3月14日午前、温家宝首相は第11期全人代第三回会議の内外記者との会見の中で、台湾問題について、次のように語った。
■ 我講一個故事你可以告訴台湾同胞。在元朝有一位画家叫黄公望,他画了一幅著名的《富春山居図》,79歳才開始創作的,完成之后不久就去世了。几百年来,這幅画輾転流伝,但我知道,現在一半放在浙江博物館,一半放在台北故宮博物院,我希望両半幅画什麼時候能合成一整幅画。画是如此,人何以堪。
私はひとつの物語を台湾の同胞の皆さんにお話することができる。元朝の時代に黄公望という画家がいて、彼は有名な《富春山居図》を描いた。79歳で創作を開始し、完成後間もなく世を去った。数百年来、この絵は次々と人手に渡り、転々としたが、私の知っているところでは、現在は半分が浙江博物館にあり、半分が台北の故宮博物院にある。私はふたつの絵がいつの日かひとつの絵に合わさることができたら、と望んでいる。絵がこのようであるのに、人はこのような悲しみをどうして我慢できるだろう。
・輾転流伝 zhan3zhuan3liu2chuan2 次々と人手に渡り、転々とする
・人何以堪 ren2he2yi3kan1 このような苦しみ、悲しみをどうして我慢できるだろう。
[出典]《世説新語》 原文:“昔年種柳,依依漢南。今看揺落,凄愴江潭。樹猶如此,人何以堪”。また“物猶如此,人何以堪”と書かれる場合もある。 堪:耐え忍ぶ。こらえる。
杭州、台北両相望 《富春山居図》合璧会有期
人民網記者 陶世安
2010年03月26日 来源:人民網-《人民日報海外版》
杭州、台湾双方は《富春山居図》が一か所に並べられることが実現することを望んでいる
・合璧 he2bi4 二つのものをいっしょに並べること。“璧”は薄くドーナツ状に作った玉の装飾品。
■ 温総理提到的這幅伝世名画,由元代著名画家黄公望在79歳時創作,全図以浙江富春江為背景,用墨淡雅,山水布置疏密得当,墨色濃淡干湿并用,極富于変化,是黄公望的代表作,被称為中国十大伝世名画之一。
温総理が語ったこの歴史的名画は、元代の著名な画家、黄公望が79歳の時の創作であり、絵全体が浙江省の富春江を背景にし、墨のあっさりした趣で、山水は密度が適当で、墨の濃淡、乾湿を併用し、変化に富んでおり、黄公望の代表作で、中国の十大歴史名画の一つに称される。
融衆家之長 与造化争神
多くの画家の優れた点を融和し、大自然と素晴らしさを競い合う
■ 黄公望,字子久,江蘇常熟人,与呉鎮、王蒙、倪瓚并称“元四家”,声望最高。
黄公望、字は子久、江蘇省・常熟の人で、呉鎮、王蒙、倪瓚と共に、「元四家」と称せられ、中でも声望が最も高い。
■ 他的山水画師法董源、巨然,并受到趙孟頫的熏陶,融衆家之長為一体。他又“臥青山,望白雲”長期生活在大自然中,更加深了対山水的深刻理解。
彼の山水画の師は法董源、巨然で、また趙孟頫の薫陶を受け、それぞれの長所を融和し一体とした。彼はまた、「青山に臥し、白雲を望む」長期の生活を大自然の中で行い、山水の深い理解をより奥深いものにした。
■ 最初,黄公望結茅于杭州郊外赤山筲箕泉,后往虞山,“探閲虞山朝暮之変幻,四時陰霧之気韵,得之于心而行于画。”
最初、黄公望は杭州郊外赤山筲箕泉に庵を結び、その後、虞山に行き、「虞山の朝夕の変化を探索し、始終、陰霧の気運に触れ、心に感じたところを絵にした。」
■ 晩年的黄公望来到富春江,定居下来。這里有六朝文人呉均賛美的“奇山異水,天下杜絶”的迷人景致。黄公望終日沈浸其中,眼前景、胸中筆,彼此交滙通融,解之切,感之深。
晩年、黄公望は富春江にやって来て、ここに居住した。ここは六朝の文人、呉均が賛美した「奇山異水,天下杜絶」の人をうっとりさせる景色である。黄公望は一日中その中に浸り、眼で前景を追い、心の中で筆を走らせ、それらを集約し融和させ、解釈は適切で、感動は深かった。
■ 誠如明人李日華在《紫桃軒雑綴》中所記:“陳郡丞嘗謂余言:‘黄子久終日只在荒山乱石叢木深顛中坐,意態忽忽,人不可測其為何。又毎往泖中通海処看急流轟浪,雖風雨驟至,水怪悲詫而不顧。’噫!此大痴之筆,所以沈郁変化,几与造化争神奇哉!”《富春山居図》是其最為后世瞻仰的偉大作品。
・瞻仰 zhan1yang3 仰ぎ見る
誠に明の李日華が《紫桃軒雑綴》の中で書き記しているように、「陳郡丞が嘗て私に語ったことには、「黄子久(公望)は終日、ただ荒山乱石叢木の中に座り、ぼんやりしているように見えるが、それがどうしてかは他人には推し量れない。また水の流れの穏やかなところから海に通じるところで急流や轟く波を見るたび、風やにわか雨にあっても、流れの様子が変わっていて、物悲しいと、気にもかけなかった。」ああ!こんな変わった人の筆によるので、流れの静まりや変化を、大自然とそのすばらしさを競い合っているのだ!」《富春山居図》は後世の人々に仰ぎ見られる偉大な作品である。
■ 為了最完美的芸術境界,黄公望苦心孤詣,嘔心瀝血,歴経三四年,在82歳完成這幅作品。原作為6張紙連成的画卷,高尺余,長約二丈。作品描写富春江一帯的初秋景色。画面上山巒起伏,丘壑連綿,逶迤変化,不可端倪;樹木亭台,村台小橋,漁舟人物等,錯落穿插,安排有致,甚得平淡天真之趣。観画者鄒之麟在題跋中写道:“筆端変化鼓舞,右軍之蘭亭也,聖而神矣!”黄公望専意于山水画,水墨紛披,蒼率瀟洒,境界高曠,把董、巨一派山水画推向了画壇主流地位。他善用湿筆披麻皴,為明清画家大力推崇,存世作品有《富春山居図》、《溪山雨意図》、《快雪時晴図》、《九峰雪霽図》、《富春大岭図》、《九珠峰翠図》等。
