若いアインシュタインの光を追う思考実験 / 誰も知らない闇を進む恐ろしさ / 光のスピードと論理の愉楽
『宇宙創成(原題 BIG BANG)』 サイモン・シン 青木薫 訳
“ガリレオの相対性原理は、彼が成し遂げたもっとも偉大な発見のひとつである。なぜならこの発見のおかげで、懐疑的な天文学者たちでさえも、地球はたしかに太陽のまわりを回っているのだと納得するようになったからだ。反コペルニクス主義の立場を取る批判者たちは、風がたえず吹きつけてきたり、大地が足下でぐいぐい動いたりするなどの地球の運動が感じられない以上、地球が太陽のまわりを回っているはずはないと論じていたのだった。しかしガリレオの相対性原理によれば、地球が宇宙空間を猛烈な速度で運動しているのが感じられないのは、大地から大気まであらゆるものが、われわれと同じ速度で空間を突き進んでいるからなのだ。動いている地球の環境は、静止している地球上でわれわれが経験するはずの環境と、実質的にはまったく同じなのである。
一般にガリレオの相対性理論は、自分がすばやく運動しているのか、ゆっくり運動しているのか、そもそも動いているのかどうかも区別できないと述べている。このことは、地球上に隔離されていても、列車の中で耳栓と目隠しをされていても、甲板の下にもぐり込んでいても、それ以外の方法で外の座標軸から切り離されていても等しく成り立つ。
アインシュタインは、マイケルソンとモーリーによってエーテルの存在が否定されたことを知らないまま、ガリレオの相対性原理を基礎としてエーテルが存在するかどうかを調べはじめた。もう少し具体的に言うと、彼は「思考実験」の中でガリレオの相対性を使ってみたのだ。思考実験とは、物理学者の頭の中だけで行われる完全に想像上の実験である。なぜ想像上なのかというと、多くの場合、現実の世界では実施できないプロセスが含まれているからだ。思考実験は純然たる理論上の構築物だが、現実の世界について深い理解をもたらしてくれることが多い。
アインシュタインは一八九六年、まだ十六歳のときに、ひとつの思考実験を行った。顔の前に手鏡を持ちながら、光と同じ速度で突き進んだらどうなるだろうと考えたのだ。とくに気がかりだったのは、鏡に映る自分の顔は見えるのだろうかという点だった。その当時のエーテル理論によれば、エーテルは宇宙全体に染み渡り、完全に静止して動かない物質のはずだった。そして光はエーテルを媒質として伝わると考えられていた。つまり光が秒速三十万キロメートルで進むのは、エーテルに対してだと考えられていたのである。アインシュタインの思考実験では、彼の身体(からだ)も、顔も、手に持った鏡も、すべては光の速度でエーテルの中を進んでいる。光はアインシュタインの顔を離れて、彼が手に持った鏡のほうに向かおうとするが、すべては光の速度で進んでいるため、光は彼の顔から離れられず、ましてや鏡にたどりつくことはできない。鏡にたどり着かなければ反射して戻れるはずもないから、アインシュタインは鏡に映る自分の顔を見られないことになる。
これは衝撃的な結論だった。というのもこの結論は、ガリレオの相対性原理と矛盾するからである。ガリレオの相対性原理によれば、速度が一定ならば、われわれは自分が大きな速度で動いているのか、小さな速度で動いているのか、逆向きに動いているのか、そもそも動いているのかどうかも判別することはできない。ところがアインシュタインの思考実験によれば、顔が鏡に映らなくなることから、自分が光の速度で動いていることはわかるはずなのだ。
神童アインシュタインは、宇宙はエーテルで満たされているものとして思考実験を行い、ガリレオの相対性原理と矛盾するおかしな結果を得た。そこでわれわれはもう一度、ガリレオの「甲板の下の船室」のシナリオを採用して、アインシュタインの思考実験をやり直してみよう。この場合、船が光の速度で進めば、鏡に映るはずの顔が見えなくなるから、船員は船が光の速度で進んでいることに気づくだろう。しかしガリレオは、船員は船が動いているかどうかを知ることはできないと断言したのだ。
どこかで修正が必要なのは明らかだった。ガリレオの相対性が間違っているか、あるいはアインシュタインの思考実験に根本的な欠陥があるかだ。結局アインシュタインは、この思考実験がおかしな結果になったのは、エーテルで満たされた宇宙を基礎としたせいであることに気がついた。彼はこのパラドックスを解消するために、次のように結論した。光はエーテルに対して一定の速度で進むのではなく、エーテルを媒体として伝わるのでもない。エーテルはそもそも存在しないのだ”
下のほうに「シナリオ」という言葉があるが、この文章の映像化は可能なのだろうか?
