてこの地区の商業の中心で、また内地と東北の各民族の間の貿易の要(かなめ)であった。東漢の中後期、烏桓(うがん)や鮮卑族が南に移動し、一部の人々は長城の内側に居住し、各民族の間の(物資の)交換関係はより一層発展した。朝鮮で出土した中国の技術を用いて織られた菱形紋の絹の残片や各種の漆器は、薊城から転送されてきたものである。
東漢時代は、国力は西漢の武帝の時代と比べてずっと弱く、辺境地区はずっと不安定であった。建武十五年(西暦39年)匈奴の侵犯、攪乱を避けるため、雁門、代郡、上谷の三郡のへりに住む住民六万人余りを移住させ、常山関、居庸関より東に住まわせた。しかし、匈奴と烏桓が毎年侵犯し、上谷、漁陽沿いはしばしば破壊に遭った。建武二十二年(西暦46年)、烏桓が匈奴を撃破し、匈奴は西に移り、烏桓は西南方向に勢力を拡大した。遼西烏桓の大人郝旦ら922人は漢への帰属を要求し、更に洛陽に行き劉秀に謁見し、奴隷、牛馬、弓、虎や豹、テンの皮を贈り物として差し出した。漢は烏桓の首領を侯に封じ、王、君、長者81人を漁陽より東の国境の内側に居住させた。漢は上谷の寧県(今の河北省万全)に護烏桓校尉を置き、「営府(武将の屋敷)を開き、鮮卑を併せ、贈り物をし、人質を取り、毎年互市(部族間の交易)を行った。」(『後漢書・烏桓鮮卑列伝』)東漢中期、烏桓族と漢族の間は友好的な付き合いがあり、辺境は何事も無かった。この頃、鮮卑族も東北方向から南下し、何度も漁陽、上谷に侵犯し、時には居庸関に侵攻した。例えば安帝の建光元年(西暦121年)秋、鮮卑が居庸関、雲中に侵攻し、烏桓校尉徐常を馬城で包囲した。度遼将軍耿夔(こうき)と幽州刺史寵参は広陽、漁陽、涿郡の甲卒 (鎧を着た兵士)を発し、二つのルートに分けてこれを救助に行き、鮮卑は退き始めた。十一月、東漢王朝は幽州の辺境の防御を強化し、漁陽営兵一千人の設置を始めた。霊帝の初め、幽州北部は毎年鮮卑の侵犯に遭った。それ以降、鮮卑は分裂していくつかの部族に分かれ、侵犯もやや減少した。
東漢中後期、今の北京地区の土地の併合が日増しに進み、貧富の分化がひどくなり、地主階級の農民の搾取と圧迫が残酷を極め、階級間の矛盾が益々先鋭化した。霊帝の初め、太平道の首領張角らが宗教を利用し蜂起を宣伝した。当時の彼らのスローガンは、「蒼天既に死し、黄天当に立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉。」中平元年(西暦184年)二月、張角を首領とする黄巾の大蜂起が勃発し、同時に蜂起したのは青、徐、幽、冀、荊、揚、兖(えん)、豫(よ)の八州の数十万の群衆であった。彼らは黄巾(黄色い布)を頭に巻いて目印にし、「官府(役所)を焼き払い、聚邑を掠奪し、州郡は拠点を失い、長吏(地位の高い役人)は多く逃亡し、十日の間に、天下(国中が)これに呼応した。」(『後漢書・皇甫嵩伝』)薊城一帯で蜂起した人々は、幽州刺史(しし)郭勛(かくくん)、広陽太守劉衛を捕殺し、蜂起はますます激しさを増した。後に張角が病死し、黄巾軍の各部隊は、東漢の官軍と地主勢力の武装軍に分割して包囲され、個別に撃破された。11月までに、遂に失敗に帰した。今の北京地区は軍閥の劉虞(りゅうぐ)、公孫瓚(こうそんさん)、袁紹の長期の争奪の中に陥り、烏桓(うがん)勢力も上谷、漁陽、右北平などの地に侵入した。