・苦心孤詣 ku3xin1gu1yi4 苦心して他の追随を許さない成果を収めること
・嘔心瀝血 ou3xin1li4xue4 苦心して文章を書くこと。心血を注ぐ
・山巒起伏 shan1luan2qi3fu2 起伏の多い連山。
・逶迤 wei1yi2 道、山、川などがくねくねと続きている様
・披麻皴 pi1ma2cun1 山水画で山や岩の立体感を出すための技法である皴法(しゅんぽう)のひとつで、麻の葉に似ていることからこの名がある。
最も完成した芸術の境地に至るため、黄公望は苦心惨憺、心血を注ぎ、三四年を経て、82歳でこの作品を完成させた。原作は6枚の紙をつなげて絵巻物とし、高さ1尺余り(約30cm)、長さは約2丈(6.6m)。作品は春江一帯の初秋の景色を描いたものである。画面の上で、山並は起伏し、丘や谷は連綿と続き、くねくねと変化し、際限がない。樹木亭台、村台小橋、漁舟人物などが錯綜し、配置がおもしろく、極めて平淡、天真の趣がある。絵を見た鄒之麟は題辞の中でこう書いた。「筆端の変化が鼓舞し、右軍の蘭亭なり、聖なるかな、神なるかな!」黄公望は専ら山水画を得意とし、水墨が伸び広がり、墨が青々としてあか抜けており、気高く伸び伸びとした境地に達していて、董、巨一派の山水画を画壇の主流に持ち上げた。彼は湿筆、披麻皴の技法を得意とし、明清の画家に大いに尊敬され、現存する作品には、《富春山居図》、《溪山雨意図》、《快雪時晴図》、《九峰雪霽図》、《富春大岭図》、《九珠峰翠図》等がある。
神品伝世路 曲折復坎坷
神品の世に伝わる道は、紆余曲折、不遇であった
■ 《富春山居図》問世后,被人視為神品。此画是黄公望為謝無用道士所作,画卷上黄氏題跋云:“至正七年(1347年),僕帰富春山居,無用師皆往。暇日于南楼援筆写成此卷。興之所至,不覚亹亹布置如許;逐漸填答,閲三四載,未得完備。蓋因留在山中而雲遊在外故尔。今特取回行李中,早晩得暇,当為著筆。無用過慮,有巧取豪奪者,俾先識卷末,庶使知其成就之難也。……”由此可知這幅長卷創作之艱難曲折。
・巧取豪奪 qiao3qu3hao2duo4 (金品や権利を)だまし取ったり力ずくで奪ったりする
《富春山居図》が発表されると、人々は神品と見做した。この絵は黄公望が謝無用道士のために作ったもので、画卷の黄氏の題辞に言う。「至正七年(1347年)、私は富春山居に帰り、無用師も同行した。暇な時に南楼で筆の援けでこの巻物を書いた。興味の至るところであるが、知らず知らず時間が経ち、このような按配である。次第に答えを埋め、見ること三四年、未だ完成しない。蓋し山中にいたり外を雲遊したりしているためであろうか。今、行李の中から取り出し、朝晩暇をみて、筆を走らせている。無用はたいへん心配して、だまし取ったり力ずくで奪う者がいるだろうから、先に卷末でその成就するの難しきを知らしめるようにと言う。」ここから、この巻物の創作の艱難辛苦、紆余曲折が窺える。
■ 《富春山居図》一度為無用和尚擁有。明成化年間,由書画家、“呉門派”始祖沈周高価購得。以后,此卷几度易手,明万暦二十四年(1596年),為董其昌購得。崇禎九年(1636年),董其昌将画押給了宜興人呉正志。清初,呉正志伝子呉之矩,之矩伝子洪裕。呉洪裕在家中特建“富春軒”藏之,愛若至宝,順治七年(1650年)臨終之際,竟嘱人将此図投入火中,焚以為殉。眼看墨宝化作青煙,其姪呉子文乗其不備,以別画易之,迅速従火中搶出《富春山居図》。遺憾的是,画已焼成両半。前段較小,称“剩山図”;后段画幅較長,称“無用師卷”。此后,較長的后半部為呉子文收藏。
《富春山居図》は一度は無用和尚の所有となった。明成化年間、書画家で、“呉門派”の始祖、沈周が高価で購入した。その後、この巻物は何度か持ち主が代わり、明万暦二十四年(1596年)、董其昌が購入した。崇禎九年(1636年)、董其昌は絵を質の糧に宜興人呉正志に渡した。清初、呉正志は子の呉之矩に伝え、之矩は子の洪裕に伝えた。呉洪裕は家に“富春軒”を建てこれを蔵し、至宝のように愛した。順治七年(1650年)臨終に際し、この絵を火に投じ、燃やすことで自分に殉じさせるようにと言いつけた。水墨の宝が青い煙に化していくのを見て、その姪の呉子文は皆が目を離した隙に、これを別の絵とすり替え、急いで火の中から《富春山居図》を取り出した。残念なことに、絵は既に焼けてふたつの部分になっていた。前半はやや小さく、“剩山図”と呼ばれる。後半の絵は比較的長く、“無用師卷”と呼ばれる。その後、比較的長い後半部分は呉子文の收藏するところとなった。
■ 后段《富春山居図》頗多磨難。順治十四年,即焼図后的第八年,画家程正揆在泰興季寓庸処見過此画,可見其時《富春山居図》已易主。程正揆臨倣一本,于題跋中予以説明。后高士奇、王鴻緒、安岐等一度成為《富春山居図》的擁有者。乾隆十年(1745年),乾隆皇帝広征名画,此卷被征入宮。1925年,北平故宮博物院成立,此図入藏其中。1931年,日本侵占東三省,北平岌岌可危,為免不測,包括《富春山居図》在内的近百万件故宮文物被運往南方,1948年輾転到了台湾,后入藏台北故宮博物院。
