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北京史(四) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(1)

2023年04月20日 | 中国史

北京考古遺跡博物館(大葆台西漢墓遺跡

北京市豊台区黄土崗郷

 

第一節 秦漢時代の北京地区

 

秦代の広陽地区

 

 秦は紀元前222年(秦王政の二十五年)燕を滅ぼし、翌年軍を指揮して南下し、斉を滅ぼし、中国を統一した。秦は依然、咸陽を国都とし、専制主義の中央集権の封建国家を建立した。地方行政は、郡県両級の制度を採用した。旧燕国地区は、北側の行政区画は基本的に元の燕の制度を踏襲した。すなわち、長城線に沿い、西から東へ、従来通り上谷沮陽(そよう)を管轄。今の河北省懐来県大古城)、漁陽漁陽を管轄。今の北京市懐柔県梨園庄)、右北平無終を管轄。今の天津市薊県)、遼西陽楽を管轄。今の遼寧義県)、遼東襄平を管轄。今の遼寧遼陽)の五郡を置いた。元の燕国の都城、とそれ以南の地区から燕の下都、武陽(今の河北易県)に至る一帯には、新たに広陽郡を置き、薊(けい。今の北京城西南)を管轄した。秦代の薊はもはや諸侯国の都城ではなく、一郡の治所となったが、依然として旧燕国地区の政治、軍事、経済、文化の中心だった。

 

 秦が燕を滅ぼして以後、燕地は秦朝から言えば、遠い辺境の地域であった。旧燕国の軍隊は消滅したが、多くの燕の旧貴族は尚存在し、随時秦王朝のこの地の統治を打ち倒し、旧国を回復する備えをしていた。秦、燕の激戦の際、燕は強秦に反抗するため、長城沿線の進駐軍に内通させ、北部の辺境の防御を空っぽにし、匈奴が機に乗じて侵入し、北部の山地に入り、たびたび領地内に侵入した。紀元前221年(秦始皇二十六年)秦が天下統一を達成したばかりの時、秦の朝廷では辺境地区を如何に統治するかで論争が起きていた。丞相の王綰(おうわん)らは始皇に、これらの地域には王を立てて建国し、これらの地域を守らなければならないと建議した。彼らは言った。「諸侯初め破れるも、燕、斉、荊(楚)の地は遠く、王を置かざれば、之を填(鎮)める無し。請う諸子を立てよ。」この建議は李斯の反対に遭った。李斯は全国を「皆郡県と為し、諸子、功臣は公の賦税を以て重く之を賞賜」すべきと主張した。彼は、こうすることで「天下に異意無ければ、之を安寧する術也。諸侯を置くは便ならず。」(『史記・秦始皇本紀』)始皇は李斯の意見を受入れ、天下を三十六郡に分け、そのうち旧燕国は六郡に分けた。今の北京地区は、上谷、漁陽、右北平、広陽の四郡に属した

 

 始皇は辺遠地区の統治に全く安心しておらず、六国の滅亡後、直ちに命令を下し、関東六国の貴族、富豪を関中、巴蜀等の地に移住させ、六国が民間に分散させて収蔵していた兵器を接収し処分させ、将軍蒙恬(もうてん)に三十万の大軍を率いて北に匈奴を追い払わせ、防備の便のため、旧来の秦、趙、燕の長城を修繕し連結させた。「地形に因り、険を用いて塞を制し、臨洮(りんとう)から遼東に至る。延々と続くこと万余里。」(『史記・蒙恬列伝』)これが著名な万里の長城である。蒙恬は上郡(今の陝西省楡林の南)に居り、軍隊を指揮した。この時、北京地区の北側に進入した匈奴は長城の外に追い出された。始皇は更に命令を出し、全国範囲で馳道(ちどう。皇帝が通行する道路)を作らせた。馳道は首都咸陽を中心に、「東は燕、斉を窮め、南は呉、楚を極め、江湖の上、瀕海の観卒に至る。道五十歩(約70メートル)の広さで、三丈(約7メートル)毎に街路樹を植え、それを厚く築く外、隠すに金槌を以てし、樹に青松を以てす。」(『漢書・賈山伝』)始皇在位の11年中、5回馳道に沿って全国を巡遊した。始皇32年(紀元前215年)第4回の巡遊の時、旧燕国の地区に到り、およそ今の太行山脈東麓を通って北上し、治水(今の永定河)を渡り、薊に至り、再び無終を経て、遼西郡の 碣石(今の河北省昌黎の北)に到達した。彼は燕人の盧生に海に入らせ、仙人の羨門、高誓を訪問させ、更に韓終、侯公、石生を派遣し、仙人を訪問させた。これは皆、長生不死の薬を求めるためであった。始皇が西に帰る時、「北辺を巡り」、おおよそ旧燕国北の長城線に沿って今の内蒙古地区に至り、そこから南下して上郡に至り、咸陽に戻った。

