小笠原釣行記 1972年11月
夕暮れ迫る神戸港中央突堤に白い船体を横たえた日本丸(3000トン)に乗船した時は、これからまた小笠原へ釣りにいけるのだ!という思いだけで心がときめき胸がわくわくしてくる。過去に3度も釣行しているというのにこの実感はいつも新鮮である。
11PM大阪支部長の中井戸さんに服部名人、名古屋の大物師の井ノ口氏、関東の大竹名人、そしてメンバーに11PMの撮影陣も乗り込んで、ドラの音とともに一路小笠原へと出港した。
小雨煙る母島沖に停泊したのは神戸を出て40数時間たった早朝であったが、迎えにくるはずの小笠原漁業組合の神徳丸が、なかなか姿を現さない。結局、渡船開始まで3時間ほど待たされることになった。
この小笠原が米国より返還されて墓参りの船がこの地に来るようになり、釣人もその船に便乗して多くの釣人が来れるようになった。
いつものことながらここの段取りは悪い。釣人は少しでも早く釣りに行きたいが、墓参りのメンバーはノンビリと島を眺めている。
磯上がりのメンバーは船中でグループ分けをしてあって、私は京都、姫路、神戸のメンバーと5人一組となって、小雨の中を登磯した。そして各人が思い思いのポイントへ分かれて仕掛け作りにとりかかった。
私の仕掛けは、竿がオリムピックの大鵬、リールはペンの68に道糸はトトの60号、
ハリスはワイヤー33番の7本よりで、ハリはネムリの32号と、ある程度の魚には対抗できるであろう仕掛けである。
エサは大阪より持参したイカの1匹刺しである。第一投、底に着くのを待ちかねたように竿が一気に舞い込んだ。
先ずは一番乗りと、両隣に声をかけ、竿を起こしポンピングの要領で巻き上げることができた。第一号は南方に多いアカダイの70センチ級であった。
この地、特に多いのはアカダイ、バラハタ、タマミ、クエの類で、その他にはヒラアジやカンパチの類が上物の仕掛けに食いついてくる。
また、一番イヤな獲物、それはサメ類であるが、これは南方での税金と思わないと仕方がない。
この日本丸に始めて乗って、東京の初芝桟橋から出港し一昼夜半かかって小笠原が見えたときは、全員がデッキに出て歓声を上げた。
長い船旅の初体験、伊豆大島を過ぎ鳥島を過ぎると、太平洋の大海原に船影一つ見えず、ただ波だけが遙か彼方まであるだけ。甲板に出てぼんやりとしている人々の目に、黒々としたものが海面に次第に姿を現したときには、「なんだ?、なんだ?」と目が点になった。
最初、クジラかと思ったのだが、姿を現し潜水艦だと分かった。映画のシーンなどではよく見るのだが実際に見るのは初めてで、感動もので長い船旅の一時の気休めにもなった。
この話を友人仲間にすると、何で飛行機で行かんのやと言う。これだけの島だから、飛行機があっても当たり前と思うのだが、戦争のためにつぶれて使用できなくなってるらしい。
飛行場ができたら一番に飛んで行きたい人はワンサといるだろう。でも今の小笠原を残したいなら、緊急時のヘリポートぐらいがよいでしょう。そして硫黄島から飛んでくれば良いのでは。
この狭い日本の最後の楽園と言われる小笠原に飛行機が着くようになれば、すぐにどこにでもある、荒れ果てて俗化した観光地となってしまうでしょう。
この小笠原での磯釣りは、日本丸から小笠原漁業組合から迎えに来た遠洋の漁船に一度乗り換えて各磯の近くまで行き、そこでまた小船を下ろして磯につけてもらうのだが、磯に小船が当たるのを避けるために磯の手前から飛んでくれと言われる。波気があると中々飛べないので、磯渡しにとても時間がかかる。
魚の豊富さは日ごろ行く磯の比ではない。磯に上がり、仕掛けができた人から投入、そして入れた人から順に竿を抱えて助けてと応援を呼んでいる。
この地で今まで磯釣りなどしたことがないので、魚は多くいる上にすれていないので、エサにすぐ飛びついてくる。あるときなど磯の窪みに沢山いるイイダコを捕まえてエサにして良く釣れた。
今思えば残念なのは、この当時、クエの類ばかりみんなが狙っていてイシダイを一度も狙わなかったが悔やまれる。
このように楽しい釣りの天国ではあるが、一荒れするとたいへんなところでもある。私自身、一度など、磯からの撤収時に漁船に収容され本船まで帰る途中、船酔いのために胴の間にうつぶせになったまま、頭の上からザンブ、ザンブと波をかぶって死んだようになったまま身動きもできないような目に遭った。
また、東京への帰路、台湾坊主と言われる豆台風が発生して、大波の中、木の葉のように船が揺れ、20数時間本当に飲まず食わずでベッドにしがみついて帰ってきたこともあった。
それほどの目にあってもまた釣りに行きたいと思うのかと友は言うが、私自身、船酔いをすると二度と行くまいと思うのだが、二日もすれば釣れた思い出だけでまた釣りに行きたくなるのである。
我が家の玄関に飾ってあるクエの魚拓を見るたびに、良き日の思い出が蘇る。
この小笠原の思い出は、私が大阪府釣連盟の会長をしていた当時に顧問をして頂いた故中井戸嘉彦氏でした。世界をまたにかけ、服部善郎氏と一生を釣り歩かれた、温厚で多くの人に慕われた方でした。