部分的なそれや、ここからインスピレーションを受けての映像はあり得るが、厳密には無理だろう。言葉の独擅場だ。
映像は背後に「言葉」をもっている。
では、映像は言葉に隷属しているのみなのであろうか?たしかにそのような映像は非常に多い。
しかしそれを越えようとする意思をもった映像があり、それが「映画」を観る意味であり、愉楽だ。
だが、そのような「映画」の背後にもやはり「言葉」がある。
「言葉」,「人間」,「映像」は、切り離しては存在できない。
2013.6.2 芝公園23号地 『6.2つながろうフクシマ!さようなら原発集会』 →IWJ
“我々は一つの民族の体験を客観的に結晶させたものとして言葉を重視する。”
『人間の学としての倫理学』 和辻哲郎
『宇宙創成(原題 BIG BANG)』 サイモン・シン 青木薫 訳
“ガリレオの相対性原理は、彼が成し遂げたもっとも偉大な発見のひとつである。なぜならこの発見のおかげで、懐疑的な天文学者たちでさえも、地球はたしかに太陽のまわりを回っているのだと納得するようになったからだ。反コペルニクス主義の立場を取る批判者たちは、風がたえず吹きつけてきたり、大地が足下でぐいぐい動いたりするなどの地球の運動が感じられない以上、地球が太陽のまわりを回っているはずはないと論じていたのだった。しかしガリレオの相対性原理によれば、地球が宇宙空間を猛烈な速度で運動しているのが感じられないのは、大地から大気まであらゆるものが、われわれと同じ速度で空間を突き進んでいるからなのだ。動いている地球の環境は、静止している地球上でわれわれが経験するはずの環境と、実質的にはまったく同じなのである。
一般にガリレオの相対性理論は、自分がすばやく運動しているのか、ゆっくり運動しているのか、そもそも動いているのかどうかも区別できないと述べている。このことは、地球上に隔離されていても、列車の中で耳栓と目隠しをされていても、甲板の下にもぐり込んでいても、それ以外の方法で外の座標軸から切り離されていても等しく成り立つ。
アインシュタインは、マイケルソンとモーリーによってエーテルの存在が否定されたことを知らないまま、ガリレオの相対性原理を基礎としてエーテルが存在するかどうかを調べはじめた。もう少し具体的に言うと、彼は「思考実験」の中でガリレオの相対性を使ってみたのだ。思考実験とは、物理学者の頭の中だけで行われる完全に想像上の実験である。なぜ想像上なのかというと、多くの場合、現実の世界では実施できないプロセスが含まれているからだ。思考実験は純然たる理論上の構築物だが、現実の世界について深い理解をもたらしてくれることが多い。
アインシュタインは一八九六年、まだ十六歳のときに、ひとつの思考実験を行った。顔の前に手鏡を持ちながら、光と同じ速度で突き進んだらどうなるだろうと考えたのだ。とくに気がかりだったのは、鏡に映る自分の顔は見えるのだろうかという点だった。その当時のエーテル理論によれば、エーテルは宇宙全体に染み渡り、完全に静止して動かない物質のはずだった。そして光はエーテルを媒質として伝わると考えられていた。つまり光が秒速三十万キロメートルで進むのは、エーテルに対してだと考えられていたのである。アインシュタインの思考実験では、彼の身体(からだ)も、顔も、手に持った鏡も、すべては光の速度でエーテルの中を進んでいる。光はアインシュタインの顔を離れて、彼が手に持った鏡のほうに向かおうとするが、すべては光の速度で進んでいるため、光は彼の顔から離れられず、ましてや鏡にたどりつくことはできない。鏡にたどり着かなければ反射して戻れるはずもないから、アインシュタインは鏡に映る自分の顔を見られないことになる。
これは衝撃的な結論だった。というのもこの結論は、ガリレオの相対性原理と矛盾するからである。ガリレオの相対性原理によれば、速度が一定ならば、われわれは自分が大きな速度で動いているのか、小さな速度で動いているのか、逆向きに動いているのか、そもそも動いているのかどうかも判別することはできない。ところがアインシュタインの思考実験によれば、顔が鏡に映らなくなることから、自分が光の速度で動いていることはわかるはずなのだ。
神童アインシュタインは、宇宙はエーテルで満たされているものとして思考実験を行い、ガリレオの相対性原理と矛盾するおかしな結果を得た。そこでわれわれはもう一度、ガリレオの「甲板の下の船室」のシナリオを採用して、アインシュタインの思考実験をやり直してみよう。この場合、船が光の速度で進めば、鏡に映るはずの顔が見えなくなるから、船員は船が光の速度で進んでいることに気づくだろう。しかしガリレオは、船員は船が動いているかどうかを知ることはできないと断言したのだ。
どこかで修正が必要なのは明らかだった。ガリレオの相対性が間違っているか、あるいはアインシュタインの思考実験に根本的な欠陥があるかだ。結局アインシュタインは、この思考実験がおかしな結果になったのは、エーテルで満たされた宇宙を基礎としたせいであることに気がついた。彼はこのパラドックスを解消するために、次のように結論した。光はエーテルに対して一定の速度で進むのではなく、エーテルを媒体として伝わるのでもない。エーテルはそもそも存在しないのだ”
下のほうに「シナリオ」という言葉があるが、この文章の映像化は可能なのだろうか?
部分的なそれや、ここからインスピレーションを受けての映像はあり得るが、厳密には無理だろう。言葉の独擅場だ。
映像は背後に「言葉」をもっている。
では、映像は言葉に隷属しているのみなのであろうか?たしかにそのような映像は非常に多い。
しかしそれを越えようとする意思をもった映像があり、それが「映画」を観る意味であり、愉楽だ。
だが、そのような「映画」の背後にもやはり「言葉」がある。
「言葉」,「人間」,「映像」は、切り離しては存在できない。
2013.6.2 芝公園23号地 『6.2つながろうフクシマ!さようなら原発集会』 →IWJ
“我々は一つの民族の体験を客観的に結晶させたものとして言葉を重視する。”
『人間の学としての倫理学』 和辻哲郎