・岌岌可危 ji2ji2ke3wei1 危険きわまりない
後段の《富春山居図》は多くの困難に遭った。順治十四年、すなわち絵が焼かれてから八年後、画家の程正揆は泰興に寄寓していた時、この絵を見かけたが、このことからその時《富春山居図》は既に持ち主が代わっていたことがわかる。程正揆はこの絵を模写し、その題辞でそのことを説明している。後に高士奇、王鴻緒、安岐等が《富春山居図》の所有者となった。乾隆十年(1745年)、乾隆皇帝は広く名画を徴収し、この絵も徴収され、宮廷へ入った。1925年、北平故宮博物院が成立し、この絵もそこに収められた。1931年、日本が東部三省を侵略占領した際、北平は危険きわまりない情勢となり、不測の事態から免れるよう、《富春山居図》を含む百万件近い故宮文物が南方に運ばれ、1948年に移され、後に台北故宮博物院に収められた。
■ 重新装裱后的“剩山図”卷,在康熙八年(1669年)為王廷賓所得,后来就湮没無聞輾転于諸收藏家之手。至抗日戦争時期,為近代画家呉湖帆所得。在浙江博物館供職的沙孟海得此消息,心想,国宝在民間輾転流伝,保存不易,只有国家收藏,才是万全之策。于是数次去上海与呉湖帆商洽,暁以大義。呉得此名画,本無意転譲。但沙先生并不灰心,仍不断往来沪杭之間,又請出銭鏡塘、謝稚柳等名家従中周旋。呉湖帆被沙老至誠之心感動,終于同意割愛。1956年,経歴了300余年的曲折伝承,“剩山図”卷入藏浙江省博物館。
・湮没無聞 yan1mo4wu2wen2 (人材などが)世に知られずうずもれる
・至誠之心 zhi4cheng2zhi1xin1 あふれる真心
新たに表装し直した“剩山図”は康熙八年(1669年)王廷賓の所有となり、その後世に知られずうずもれ、何人かの収集家の手を転々とした。抗日戦争時期になり、近代画家の呉湖帆の所有となった。浙江博物館で職務についた沙孟海はこの知らせを聞き、心の中で、国宝が民間で人手を転々とするのは、保存が容易でなく、国家の収蔵こそ、万全の策だと思った。そして何回も上海へ行き、呉湖帆と交渉し、大義を知らしめようとした。呉はこの名画を得て、元々譲渡するつもりはなかった。しかし沙先生が気落ちすることなく、絶えず上海と杭州を行き来し、また銭鏡塘、謝稚柳等の著名人に周旋を依頼した。呉湖帆は
沙孟海のあふれる真心に感動し、遂に割愛に同意した。1956年、300余年の紆余曲折の伝承を経て、“剩山図”は浙江省博物館に収められた。
明清倣臨本 迷倒乾隆爺
明清の模写 乾隆老を惑わす
■ 明清画家中多人倣臨過《富春山居図》,有籍可査的就有沈周臨本(現藏北京故宮博物院)、周穎侯臨本、向摹本、鄒之麟拓本、沈摹本、程正揆臨本、王翬摹本、呉歴臨本、王宸摹本、貫潜倣本等。這些臨本,除沈周的背臨本外,向、鄒之麟所倣的可能是《富春山居図》全景,其余多倣臨残卷。臨摹本各具特色,如沈周評価自己的摹本為“物遠失真”,不很像原作;向摹本則“略得大意”等。臨摹本中確実有摹得好的倣品。
明清の画家には《富春山居図》を模写した者が多くおり、書籍から調べられるものは、沈周の模写(現・北京故宮博物院蔵)、周穎侯の模写、向の模写、鄒之麟の拓本、沈の模写、程正揆の模写、王翬の模写、呉歴の模写、王宸の模写、貫潜の模写などがある。これらの模写は、沈周の模写を除き、向、鄒之麟の模写は《富春山居図》の全景である可能性があり、その他は残巻の模写である。模写はそれぞれ特色があり、例えば沈周は自分の模写を「本物とは遠くかけ離れている」と評価し、原作とは異なっている。向の模写は「おおよそ大意を得たり」としている。模写の中にも確かに優れた模写がある。
■ 1745年,《富春山居図》被征入宮。乾隆皇帝以《富春山居図》帰入内府上等品,“乾隆御覧之宝”、“石渠宝笈”、“乾隆鑑賞”、“三希堂鑑璽”、“宜子孫”五印,并題詩一首。此后50余年,乾隆皇帝不時将画卷取出欣賞,且時常在画上留詩題句,加蓋鑑賞印,長達6米的巨幅画卷空白処,几乎填満了乾隆的御書、藏印,可見乾隆対此画的珍愛。就在此図征入内府的第二年,即1746年,地方官又呈進一幅《富春山居図》!両図一模一様,難辨真偽。乾隆皇帝経多方対比論証后,認定被他題詩、印的前一幅是黄公望真跡,后者是贋品。由于后者近乎完美无瑕,簡直到了“以假乱真”的程度,乾隆同時收入内府收藏。両幅《富春山居図》皆著録于《石渠宝笈》。
・以假乱真 yi3jia3luan4zhen1 本物の中に偽物を混ぜる。偽物を本物と言って人をだます。
1745年、《富春山居図》は徴収され宮廷に入った。乾隆皇帝は《富春山居図》を内府上等品とし、“乾隆御覧之宝”、“石渠宝笈”、“乾隆鑑賞”、“三希堂鑑璽”、“宜子孫”の五印を捺印し、題詩一首を著した。その後50年余り、乾隆皇帝は時々画卷を取り出して鑑賞し、時には絵の上に詩や文を題し、更に鑑賞印を押し、長さ6mに達する大きな画卷の空白部分は、ほとんど乾隆の御書、蔵書印で埋め尽くされ、乾隆のこの絵に対する愛着が見て取れる。この絵が内府に徴収された二年目、すなわち1746年、地方官がまた一幅の《富春山居図》を献上した。ふたつの絵は瓜二つで、真偽の判断がつかなかった。乾隆皇帝は多方面から対比論証の後、彼が題詩を著し、印を押した前者こそ黄公望の真跡であり、後者は贋作であると認定した。後者は完ぺきで欠点がなく、「偽物を本物と言って人をだます」域に達しており、乾隆はこれも同時に内府に収め、収蔵した。二枚の《富春山居図》は何れも《石渠宝笈》に記録されている。