秦漢時代の北京地区の文化
秦漢時代の北京地区の文化は相当に発展していた。これは当時の手工業の技術レベル、文化教育の発展等に現われていた。青銅器を例にすると、一般の用具、器はたいへん精緻に作られ、形状が美しく、すっきりしていた。大葆台漢墓から出土した金メッキを施した銅製の門飾り、龍枕、星雲紋銅鏡、四螭鏡(螭:みずちは角の無い龍)、昭明鏡など、皆技術レベルの高い作品である。当時この地域で盛んに使用された博山式銅燻炉(銅製の香炉で、主に山東省博山(淄博市)で作られた)もたいへん特徴に富み、器全体が透かし彫りになっていて、煙がゆらゆら立ち上がり、高い技術レベルを備えていた。
陶器の種類もたいへん多く、技術レベルもたいへん高かった。多くの陶製の壺、罐(かん。小型の壺)は形がきちんとしていて威厳があるだけでなく、器の表面には赤や白の花の紋が絵付けされ、遠くから見ると、漆器と同じように見えた。また陶器全体に黒の漆を塗ったものは、つやつやした黒色がきらめき、漆器を真似た陶製品である。東漢時代には、多くの陶器に緑釉が施され、陶器制作技術の大きな進歩が見られる。順義県臨河村で出土した大型の緑釉陶楼、豊台区大葆台出土の黒漆衣博山蓋陶壺、陶耳杯(羽觴:うしょう)は、こうした陶器の代表作である。
金玉器は貴族や官僚たちのために制作されたものだ。その中で、玉の彫刻の技術がたいへん高いレベルに達していた。大葆台出土の透かし彫りの玉璧、玉螭佩、鳳形玉觿( ぎょくけい )などは、形が優美で、彫刻が精巧で、何れもずば抜けた作品である。出土した玉舞人は、片袖を高く挙げ、片袖を下に振り下ろし、ひらひらと舞い、生き生きとして、真に迫っている。
鳳形玉觿 (ぎょくけい:縄をほどくための錐状の工具。長さ12センチ)
大葆台西漢墓出土
玉舞人(高さ5センチ)大葆台西漢墓出土
両漢の統治階級は専制主義中央集権統治を強化するため、儒家の経典をたいへん重視した。西漢初年は、秦朝の「焚書坑儒」の後で、社会には読むべき書籍が存在せず、ただ老儒が口頭で暗唱する経典の伝授に頼っていた。文帝の時、薊城の人韓嬰が漢王朝の博士となり、『詩』を伝授し、弟子たちが当時通用した隷書で記録し、「韓詩」と呼んだ。「韓詩」と斉の人、轅固生が伝えた「斉詩」、魯の人、申公(名は培、或いは申培公と言う)の伝えた「魯詩」が、『詩』の今文(漢代に通用した隷書)の経典の三派である。伝によれば、韓嬰は詩の『内伝』四巻、『外伝』六巻、別に『韓故』三十六巻、『韓説』四十一巻を著作し、広く流布した。燕、趙一帯で『詩』を研究する者は、多くは『韓説』を根本とした。東漢(後漢)後期、涿郡の人、盧植が経学家として、名儒の馬融から学び、鄭玄とは同門の友人であった。学成り涿に帰って教授し、近くからも遠くからも有名であった。漢の霊帝の時、徴用され博士となり、後に廬江太守に任じられ、また議郎に招聘され、転じて侍中となり、尚書に移った。黄巾の大蜂起の時、北中郎として黄巾軍の鎮圧に参加した。董卓の独裁時、盧植は董卓に反対したため罷免された。彼は洛陽から逃げ、軍都の山中に隠居し、学校を興して教授し、方々から学びに来る者がたいへん多かった。『尚書章句』、『礼記解詁』を著し、当時文化上で有名な人物であった。
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