 

 秦朝は長城を建設するため、匈奴を防ぎ、馳道を開き、宮殿を築き、墳墓を作り、徴発する徭役がたいへん多く、賦税もたいへん重かった。紀元前209年(秦二世元年)、また大いに徭役が発せられた。そのうち河南から徴発されたグループは900人で、県尉が護送し、漁陽に到り国境を守ることになっていた。この徴発された農民は薊県大澤郷(今の安徽省宿県東南)まで来た時、長雨が続き、道路が不通で、任地への到着期限を遅れた、秦朝の法律では、期日の遅れは斬首刑に処せられた。それでこれら900人の徴発された農民は、陳勝、呉広の指導の下、蜂起した。元の六国の貴族もこの機に乗じて兵を起こし、国の再興を図った。陳勝は武臣を将軍として派遣し、三千人を率いて北のかた趙の地を奪い取った。「戦わずして城下三十余城を以て、邯鄲に至る」(『史記・張耳陳余列伝』)。武臣は自ら立って趙王と為り、陳勝、呉広の管轄を離脱した。武臣はまた旧燕の上谷の卒史韓広を将とし、北に燕地を奪い取った。燕の旧貴族はまた韓広を擁立して燕王とし、燕国を回復し、薊を国都とした。紀元前208年(二世二年)閏九月、秦は王離を統帥とし、上郡から数十万の大軍を率いて東に向かい、趙王歇(歇は趙の旧貴族で、この時武臣は既に死んでいた)を鉅鹿(今の河北省平郷)に包囲した。秦の将軍章邯は二十万余りの大軍を率いて中原地区から北に黄河を渡り、甬道(道の両側に垣を作り、中を通行しても外から見えないようにした道路)を作り、黄河から北に鉅鹿以南に至り、王離のために軍糧を供給した。この時鉅鹿は切羽詰まり、趙は何度も人を派遣し、各反秦勢力に援助を求めた。燕王韓広は将軍臧荼(ぞうと)を派遣し、軍を率いて趙の救助に行かせた。翌年、鉅鹿の会戦は、趙を救助する各路の軍は項羽が率いる楚軍を主力に、大いに秦軍を破った。秦の将、王離は捕虜にされ、蘇角は殺され、渉間は自焚し、章邯は南へ逃げた。臧荼(ぞうと)ら各路の将校は共に項羽を「諸侯上将軍」に推し、反秦連合軍の統帥にした。項羽は殷墟(今の河南省安陽)で章邯の投降を受入れて後、挙兵して西へ向かい、函谷関に入り、まっすぐ咸陽に至った。

 

 この時劉邦は既に項羽に先んじて函谷関に入り秦を滅ぼしていた。しかし劉邦の軍勢は比較的小さく、十万人に過ぎなかった。項羽には四十万人の兵がいて、軍勢は強大であった。項羽は盟主の身分により諸侯王を大いに封じ、全部で彼に従い函谷関に入った主要な将校と関東で既に国を復活させた貴族を十八の王国に封じて立てた。その中の燕将臧荼(ぞうと)は軍を率いて項羽に従い入関するに功有り、燕王に封じられ、薊を国都とした。元の燕王韓広は遼東王に改められ、無終(今の天津市薊県)を国都とした。臧荼が薊に戻る時、韓広は項羽の分封を承認せず、且つ武力で臧荼の入薊を拒んだ。臧荼は韓広を撃破し、無終で韓広を追撃して殺害し、韓広の遼東地区を併せて占有し、新たな燕国を建立したが、依然薊を国都とした。楚漢の戦争の中で、韓信が趙を滅ぼして後、広武君李左車の建議を受入れ、使者を燕に派遣し、臧荼が投降したが、劉邦は相変わらず臧荼を燕王とした。