■ 清亡后,清宮所藏両幅《富春山居図》的真偽問題被提了出来。持不同意見者各執己見,争論不休。近年,有人以有力的証据推翻了乾隆皇帝的判断,認定1746年入宮的《富春山居図》是黄公望原作,被乾隆皇帝定為真跡的“石渠”本,応該是清順治庚寅到丁酉之間的摹作。曠日持久的争辧有了結論。而今,這両卷《富春山居図》都存放在台北故宮博物院,不論是真、是摹,都已成了画苑奇葩,這也為《富春山居図》増添了伝奇色彩。
・曠日持久 kuang4ri4chi2jiu3 時間を無駄に費やして事を長引かせること
・奇葩 qi2pa1 珍しい花
清滅亡後、清宮所蔵の二枚の《富春山居図》の真偽問題が提出された。異なる意見を持つ者が各々自分の見解を主張し、論争は止むことがなかった。近年、ある人が有力な証拠により乾隆皇帝の判断を覆し、1746年に宮廷に入った《富春山居図》が黄公望原作であると認定し、乾隆皇帝が真跡と定めたものは“石渠”本とされ、清順治庚寅から丁酉の間の模写であるに違いないとした。いたずらに時間を費やした論争に結論を出した。現在、これら二巻の《富春山居図》は何れも台北の故宮博物院に置かれており、真跡であれ模写であれ、もはや画苑の奇花となっており、このことも《富春山居図》に伝奇的色彩を加えている。
両岸斉努力 神品定合璧
両岸がいっしょに努力し、神品を一つに戻そう
■ “画是如此,人何以堪。”温家宝総理深情講起元代黄公望名作《富春山居図》“分居”大陸、台湾両地的故事,言辞懇切,令人動容。総理提到的“杭州博物館”,就是浙江省博物館;浙江富陽正是《富春山居図》的故郷,作品里描絵的也正是富春江岸的秀麗風光。多年来両岸画家和有識之士多方努力,希望《富春山居図》早日“破鏡重圓”、合璧重輝。今年恰逢《富春山居図》問世660周年。争取《富春山居図》合璧展出,更是浙江各界努力多年的心願。
・言辞懇切 yan2ci2ken3qie4 言葉づかいが丁寧である
・破鏡重圓 po4jing4chong2yuan2 離散または離縁した夫婦が再びいっしょになる。元のさやに収まる
「絵がこのようであるのに、人はこのような悲しみをどうして我慢できるだろう。」温家宝首相は元代黄公望の名作《富春山居図》が大陸、台湾の両地に「別居」している話を感慨深く話したところ、言葉づかいが丁寧であり、人々を感動させた。総理が言った“杭州博物館”とは浙江省博物館のことで、浙江富陽は正に《富春山居図》の故郷であり、作品の中で描写されているのは富春江岸の美しい風景である。何年にもわたり両岸の画家、有識者が多方面から努力しており、《富春山居図》が早期に「元のさやに収まり」、再び一つになって輝きだすことを希望する。今年はちょうど《富春山居図》が世に出て660周年に当たっている。この期に《富春山居図》を一つに並べて展示することは、浙江各界が何年も努力してきた心からの願いである。
■ 令人高興的是,浙江省博物館与台北故宮博物院已就《富春山居図》合璧展出有了実質性接触。台北故宮博物院已明確発出邀請,希望“剩山図”卷能够到台湾,与“無用師”卷合璧展出。浙江省博物館希望,《富春山居図》在台湾合璧展出后,能够在祖国大陸完整展出。台北方面為此還需付出努力。一張660年的伝世名画,一件承載着太多悲歓離合的伝奇国宝,跨越海峡,合璧重圓,該何等的盛事!両岸同胞正熱切地期待着。
・悲歓離合 bei1huan1li2he2 別れ、めぐり会いなど世の中の喜びや悲しみ、人生の常ならぬ移り変わり。変転不沈。
喜ばしいことに、浙江省博物館と台北故宮博物院は既に《富春山居図》の合同展示について実質的な接触を行っている。台北故宮博物院は明確に招請を出し、“剩山図”巻が台湾に来て“無用師”卷と合同展示を行えることを希望している。浙江省博物館は、《富春山居図》が台湾で合同展示を行った後、祖国大陸で完全な展示を行えることを希望している。台北方はこのため、尚努力する必要がある。一枚の660年伝えられてきた名画、あまりに多くの悲喜・離合を繰り返してきた伝説の国宝が、海峡を越え、割れた玉がひとつに合わさることは、なんとすばらしいことであろうか!両岸の同胞は心から期待している。
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以前、NHKの《故宮》という番組で、北京、台北の二つの故宮博物院に分かれて収蔵されている文物を紹介していたが、実際の文物の交流展示が進みそうだ。
今年は、従来は台湾から大陸への一方通行の経済投資であったものが、大陸企業の台湾投資もスタートする。既に観光目的で大陸から台湾への入国も活発化している。
アメリカから武器購入といった、きな臭い話もあるが、双方の関係はより発展し、新たな一歩を踏み出しそうである。
