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映画『東京家族』について

写経 18.「積分」(その10) 『好きになる数学入門 第6巻』 宇沢弘文

2013年06月20日 | 写経(笑)
3 変数を置き換える

 変数を置き換えて積分の計算をする


 例題1 つぎの積分を計算しなさい.



 解答



 例題2 つぎの積分を計算しなさい.



 解答









 逆三角関数について







 例題3 つぎの積分を計算しなさい.



 解答(1) 第2節の例題4の(1)に説明したのと同じですが, 重要な計算法ですのでくり返すことにします.







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映画 『東京家族』 (その27) 妻夫木聡

2013年06月11日 | 映画『東京家族』
 白田ナオミさんが、『東京家族』における妻夫木聡と、『珈琲時光』の浅野忠信の「ひげ」が、関連しているのではないかと、教えてくれた。

 
 「劇場プログラム」を見てみる。

















 そうかもしれないし、違うかもしれない。

 しかし、男の俳優の「分析」は、不思議と気分がのらない(笑)。

 いずれ、白田ナオミさんに書いてもらいたい。

 今日の記事は、ここまでである(笑)。



 

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映画 『東京家族』 (その26)  音楽(2)

2013年06月09日 | 映画『東京家族』
 音楽を学んだ人や、演奏する人たちと、機会があると話しの流れで、「12音のなかで、あなたが一番好きな音は何か?」と私は聞く。
 この質問は意外なようで、明確に音名を答える人はいなかった。しかしサンプル数が少なく、一般化はできないので、これからも調査を続けたい(笑)。
 そのなかで、「好きな音…、というより、音の関係性が重要だから…」という答えがあった。
 これは「平均律」の考え方である。


 A
 A♯=B♭
 B
 C
 C♯=D♭
 D
 D♯=E♭
 E
 F
 F♯=G♭
 G
 G♯=A♭

 
 これが12音である。
 それを、ドレミファ順に並べ替える。

 
 C
 C♯=D♭
 D
 D♯=E♭
 E
 F
 F♯=G♭
 G
 G♯=A♭
 A
 A♯=B♭
 B


 和名だとこうなる。


 ハ
 嬰ハ=変ニ
 ニ
 嬰ニ=変ホ
 ホ
 ヘ
 嬰ヘ=変ト
 ト
 嬰ト=変イ
 イ
 嬰イ=変ロ
 ロ

 音階には長音階と短音階があるから、12音それぞれの音を主音とすると、24種類できる。
 J.S.バッハ(1685-1750)が仕事をした頃、鍵盤楽器に「平均律」で調律をする考え方がだいたい完成した。そしてこの転調が自由自在にできる調律法は、直接現在につながっている。
 この24種類のすべてに、「プレリュード」と「フーガ」を書いた、理論と実践に記録が、全48曲の『平均律クラヴィーア曲集』である。『第2集』も作ったので、計96曲。
 バッハの曲は、弾く人が弾くと、精神が深いところまで安らいでいくのを感じることができる。


 ところで、現在、わたしたちがカラオケ店へ行くと、原曲の歌が自分の声域よりも高かったり低かったりする場合、機械の操作で簡単に半音ずつ上下できる便利な機能が付いている。これも「平均律」の実践である。しかしそうすると、原曲とは不思議に印象が違い、場合によっては間の抜けたような歌になる事もある。これは決して、各自の歌唱力のせいばかりではない。「調」には性格があり、ひいては「主音」にも性格があり、性格があるなら好き嫌いもあるだろう、というのが、冒頭の質問の意味である。
 しかし、論を急いではいけない。ピタゴラスから始めよう(笑)。


 ピタゴラス(前570頃)は、モノコルド(一弦琴)をはじき、「2つの音の振動数の比が単純であればあるほど音がよく調和することに目をつけ、モノコルドの弦を 2:1 に分割する作業を続けた。
 まず、開放弦(仮にドとしよう)をはじいた後で、弦を 2:1 に分け、長い方をはじくと、開放弦の5度上の音が出る(ソ)。次に、その長いほうをまた 2:1 に分けてはじくと、ソの5度上の音(レ)が出る。この作業を繰り返し、オクターブを高いほうに外れた音をオクターブ内に戻すと、ドレミファソラシの音階ができる。」

  『事典世界音楽の本』 徳丸吉彦・高橋悠治・北中正和・渡辺裕 編 (岩波書店)

 「さて、ピタゴラス音律の問題点は2つあって、ひとつは、半音が2種類できること、もうひとつは、音程によっては振動数に比が大きくなってあまりよい響きが得られないことである。」

  『同上』

 
 問題点の前者は、上の12音の表で、=で結んだ音は、歴史的にはイコールではなく、実に13世紀ぐらいまでは問題にならなかったので、ほうっておかれた。
 問題点の後者は、ピタゴラス直後からいくつかの改良が重ねられ、そのひとつの成果が、「純正律音階」だ。

 
 「純正律に貢献したとされる人物はアルキタス(紀元前4世紀ごろ)だが、彼は、ピタゴラス音律だと81/64という大きな比になってしまうドとミ(長3度)の振動数比を、近似値の5/4に読み替え、各音の振動数比が単純な整数比になるよう工夫した。純正律は、旋律面でも協和面でもきわめて美しい響きをもっているので、楽器の性能が許せばたいへん好ましい調律法であると言える。」