 

 紀元前202年(漢五年)冬、劉邦は項羽を滅ぼした。同年7月、臧荼が背き、代郡(今の河北省蔚県)を攻め落とした。劉邦は自ら大軍を率いて討伐し、臧荼を捕虜にした。別に盧綰(ろわん)を立てて燕王とし、旧燕国地区を統治させた。翌年、薊以南の29県を割いて涿郡を置いた。

 

 

西漢時代の燕国

 

 西漢初年、今の北京地区は燕国となり、を都城とし、諸侯王盧綰(ろわん)であった。劉邦とは姓が異なるので、歴史上は異姓の諸侯王と呼ばれる。

 

 盧綰は劉邦と故郷が同じで、二人は誕生日が同じで、幼い時は共に学び、「壮じてまた互いに好んだ」。劉邦が挙兵した時、盧綰も参加した。楚漢戦争の時、盧綰は官位が大尉にまでなり、長安侯に封じられた。漢57月、劉邦に従って臧荼を攻め滅ぼして後、燕王に封じられた。紀元前196年(漢11年)秋、陳豨(ちんき)が代( 今の河北省蔚県 )で背いた。劉邦は自ら大軍を率いて邯鄲(今の河北省邯鄲市)に至り、南面から陳豨を討伐した。燕王盧綰もまた兵を率いて東北より陳豨を攻撃した。後に盧綰は劉邦が陳豨を滅ぼして後、更に自分を滅ぼすのではないかと恐れ、また陳豨と結託し、陰で陳豨が劉邦に反抗するのを支持し、更に匈奴と使者を通じ、互いに声援を送った。翌年、劉邦は陳豨を撃破し、盧綰と陳豨が共謀していたことを知り、使者を派遣し盧綰を呼び寄せたが、盧綰は病と称して行かなかった。それで劉邦は樊噲(はんかい)を将軍とし、軍を率いて燕を攻撃させた。後にまた周勃に樊噲に代えて薊を攻め滅ぼさせ、燕の大将抵、丞相偃、太尉弱、御史大夫施等を捕虜にし、立て続けに上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東などの郡を攻め滅ぼした。盧綰は家族、宮人、腹心など全部で数千騎を連れ、匈奴に逃亡した。一年後、匈奴で死亡した。

 

 劉邦は盧綰を攻撃する時、大臣たちと盟約して言った。「劉氏に非ざる王は、もし功無ければ、上(皇上)が置かず(冊封せず)侯なる者は、天下共に之を誅す。」(『史記・漢興以来諸侯年表』)そしてその子劉建を燕王に封じた。立てて十五年(呂后七年、紀元前181年)で、病死したので、諡(おくりな)を霊王とした。建の子は幼少で、呂后のため殺され、国は除かれた。翌年、呂后はまたその甥(おい)の呂通を燕王に封じた。しばらくして、呂后が病死し、呂通と呂氏のその他の親族は一緒に滅ぼされた。文帝が立ち、また一族の劉澤が燕王に封じられた。劉澤は元琅邪王で、呂氏に反対するに功有り、遷されて燕王になった。澤が燕に至り二年で、病死し、諡は敬王と言った。子の嘉が位を継いだ。これが康王である。康王が死に、その子定が位を継いだが、罪を犯したので、紀元前128年(武帝元朔元年)自殺し、国は除かれ、燕郡に改められた。紀元前118年(元狩五年)武帝は再び燕国を置いた。翌年4月、子の旦を燕王に封じた。相変わらず都は薊であった。紀元前80年(昭帝元鳳元年)燕王旦は蓋長公主、左将軍上官桀、御史大夫桑弘羊と結託し、昭帝を廃して自立する陰謀を企てた。事は露見し、自殺し、国は除かれ広陽郡となった。昭帝は旦に諡を賜り刺王とし、太子建は免じられて庶人となった。後六年(紀元前73年)宣帝が即位し、建を立てて広陽王とし、広陽郡を改め国としたが、相変わらず薊を都城とした。平帝の元始二年(西暦2年)西漢官庁の統計によれば、広陽国の下で薊、方城、広陽、陰郷の4県を管轄し、全部で戸数が2740、口数は7658であった。王莽が君位を簒奪し、国が除かれ、広有郡と改められ、また薊を改めて伐戎とした。