■ 我講一個故事你可以告訴台湾同胞。在元朝有一位画家叫黄公望,他画了一幅著名的《富春山居図》,79歳才開始創作的,完成之后不久就去世了。几百年来,這幅画輾転流伝,但我知道,現在一半放在浙江博物館,一半放在台北故宮博物院,我希望両半幅画什麼時候能合成一整幅画。画是如此,人何以堪。
私はひとつの物語を台湾の同胞の皆さんにお話することができる。元朝の時代に黄公望という画家がいて、彼は有名な《富春山居図》を描いた。79歳で創作を開始し、完成後間もなく世を去った。数百年来、この絵は次々と人手に渡り、転々としたが、私の知っているところでは、現在は半分が浙江博物館にあり、半分が台北の故宮博物院にある。私はふたつの絵がいつの日かひとつの絵に合わさることができたら、と望んでいる。絵がこのようであるのに、人はこのような悲しみをどうして我慢できるだろう。
・輾転流伝 zhan3zhuan3liu2chuan2 次々と人手に渡り、転々とする
・人何以堪 ren2he2yi3kan1 このような苦しみ、悲しみをどうして我慢できるだろう。
[出典]《世説新語》 原文:“昔年種柳,依依漢南。今看揺落,凄愴江潭。樹猶如此,人何以堪”。また“物猶如此,人何以堪”と書かれる場合もある。 堪:耐え忍ぶ。こらえる。
杭州、台北両相望 《富春山居図》合璧会有期
人民網記者 陶世安
2010年03月26日 来源:人民網-《人民日報海外版》
杭州、台湾双方は《富春山居図》が一か所に並べられることが実現することを望んでいる
・合璧 he2bi4 二つのものをいっしょに並べること。“璧”は薄くドーナツ状に作った玉の装飾品。
■ 温総理提到的這幅伝世名画,由元代著名画家黄公望在79歳時創作,全図以浙江富春江為背景,用墨淡雅,山水布置疏密得当,墨色濃淡干湿并用,極富于変化,是黄公望的代表作,被称為中国十大伝世名画之一。
温総理が語ったこの歴史的名画は、元代の著名な画家、黄公望が79歳の時の創作であり、絵全体が浙江省の富春江を背景にし、墨のあっさりした趣で、山水は密度が適当で、墨の濃淡、乾湿を併用し、変化に富んでおり、黄公望の代表作で、中国の十大歴史名画の一つに称される。
融衆家之長 与造化争神
多くの画家の優れた点を融和し、大自然と素晴らしさを競い合う
■ 黄公望,字子久,江蘇常熟人,与呉鎮、王蒙、倪瓚并称“元四家”,声望最高。
黄公望、字は子久、江蘇省・常熟の人で、呉鎮、王蒙、倪瓚と共に、「元四家」と称せられ、中でも声望が最も高い。
■ 他的山水画師法董源、巨然,并受到趙孟頫的熏陶,融衆家之長為一体。他又“臥青山,望白雲”長期生活在大自然中,更加深了対山水的深刻理解。
彼の山水画の師は法董源、巨然で、また趙孟頫の薫陶を受け、それぞれの長所を融和し一体とした。彼はまた、「青山に臥し、白雲を望む」長期の生活を大自然の中で行い、山水の深い理解をより奥深いものにした。
■ 最初,黄公望結茅于杭州郊外赤山筲箕泉,后往虞山,“探閲虞山朝暮之変幻,四時陰霧之気韵,得之于心而行于画。”
最初、黄公望は杭州郊外赤山筲箕泉に庵を結び、その後、虞山に行き、「虞山の朝夕の変化を探索し、始終、陰霧の気運に触れ、心に感じたところを絵にした。」
■ 晩年的黄公望来到富春江,定居下来。這里有六朝文人呉均賛美的“奇山異水,天下杜絶”的迷人景致。黄公望終日沈浸其中,眼前景、胸中筆,彼此交滙通融,解之切,感之深。
晩年、黄公望は富春江にやって来て、ここに居住した。ここは六朝の文人、呉均が賛美した「奇山異水,天下杜絶」の人をうっとりさせる景色である。黄公望は一日中その中に浸り、眼で前景を追い、心の中で筆を走らせ、それらを集約し融和させ、解釈は適切で、感動は深かった。
■ 誠如明人李日華在《紫桃軒雑綴》中所記:“陳郡丞嘗謂余言:‘黄子久終日只在荒山乱石叢木深顛中坐,意態忽忽,人不可測其為何。又毎往泖中通海処看急流轟浪,雖風雨驟至,水怪悲詫而不顧。’噫!此大痴之筆,所以沈郁変化,几与造化争神奇哉!”《富春山居図》是其最為后世瞻仰的偉大作品。
・瞻仰 zhan1yang3 仰ぎ見る
誠に明の李日華が《紫桃軒雑綴》の中で書き記しているように、「陳郡丞が嘗て私に語ったことには、「黄子久(公望)は終日、ただ荒山乱石叢木の中に座り、ぼんやりしているように見えるが、それがどうしてかは他人には推し量れない。また水の流れの穏やかなところから海に通じるところで急流や轟く波を見るたび、風やにわか雨にあっても、流れの様子が変わっていて、物悲しいと、気にもかけなかった。」ああ!こんな変わった人の筆によるので、流れの静まりや変化を、大自然とそのすばらしさを競い合っているのだ!」《富春山居図》は後世の人々に仰ぎ見られる偉大な作品である。
■ 為了最完美的芸術境界,黄公望苦心孤詣,嘔心瀝血,歴経三四年,在82歳完成這幅作品。原作為6張紙連成的画卷,高尺余,長約二丈。作品描写富春江一帯的初秋景色。画面上山巒起伏,丘壑連綿,逶迤変化,不可端倪;樹木亭台,村台小橋,漁舟人物等,錯落穿插,安排有致,甚得平淡天真之趣。観画者鄒之麟在題跋中写道:“筆端変化鼓舞,右軍之蘭亭也,聖而神矣!”黄公望専意于山水画,水墨紛披,蒼率瀟洒,境界高曠,把董、巨一派山水画推向了画壇主流地位。他善用湿筆披麻皴,為明清画家大力推崇,存世作品有《富春山居図》、《溪山雨意図》、《快雪時晴図》、《九峰雪霽図》、《富春大岭図》、《九珠峰翠図》等。
