ある切っ掛けがあって、昨年来話題になっている映画『君の名は。』を観た。映画館ではなく、「Google Play」を使い、短い睡眠も含み、二度中断しながらPCで観た。その夢のなかに、濃密な映画のイメージの奔流が変形して次々と押し寄せてくる、こんな経験をしたのは初めてだった。夢にイメージが地続きで直結してくるのだ。それほど、何気ないひとつひとつのシーンにも籠もる情熱が、観る人ひとりひとりの感情を直接射抜く、類い稀な映画だった。
先行する映画群へのオマージュもいくつか気づいたが、これは若い『君の名は。』ファンのための愉しみだろう。
論理的に考えると、何故恐ろしいほど美しい彗星の飛翔が、個人の心、または時間と同期するのかは判らない。けれども、映画は夢、そのふたつもまた地続きなのだ。
“めぐりあはむのちの世までの形見かな 鳥も今はの山のはの月”
“遠ざかる道のそなたを思ひやれば 涙河をやせきとゞむらむ”
“かきつくるあとに光のかゝやけば 暗き道にも闇は晴るらむ”
―『明恵上人歌集』
先行する映画群へのオマージュもいくつか気づいたが、これは若い『君の名は。』ファンのための愉しみだろう。
論理的に考えると、何故恐ろしいほど美しい彗星の飛翔が、個人の心、または時間と同期するのかは判らない。けれども、映画は夢、そのふたつもまた地続きなのだ。
“めぐりあはむのちの世までの形見かな 鳥も今はの山のはの月”
“遠ざかる道のそなたを思ひやれば 涙河をやせきとゞむらむ”
“かきつくるあとに光のかゝやけば 暗き道にも闇は晴るらむ”
―『明恵上人歌集』