 

 西漢前期、秦末の農民大蜂起の後、土地占有状況に調整があった。西漢の統治者はまた「徭役を軽くし、租税を薄くする」政策を実行し、階級矛盾の緩和、社会経済発展の回復の面で一定の効果をもたらせた。農業生産は相当に発展した。考古発掘から見ると、この当時既に広く鉄器が使用されていた。解放以来、北京地区で出土した西漢の鉄製農具には、鍬(くわ)、鋤(すき)、スコップ(シャベル)、耧角(牛の角状の種まき用の農具)などがあった。これらの鉄器は当時重要な田の耕作、除草、種まきの工具であった。鉄製農具の大量使用は、北京地区の荒地の大量開発を可能にし、水利事業を発展させ、耕作技術も進歩した。解放以来、北京城の内外で多くの漢代の井戸が発見された。その大部分が西漢時代のものだ。こうした井戸は、陶製の井戸枠で築かれている。1956年、永定河引水工事中に漢代の陶製井戸が百五十余り発見された。これらは主に宣武門豁口(城壁の一部を取り壊して通路にしたところ)の両側から和平門一帯に密集していた。1965年にはまたこの一帯で漢代の陶製井戸が五十余り発見された。この他、今の瑠璃廠、新華街、象来街、北線閣、広安門内大街、校場口、牛街、陶然亭、姚家井、白紙坊などからまっすぐ西単の大木倉に至るまで、陶製井戸が発見された。これら密集した陶製井戸は単純な飲み水用ではないように思われ、おそらく田地や園圃(えんぽ。野菜や果樹の畑)を灌漑し切り開くためのものだと思われる。果樹の栽培は普遍的に行われ、主に棗(なつめ)、栗などが生産量がたいへん大きく、既にこの地域の重要な経済構成部分となっており、ひいては糧食に代わるものとなっていた。

 

 ここでは手工業もかなり発展していた。文献の記載によれば、漁陽涿郡には鉄官が設けられ、主に山を切り開き鋳造が行われていた。今の北京城の北郊の清河鎮で発見された漢代の鉄の鋳造遺跡では、鉄器が数多く出土し、剣、戟(げき)、鉞(えつ。まさかり)などの兵器、鋤、鍬、スコップ、 耧角、手斧(ちょうな)、鑿(のみ)、環刀などの農具や手工具があった外、鼎、鏡、車具、馬飾り、その他の器具もあった。これらの器具の発見は、当時の鉄の鋳造が相当に発展し、製品の種類がたいへん多かったことを説明している。同時に、これと関連するその他の産業、例えば農業、木工業、運輸業なども、相当に発達していたことを反映している。1975豊台区大葆台で発掘された西漢墓の中で、多くの鉄器が出土した。その中には、鉄の斧、箭鋌(弓矢の矢先と竿の接合部分)、笄(こうがい)、鎹(かすがい)、鉄の輪っかの付いた工具、戟 (げき)などがあった。一件の鉄斧は、片面に「」の文字が鋳込まれており、おそらく漁陽鉄官が鋳造したものだろう。

「漁」字の鋳込まれた鉄斧

大葆台一号墓前景

 製塩業も相当に発展していた。文献の記載によると、漁陽郡泉州県には塩官が設けられ、ここは重要な塩の生産地であった。製陶業も発展していた。大葆台西漢墓出土の陶器には、鼎、罐、壺、盤、盆、魁(かい:スープをすくう杓子)、 鈁 (ほう:酒器)、甕、耳杯(羽觞:うしょう。楕円形で底の浅い酒杯)などがあった。器の表面には多く黒漆が塗られ、また内側が赤漆、外側に黒漆が塗られたものもあった。