・苦心孤詣 ku3xin1gu1yi4 苦心して他の追随を許さない成果を収めること
・嘔心瀝血 ou3xin1li4xue4 苦心して文章を書くこと。心血を注ぐ
・山巒起伏 shan1luan2qi3fu2 起伏の多い連山。
・逶迤 wei1yi2 道、山、川などがくねくねと続きている様
・披麻皴 pi1ma2cun1 山水画で山や岩の立体感を出すための技法である皴法(しゅんぽう)のひとつで、麻の葉に似ていることからこの名がある。
最も完成した芸術の境地に至るため、黄公望は苦心惨憺、心血を注ぎ、三四年を経て、82歳でこの作品を完成させた。原作は6枚の紙をつなげて絵巻物とし、高さ1尺余り(約30cm)、長さは約2丈(6.6m)。作品は春江一帯の初秋の景色を描いたものである。画面の上で、山並は起伏し、丘や谷は連綿と続き、くねくねと変化し、際限がない。樹木亭台、村台小橋、漁舟人物などが錯綜し、配置がおもしろく、極めて平淡、天真の趣がある。絵を見た鄒之麟は題辞の中でこう書いた。「筆端の変化が鼓舞し、右軍の蘭亭なり、聖なるかな、神なるかな!」黄公望は専ら山水画を得意とし、水墨が伸び広がり、墨が青々としてあか抜けており、気高く伸び伸びとした境地に達していて、董、巨一派の山水画を画壇の主流に持ち上げた。彼は湿筆、披麻皴の技法を得意とし、明清の画家に大いに尊敬され、現存する作品には、《富春山居図》、《溪山雨意図》、《快雪時晴図》、《九峰雪霽図》、《富春大岭図》、《九珠峰翠図》等がある。
神品伝世路 曲折復坎坷
神品の世に伝わる道は、紆余曲折、不遇であった
■ 《富春山居図》問世后,被人視為神品。此画是黄公望為謝無用道士所作,画卷上黄氏題跋云:“至正七年(1347年),僕帰富春山居,無用師皆往。暇日于南楼援筆写成此卷。興之所至,不覚亹亹布置如許;逐漸填答,閲三四載,未得完備。蓋因留在山中而雲遊在外故尔。今特取回行李中,早晩得暇,当為著筆。無用過慮,有巧取豪奪者,俾先識卷末,庶使知其成就之難也。……”由此可知這幅長卷創作之艱難曲折。
・巧取豪奪 qiao3qu3hao2duo4 (金品や権利を)だまし取ったり力ずくで奪ったりする
《富春山居図》が発表されると、人々は神品と見做した。この絵は黄公望が謝無用道士のために作ったもので、画卷の黄氏の題辞に言う。「至正七年(1347年)、私は富春山居に帰り、無用師も同行した。暇な時に南楼で筆の援けでこの巻物を書いた。興味の至るところであるが、知らず知らず時間が経ち、このような按配である。次第に答えを埋め、見ること三四年、未だ完成しない。蓋し山中にいたり外を雲遊したりしているためであろうか。今、行李の中から取り出し、朝晩暇をみて、筆を走らせている。無用はたいへん心配して、だまし取ったり力ずくで奪う者がいるだろうから、先に卷末でその成就するの難しきを知らしめるようにと言う。」ここから、この巻物の創作の艱難辛苦、紆余曲折が窺える。
■ 《富春山居図》一度為無用和尚擁有。明成化年間,由書画家、“呉門派”始祖沈周高価購得。以后,此卷几度易手,明万暦二十四年(1596年),為董其昌購得。崇禎九年(1636年),董其昌将画押給了宜興人呉正志。清初,呉正志伝子呉之矩,之矩伝子洪裕。呉洪裕在家中特建“富春軒”藏之,愛若至宝,順治七年(1650年)臨終之際,竟嘱人将此図投入火中,焚以為殉。眼看墨宝化作青煙,其姪呉子文乗其不備,以別画易之,迅速従火中搶出《富春山居図》。遺憾的是,画已焼成両半。前段較小,称“剩山図”;后段画幅較長,称“無用師卷”。此后,較長的后半部為呉子文收藏。
《富春山居図》は一度は無用和尚の所有となった。明成化年間、書画家で、“呉門派”の始祖、沈周が高価で購入した。その後、この巻物は何度か持ち主が代わり、明万暦二十四年(1596年)、董其昌が購入した。崇禎九年(1636年)、董其昌は絵を質の糧に宜興人呉正志に渡した。清初、呉正志は子の呉之矩に伝え、之矩は子の洪裕に伝えた。呉洪裕は家に“富春軒”を建てこれを蔵し、至宝のように愛した。順治七年(1650年)臨終に際し、この絵を火に投じ、燃やすことで自分に殉じさせるようにと言いつけた。水墨の宝が青い煙に化していくのを見て、その姪の呉子文は皆が目を離した隙に、これを別の絵とすり替え、急いで火の中から《富春山居図》を取り出した。残念なことに、絵は既に焼けてふたつの部分になっていた。前半はやや小さく、“剩山図”と呼ばれる。後半の絵は比較的長く、“無用師卷”と呼ばれる。その後、比較的長い後半部分は呉子文の收藏するところとなった。
■ 后段《富春山居図》頗多磨難。順治十四年,即焼図后的第八年,画家程正揆在泰興季寓庸処見過此画,可見其時《富春山居図》已易主。程正揆臨倣一本,于題跋中予以説明。后高士奇、王鴻緒、安岐等一度成為《富春山居図》的擁有者。乾隆十年(1745年),乾隆皇帝広征名画,此卷被征入宮。1925年,北平故宮博物院成立,此図入藏其中。1931年,日本侵占東三省,北平岌岌可危,為免不測,包括《富春山居図》在内的近百万件故宮文物被運往南方,1948年輾転到了台湾,后入藏台北故宮博物院。
