今日の風林火山、見応え有りましたよね。
晴信の為なら、人間の情まで消し去る事が出来る勘助。
『勘助は人ではない』と同僚にまで言われる勘助。
『うぬは心が痛まぬのか』と言われた勘助の一言、
『戦とはさようなものに御座います』と言い切る勘助。
その勘助が迷うのである
由布姫の『それでも生きたい』と言う断末魔の言葉に
さすがの勘助も心を動かされるのです。
結果的に、由布姫が晴信の跡取りを生むのだから
世の中分からない。後の、諏訪四郎勝頼である。
それにしてもこの由布姫、僕はどうも織田信長の妹、
お市の方の娘の茶々とだぶってしまうです。
後に豊臣秀吉の側室になる淀殿なのです。
美女で気が強く、後で敵の側室になって跡取りまで生む点。
全くうりふたつではないか。そう思いませんか??
それはそうと、信玄の弟の武田信繁ですが、実は同名が
二人いるのです!!二人の信繁です。
二人の信繁と言っても、信玄の様に影武者がいた訳では
ありません。
もう一人の信繁とは、真田昌幸の息子真田幸村のことです。
幸村の本名も信繁と言うのです。勿論、偶然同じ名前だった
わけではありません
武田信繁の最後の合戦となった第四回目の川中島合戦で、
勘助が信玄に提案した「きつつきの戦法」に信繁は反対します。
この戦法が謙信に読まれた場合のリスクが大きいという
のがその理由です。
しかし、信玄は勘助の「きつつきの戦法」を採用するのです。
結果、信繁が思った通り上杉謙信に見透かされてしまいます。
武田軍は不利な状況に陥りますが、信繁は動じる事無く
信玄が選択した「きつつきの戦法」が過ちでは無かった事を
証明するために、最前衛で上杉軍と激闘を演じるのです。
何と兄思いの弟ではないか

上杉軍の猛攻の為、何度も窮地に立たされるのですが
これを知った信玄は、自らの部隊の備えを薄くしてでも、
助けようとするのですが間に合いませんでした。
信玄も又信繁に対する兄弟愛が深かったと僕は思っています。
殺伐とした戦国の世で、信廉を加えたこの三兄弟の兄弟愛は
稀有な例だと思います
信繁は結局上杉の猛攻の前に戦死するのです。
ちなみに、この時山本勘助も討ち死にします。
信玄にとって両腕を失ったといっても過言ではありません。
合戦の後、これを伝え聞いた北条氏康、織田信長、そして
この時の敵方の上杉謙信までもがその死を惜しんだといわれてます。
信繁が長生きしたら、武田家はあんなに早く滅亡することは
無かったと僕は思っています。歴史に、もしもは有りませんが。
そして、この合戦で初陣だったのが、以前から信繁に心酔
していた真田昌幸なのです。
真田幸隆(風林火山に出演中)の息子です。
昌幸は次男に「信繁」と名付けます。これが「真田幸村」その人です。
後に、昌幸の長男の信之(幸村の兄)は徳川幕府で大名に取り立てられる
のですが、武田信繁の為にお寺(典厩寺)を建立するのです。
意外と関が原の戦いで亡くなった弟の信繁(幸村)に対する
強い思いも有ったのかも知れませんね。
異説ですが、討ち死にしたのは幸村の影武者で家臣の穴山小助だった??
幸村は徳川方をあざむき、秀頼を守って大坂を密かに脱出し、薩摩で
秀頼と共に天寿を全うしたという話もあります。
さて、真相の程は??
晴信の為なら、人間の情まで消し去る事が出来る勘助。
『勘助は人ではない』と同僚にまで言われる勘助。
『うぬは心が痛まぬのか』と言われた勘助の一言、
『戦とはさようなものに御座います』と言い切る勘助。
その勘助が迷うのである

由布姫の『それでも生きたい』と言う断末魔の言葉に
さすがの勘助も心を動かされるのです。
結果的に、由布姫が晴信の跡取りを生むのだから
世の中分からない。後の、諏訪四郎勝頼である。
それにしてもこの由布姫、僕はどうも織田信長の妹、
お市の方の娘の茶々とだぶってしまうです。
後に豊臣秀吉の側室になる淀殿なのです。
美女で気が強く、後で敵の側室になって跡取りまで生む点。
全くうりふたつではないか。そう思いませんか??
それはそうと、信玄の弟の武田信繁ですが、実は同名が
二人いるのです!!二人の信繁です。
二人の信繁と言っても、信玄の様に影武者がいた訳では
ありません。
もう一人の信繁とは、真田昌幸の息子真田幸村のことです。
幸村の本名も信繁と言うのです。勿論、偶然同じ名前だった
わけではありません

武田信繁の最後の合戦となった第四回目の川中島合戦で、
勘助が信玄に提案した「きつつきの戦法」に信繁は反対します。
この戦法が謙信に読まれた場合のリスクが大きいという
のがその理由です。
しかし、信玄は勘助の「きつつきの戦法」を採用するのです。
結果、信繁が思った通り上杉謙信に見透かされてしまいます。
武田軍は不利な状況に陥りますが、信繁は動じる事無く
信玄が選択した「きつつきの戦法」が過ちでは無かった事を
証明するために、最前衛で上杉軍と激闘を演じるのです。
何と兄思いの弟ではないか


上杉軍の猛攻の為、何度も窮地に立たされるのですが
これを知った信玄は、自らの部隊の備えを薄くしてでも、
助けようとするのですが間に合いませんでした。
信玄も又信繁に対する兄弟愛が深かったと僕は思っています。
殺伐とした戦国の世で、信廉を加えたこの三兄弟の兄弟愛は
稀有な例だと思います

信繁は結局上杉の猛攻の前に戦死するのです。
ちなみに、この時山本勘助も討ち死にします。
信玄にとって両腕を失ったといっても過言ではありません。
合戦の後、これを伝え聞いた北条氏康、織田信長、そして
この時の敵方の上杉謙信までもがその死を惜しんだといわれてます。
信繁が長生きしたら、武田家はあんなに早く滅亡することは
無かったと僕は思っています。歴史に、もしもは有りませんが。
そして、この合戦で初陣だったのが、以前から信繁に心酔
していた真田昌幸なのです。
真田幸隆(風林火山に出演中)の息子です。
昌幸は次男に「信繁」と名付けます。これが「真田幸村」その人です。
後に、昌幸の長男の信之(幸村の兄)は徳川幕府で大名に取り立てられる
のですが、武田信繁の為にお寺(典厩寺)を建立するのです。
意外と関が原の戦いで亡くなった弟の信繁(幸村)に対する
強い思いも有ったのかも知れませんね。
異説ですが、討ち死にしたのは幸村の影武者で家臣の穴山小助だった??
幸村は徳川方をあざむき、秀頼を守って大坂を密かに脱出し、薩摩で
秀頼と共に天寿を全うしたという話もあります。
さて、真相の程は??