 ここでは商業も発展し、このことは当地の農業、手工業の発展、及び北に隣接する異民族の住む地域と切り離しては考えられない。薊はこの地域の交易の中心であった。『史記・貨殖列伝』によれば、「それ燕はまた勃、碣(けつ)の間の一都会也。南は斉、趙に通じ、東北は胡に連なる。上谷から遼東に至るには、地遠く離れ、人民稀なり、しばしば侵略せられ、大いに趙、代と俗が相似し、民は奸智に長け虜少なし。魚塩棗栗が豊かである。北は烏桓、夫余に隣接し、東は濊貊(わいはく)、朝鮮、真番(しんばん)の利と結ぶ。」『塩鉄論・通有篇』によれば、「燕の涿、薊、趙の邯鄲、魏の温、軹(し) 、韓の滎陽(けいよう)、斉の臨淄、楚の宛丘(えんきゅう)、鄭の陽翟(ようてき)、三川の二周(西周及び東周。「三川」は西周では涇河 ・渭河 ・洛河、東周では 黄河・洛河・伊河)その富は天下に甲たり、皆天下の名都なり。」これらの地域の主要な商品は、それぞれの土地の農業、手工業、土地の特産品の外、中原からの布帛(ふはく。絹や綿の織物)、漆器。烏桓(うがん)、夫余、朝鮮、真番(しんばん。漢朝により朝鮮半島に設置された植民地)等北方や東北の少数民族からの毛皮、畜産品などがあった。『史記・貨殖列伝』によれば、「燕、秦には千樹の栗。」また、「棗栗千石なる者三、狐貂(てん)の裘(かわごろも) 千皮、羔羊(子羊)の裘千石、旃(フェルト)席千具。これもまた千乗の家に比す。」このことから、当時の北京地区は、西漢の前期、中期に既に多くの大商人が出現していたことが分かる。

 

 北京地区は長期間王国が置かれ、歴代の諸侯王は贅沢で、堕落し、政治は暗黒であった。燕王劉旦は帝位を簒奪するため、「大臣、中尉以下から、車馬を集め、民を発動して包囲され、大いに文安県で狩りをした。」また「孫縦之ら前後十余の輩を派遣し、多く金宝走馬を贈り(齎 :もたらす)、盖主(鄂邑長公主)、上官桀、御史大夫桑弘羊らに賄賂を贈ると、皆これと誼を通じた。」(『漢書・武五子伝・燕刺王旦』)このような多くの金宝、走馬は、もちろん人々の血や汗から来たものだった。大葆台一号漢墓は全長40メートル余り、墓道、甬道、外回廊、「黄腸題凑」(漢代、帝王陵の椁室の四方をコノテガシワの木材を積み上げて囲った構造)、「便房」(亡くなった帝王が墓の中で生活する部屋)と椁室(かくしつ) から構成されている。「黄腸題凑」は15千本余りの長さ90センチ、幅と厚みが何れも10センチのコノテガシワ(柏木)の木材を四方の壁に積み上げ、方形の木材で天井まで覆われた。椁内には棺を置き、棺は全部で五重であった。副葬品は盗掘を免れた物が残されていたが、なお陶器、鉄器、玉器、メノウ、絹織物など四百件余りが残っていた。

大葆台一号墓遺跡復元図

大葆台一号墓「黄腸題凑」

その中には金メッキを施した銅製の龍頭枕、玉衣片、半円形の玉、玉璧、玉飾り、銅鏡、金メッキの銅製の豹などがあり、たいへん精緻で美しい。 墓道に放置された随葬の車馬は、完璧に保存され、全部で朱色の車輪のはでやかで美しい車が三台、馬が十一匹であった。この墓葬の規格と出土した文字資料から見て、広陽王劉建の陵に違いない。

鎏金嵌玉龍頭枕(金メッキを施し、玉で象嵌された龍頭枕)



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