・岌岌可危 ji2ji2ke3wei1 危険きわまりない
後段の《富春山居図》は多くの困難に遭った。順治十四年、すなわち絵が焼かれてから八年後、画家の程正揆は泰興に寄寓していた時、この絵を見かけたが、このことからその時《富春山居図》は既に持ち主が代わっていたことがわかる。程正揆はこの絵を模写し、その題辞でそのことを説明している。後に高士奇、王鴻緒、安岐等が《富春山居図》の所有者となった。乾隆十年(1745年)、乾隆皇帝は広く名画を徴収し、この絵も徴収され、宮廷へ入った。1925年、北平故宮博物院が成立し、この絵もそこに収められた。1931年、日本が東部三省を侵略占領した際、北平は危険きわまりない情勢となり、不測の事態から免れるよう、《富春山居図》を含む百万件近い故宮文物が南方に運ばれ、1948年に移され、後に台北故宮博物院に収められた。
■ 重新装裱后的“剩山図”卷,在康熙八年(1669年)為王廷賓所得,后来就湮没無聞輾転于諸收藏家之手。至抗日戦争時期,為近代画家呉湖帆所得。在浙江博物館供職的沙孟海得此消息,心想,国宝在民間輾転流伝,保存不易,只有国家收藏,才是万全之策。于是数次去上海与呉湖帆商洽,暁以大義。呉得此名画,本無意転譲。但沙先生并不灰心,仍不断往来沪杭之間,又請出銭鏡塘、謝稚柳等名家従中周旋。呉湖帆被沙老至誠之心感動,終于同意割愛。1956年,経歴了300余年的曲折伝承,“剩山図”卷入藏浙江省博物館。
・湮没無聞 yan1mo4wu2wen2 (人材などが)世に知られずうずもれる
・至誠之心 zhi4cheng2zhi1xin1 あふれる真心
新たに表装し直した“剩山図”は康熙八年(1669年)王廷賓の所有となり、その後世に知られずうずもれ、何人かの収集家の手を転々とした。抗日戦争時期になり、近代画家の呉湖帆の所有となった。浙江博物館で職務についた沙孟海はこの知らせを聞き、心の中で、国宝が民間で人手を転々とするのは、保存が容易でなく、国家の収蔵こそ、万全の策だと思った。そして何回も上海へ行き、呉湖帆と交渉し、大義を知らしめようとした。呉はこの名画を得て、元々譲渡するつもりはなかった。しかし沙先生が気落ちすることなく、絶えず上海と杭州を行き来し、また銭鏡塘、謝稚柳等の著名人に周旋を依頼した。呉湖帆は
沙孟海のあふれる真心に感動し、遂に割愛に同意した。1956年、300余年の紆余曲折の伝承を経て、“剩山図”は浙江省博物館に収められた。
明清倣臨本 迷倒乾隆爺
明清の模写 乾隆老を惑わす
■ 明清画家中多人倣臨過《富春山居図》,有籍可査的就有沈周臨本(現藏北京故宮博物院)、周穎侯臨本、向摹本、鄒之麟拓本、沈摹本、程正揆臨本、王翬摹本、呉歴臨本、王宸摹本、貫潜倣本等。這些臨本,除沈周的背臨本外,向、鄒之麟所倣的可能是《富春山居図》全景,其余多倣臨残卷。臨摹本各具特色,如沈周評価自己的摹本為“物遠失真”,不很像原作;向摹本則“略得大意”等。臨摹本中確実有摹得好的倣品。
明清の画家には《富春山居図》を模写した者が多くおり、書籍から調べられるものは、沈周の模写(現・北京故宮博物院蔵)、周穎侯の模写、向の模写、鄒之麟の拓本、沈の模写、程正揆の模写、王翬の模写、呉歴の模写、王宸の模写、貫潜の模写などがある。これらの模写は、沈周の模写を除き、向、鄒之麟の模写は《富春山居図》の全景である可能性があり、その他は残巻の模写である。模写はそれぞれ特色があり、例えば沈周は自分の模写を「本物とは遠くかけ離れている」と評価し、原作とは異なっている。向の模写は「おおよそ大意を得たり」としている。模写の中にも確かに優れた模写がある。
■ 1745年,《富春山居図》被征入宮。乾隆皇帝以《富春山居図》帰入内府上等品,“乾隆御覧之宝”、“石渠宝笈”、“乾隆鑑賞”、“三希堂鑑璽”、“宜子孫”五印,并題詩一首。此后50余年,乾隆皇帝不時将画卷取出欣賞,且時常在画上留詩題句,加蓋鑑賞印,長達6米的巨幅画卷空白処,几乎填満了乾隆的御書、藏印,可見乾隆対此画的珍愛。就在此図征入内府的第二年,即1746年,地方官又呈進一幅《富春山居図》!両図一模一様,難辨真偽。乾隆皇帝経多方対比論証后,認定被他題詩、印的前一幅是黄公望真跡,后者是贋品。由于后者近乎完美无瑕,簡直到了“以假乱真”的程度,乾隆同時收入内府收藏。両幅《富春山居図》皆著録于《石渠宝笈》。
・以假乱真 yi3jia3luan4zhen1 本物の中に偽物を混ぜる。偽物を本物と言って人をだます。
1745年、《富春山居図》は徴収され宮廷に入った。乾隆皇帝は《富春山居図》を内府上等品とし、“乾隆御覧之宝”、“石渠宝笈”、“乾隆鑑賞”、“三希堂鑑璽”、“宜子孫”の五印を捺印し、題詩一首を著した。その後50年余り、乾隆皇帝は時々画卷を取り出して鑑賞し、時には絵の上に詩や文を題し、更に鑑賞印を押し、長さ6mに達する大きな画卷の空白部分は、ほとんど乾隆の御書、蔵書印で埋め尽くされ、乾隆のこの絵に対する愛着が見て取れる。この絵が内府に徴収された二年目、すなわち1746年、地方官がまた一幅の《富春山居図》を献上した。ふたつの絵は瓜二つで、真偽の判断がつかなかった。乾隆皇帝は多方面から対比論証の後、彼が題詩を著し、印を押した前者こそ黄公望の真跡であり、後者は贋作であると認定した。後者は完ぺきで欠点がなく、「偽物を本物と言って人をだます」域に達しており、乾隆はこれも同時に内府に収め、収蔵した。二枚の《富春山居図》は何れも《石渠宝笈》に記録されている。