夕暮れ迫る神戸港中央突堤に白い船体を横たえた日本丸(3000トン)に乗船した時は、これからまた小笠原へ釣りにいけるのだ!という思いだけで心がときめき胸がわくわくしてくる。過去に3度も釣行しているというのにこの実感はいつも新鮮である。
11PM大阪支部長の中井戸さんに服部名人、名古屋の大物師の井ノ口氏、関東の大竹名人、そしてメンバーに11PMの撮影陣も乗り込んで、ドラの音とともに一路小笠原へと出港した。
小雨煙る母島沖に停泊したのは神戸を出て40数時間たった早朝であったが、迎えにくるはずの小笠原漁業組合の神徳丸が、なかなか姿を現さない。結局、渡船開始まで3時間ほど待たされることになった。
この小笠原が米国より返還されて墓参りの船がこの地に来るようになり、釣人もその船に便乗して多くの釣人が来れるようになった。
いつものことながらここの段取りは悪い。釣人は少しでも早く釣りに行きたいが、墓参りのメンバーはノンビリと島を眺めている。
磯上がりのメンバーは船中でグループ分けをしてあって、私は京都、姫路、神戸のメンバーと5人一組となって、小雨の中を登磯した。そして各人が思い思いのポイントへ分かれて仕掛け作りにとりかかった。
私の仕掛けは、竿がオリムピックの大鵬、リールはペンの68に道糸はトトの60号、
ハリスはワイヤー33番の7本よりで、ハリはネムリの32号と、ある程度の魚には対抗できるであろう仕掛けである。
エサは大阪より持参したイカの1匹刺しである。第一投、底に着くのを待ちかねたように竿が一気に舞い込んだ。
先ずは一番乗りと、両隣に声をかけ、竿を起こしポンピングの要領で巻き上げることができた。第一号は南方に多いアカダイの70センチ級であった。
この地、特に多いのはアカダイ、バラハタ、タマミ、クエの類で、その他にはヒラアジやカンパチの類が上物の仕掛けに食いついてくる。
また、一番イヤな獲物、それはサメ類であるが、これは南方での税金と思わないと仕方がない。
この日本丸に始めて乗って、東京の初芝桟橋から出港し一昼夜半かかって小笠原が見えたときは、全員がデッキに出て歓声を上げた。
長い船旅の初体験、伊豆大島を過ぎ鳥島を過ぎると、太平洋の大海原に船影一つ見えず、ただ波だけが遙か彼方まであるだけ。甲板に出てぼんやりとしている人々の目に、黒々としたものが海面に次第に姿を現したときには、「なんだ?、なんだ?」と目が点になった。
最初、クジラかと思ったのだが、姿を現し潜水艦だと分かった。映画のシーンなどではよく見るのだが実際に見るのは初めてで、感動もので長い船旅の一時の気休めにもなった。
この話を友人仲間にすると、何で飛行機で行かんのやと言う。これだけの島だから、飛行機があっても当たり前と思うのだが、戦争のためにつぶれて使用できなくなってるらしい。
飛行場ができたら一番に飛んで行きたい人はワンサといるだろう。でも今の小笠原を残したいなら、緊急時のヘリポートぐらいがよいでしょう。そして硫黄島から飛んでくれば良いのでは。
この狭い日本の最後の楽園と言われる小笠原に飛行機が着くようになれば、すぐにどこにでもある、荒れ果てて俗化した観光地となってしまうでしょう。
この小笠原での磯釣りは、日本丸から小笠原漁業組合から迎えに来た遠洋の漁船に一度乗り換えて各磯の近くまで行き、そこでまた小船を下ろして磯につけてもらうのだが、磯に小船が当たるのを避けるために磯の手前から飛んでくれと言われる。波気があると中々飛べないので、磯渡しにとても時間がかかる。
魚の豊富さは日ごろ行く磯の比ではない。磯に上がり、仕掛けができた人から投入、そして入れた人から順に竿を抱えて助けてと応援を呼んでいる。
この地で今まで磯釣りなどしたことがないので、魚は多くいる上にすれていないので、エサにすぐ飛びついてくる。あるときなど磯の窪みに沢山いるイイダコを捕まえてエサにして良く釣れた。
今思えば残念なのは、この当時、クエの類ばかりみんなが狙っていてイシダイを一度も狙わなかったが悔やまれる。
このように楽しい釣りの天国ではあるが、一荒れするとたいへんなところでもある。私自身、一度など、磯からの撤収時に漁船に収容され本船まで帰る途中、船酔いのために胴の間にうつぶせになったまま、頭の上からザンブ、ザンブと波をかぶって死んだようになったまま身動きもできないような目に遭った。
また、東京への帰路、台湾坊主と言われる豆台風が発生して、大波の中、木の葉のように船が揺れ、20数時間本当に飲まず食わずでベッドにしがみついて帰ってきたこともあった。
それほどの目にあってもまた釣りに行きたいと思うのかと友は言うが、私自身、船酔いをすると二度と行くまいと思うのだが、二日もすれば釣れた思い出だけでまた釣りに行きたくなるのである。
我が家の玄関に飾ってあるクエの魚拓を見るたびに、良き日の思い出が蘇る。
この小笠原の思い出は、私が大阪府釣連盟の会長をしていた当時に顧問をして頂いた故中井戸嘉彦氏でした。世界をまたにかけ、服部善郎氏と一生を釣り歩かれた、温厚で多くの人に慕われた方でした。