■ 清亡后,清宮所藏両幅《富春山居図》的真偽問題被提了出来。持不同意見者各執己見,争論不休。近年,有人以有力的証据推翻了乾隆皇帝的判断,認定1746年入宮的《富春山居図》是黄公望原作,被乾隆皇帝定為真跡的“石渠”本,応該是清順治庚寅到丁酉之間的摹作。曠日持久的争辧有了結論。而今,這両卷《富春山居図》都存放在台北故宮博物院,不論是真、是摹,都已成了画苑奇葩,這也為《富春山居図》増添了伝奇色彩。
・曠日持久 kuang4ri4chi2jiu3 時間を無駄に費やして事を長引かせること
・奇葩 qi2pa1 珍しい花
清滅亡後、清宮所蔵の二枚の《富春山居図》の真偽問題が提出された。異なる意見を持つ者が各々自分の見解を主張し、論争は止むことがなかった。近年、ある人が有力な証拠により乾隆皇帝の判断を覆し、1746年に宮廷に入った《富春山居図》が黄公望原作であると認定し、乾隆皇帝が真跡と定めたものは“石渠”本とされ、清順治庚寅から丁酉の間の模写であるに違いないとした。いたずらに時間を費やした論争に結論を出した。現在、これら二巻の《富春山居図》は何れも台北の故宮博物院に置かれており、真跡であれ模写であれ、もはや画苑の奇花となっており、このことも《富春山居図》に伝奇的色彩を加えている。
両岸斉努力 神品定合璧
両岸がいっしょに努力し、神品を一つに戻そう
■ “画是如此,人何以堪。”温家宝総理深情講起元代黄公望名作《富春山居図》“分居”大陸、台湾両地的故事,言辞懇切,令人動容。総理提到的“杭州博物館”,就是浙江省博物館;浙江富陽正是《富春山居図》的故郷,作品里描絵的也正是富春江岸的秀麗風光。多年来両岸画家和有識之士多方努力,希望《富春山居図》早日“破鏡重圓”、合璧重輝。今年恰逢《富春山居図》問世660周年。争取《富春山居図》合璧展出,更是浙江各界努力多年的心願。
・言辞懇切 yan2ci2ken3qie4 言葉づかいが丁寧である
・破鏡重圓 po4jing4chong2yuan2 離散または離縁した夫婦が再びいっしょになる。元のさやに収まる
「絵がこのようであるのに、人はこのような悲しみをどうして我慢できるだろう。」温家宝首相は元代黄公望の名作《富春山居図》が大陸、台湾の両地に「別居」している話を感慨深く話したところ、言葉づかいが丁寧であり、人々を感動させた。総理が言った“杭州博物館”とは浙江省博物館のことで、浙江富陽は正に《富春山居図》の故郷であり、作品の中で描写されているのは富春江岸の美しい風景である。何年にもわたり両岸の画家、有識者が多方面から努力しており、《富春山居図》が早期に「元のさやに収まり」、再び一つになって輝きだすことを希望する。今年はちょうど《富春山居図》が世に出て660周年に当たっている。この期に《富春山居図》を一つに並べて展示することは、浙江各界が何年も努力してきた心からの願いである。
■ 令人高興的是,浙江省博物館与台北故宮博物院已就《富春山居図》合璧展出有了実質性接触。台北故宮博物院已明確発出邀請,希望“剩山図”卷能够到台湾,与“無用師”卷合璧展出。浙江省博物館希望,《富春山居図》在台湾合璧展出后,能够在祖国大陸完整展出。台北方面為此還需付出努力。一張660年的伝世名画,一件承載着太多悲歓離合的伝奇国宝,跨越海峡,合璧重圓,該何等的盛事!両岸同胞正熱切地期待着。
・悲歓離合 bei1huan1li2he2 別れ、めぐり会いなど世の中の喜びや悲しみ、人生の常ならぬ移り変わり。変転不沈。
喜ばしいことに、浙江省博物館と台北故宮博物院は既に《富春山居図》の合同展示について実質的な接触を行っている。台北故宮博物院は明確に招請を出し、“剩山図”巻が台湾に来て“無用師”卷と合同展示を行えることを希望している。浙江省博物館は、《富春山居図》が台湾で合同展示を行った後、祖国大陸で完全な展示を行えることを希望している。台北方はこのため、尚努力する必要がある。一枚の660年伝えられてきた名画、あまりに多くの悲喜・離合を繰り返してきた伝説の国宝が、海峡を越え、割れた玉がひとつに合わさることは、なんとすばらしいことであろうか!両岸の同胞は心から期待している。
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以前、NHKの《故宮》という番組で、北京、台北の二つの故宮博物院に分かれて収蔵されている文物を紹介していたが、実際の文物の交流展示が進みそうだ。
今年は、従来は台湾から大陸への一方通行の経済投資であったものが、大陸企業の台湾投資もスタートする。既に観光目的で大陸から台湾への入国も活発化している。
アメリカから武器購入といった、きな臭い話もあるが、双方の関係はより発展し、新たな一歩を踏み出しそうである。
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