  『同上』


 私もこの「純正律」に調律されたピアノの音を聴いた事があるが、それはほんとうに、譬えようもない美しさだった。これに比べると、現代の「平均律」は、雑音騒音の類だと思えてしまう(笑)。まあ、それは言い過ぎであり、歴史には理由がある。その後幾多の問題を克服しながら、「中全音律」→「改良版中全音律」→「十二平均律」となる。しかし、高松晃子さんのこの記事の後半が、いまひとつ納得できないところがあったので、もう少し調べてみたい。
 ただ中世以前の西洋、そこで歌い、奏でられていた美しい響きの音、その想像に魅惑される。



 さあ、ここで「Confession」。私のいちばん好きな音は「B」、ドレミファソラシの「シ」である。


 「この曲(『平均律クラヴィーア曲集 第1巻 ロ短調のプレリュード』)、実に、まさに、完璧に、ロ短調的なのだ。その感じをどうコトバで言っていいかわからぬのだが、同じ調性の有名な曲を挙げてみればある程度お分かりいただけるかもしれない。 同じくバッハの《管弦楽組曲第2番》や《ロ短調ミサ》。シューベルト《未完成交響曲》。ショパン《ピアノ・ソナタ第3番》や《スケルツォ第1番》。リスト《ピアノ・ソナタ》。ブラームス《クラリネット五重奏曲》。チャイコフスキー《悲愴交響曲》。ドヴォルザーク《チェロ協奏曲》……。 何か共通の感性を想いませんか。 繊細さ、淡い哀しさ、艶やかだがひそやかなロマンティシズム……。僕だけかもしれない。告白すると僕は子供の頃から、ピアノを弾いていてHつまりロの音だけなぜ他の音と音質が違うのだろうと思っていたから。これはピアノ以外の音楽を聴くようになっても変わらなかった。」


  『バッハの音符たち』 池辺晋一郎


 作曲家池辺氏のこの記述に、バッハの《フルートとオブリガートのチェンバロのためのソナタ BWV1030》を加えて、私も同じ想いをここに告白する(笑)。
 H(ハー)はドイツ音名で、=B=ロ である。

 ここで先日写譜した『草の想い』を見てほしい。
 調性はホ短調であるから、属音は5度上のロ。つまり、あの淡くひそやかに秘めた哀しみの「B」。
 主音のEを赤で、属音のBを青で示した。
 たいせつな言葉が、なぜ、こんなにも響き、伝わってくるのか、その理由がわかると思う。


 
 ひとのこころに
 とばひとつまれて
 えてねこのこ
 くさのおもい

 このてかざして
 えないもりずねて
 たのうたをさして
 かくれん
 
 あしおとをきいてね 
 たかなまゆをみてね
 そしていまは
 いわ

 このてかざして
 えないもりずねて
 たのうたをさして
 かくれんぼ
 
 すなにねむれば
 たりつゆにめみて
 こびとかなし
 はなの 



 この曲には2番がある。



 時は移ろいゆきて
 ものはみな失われ
 朧に浮かぶ影は
 ひとの想い

 いまは遠い心に
 寂しく憧れ来て
 あなたの夢にはぐれて
 かくれんぼ

 わたしの唄声を聴いてね
 遥かな笑顔見てね
 そしていまは
 抱きしめて

 時は移ろいゆきて
 ものはみな失われ
 朧に浮かぶ影は
 草の想い

 ひとり砂に生れて
 ふたり露に暮らせば
 よろこびとかなしみの
 花の形見


 『草の想い』 大林宣彦 詞 / 久石譲 曲 





 ここまできたら、もうひとつ「Confession」してしまおう。
 私は原田知世が好きである(笑)。







  



  『ワンス・アポン・ア・タイム・イン尾道』 大林宣彦




 次回は冷静に論述する(笑)。         
















 


 

 



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映画 『東京家族』 (その25)  The gentle light (3) 〔Shakespeare's Sonnets 18〕

2013年06月06日 | (仮置きカテゴリー、英語,未訳)
Shall I compare thee to a summer's day?

Thou art more lovely and more temperate:

Rough winds do shake the darling buds of May,

And summer's lease hath all too short a date;

Sometime too hot the eye of heaven shines,

And often is his gold complexion dimmed;

And every fair from fair sometime declines,

By chance or nature's changing course untrimmed:

But thy eternal summer shall not fade,

Nor lose possession of that fair thou ows't,

Nor shall death brag thou wand'rest in his shade,

When in eternal lines to time thou grow'st.

  So long as men can breathe or eyes can see,

  So long lives this, and this gives life to thee.


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映画 『東京家族』 (その24)  The gentle light (2) 〔Sixteen〕

2013年06月05日 | 映画『東京家族』
 若いアインシュタインの光を追う思考実験 / 誰も知らない闇を進む恐ろしさ / 光のスピードと論理の愉楽
 
 
 

 『宇宙創成(原題 BIG BANG)』 サイモン・シン 青木薫 訳


“ガリレオの相対性原理は、彼が成し遂げたもっとも偉大な発見のひとつである。なぜならこの発見のおかげで、懐疑的な天文学者たちでさえも、地球はたしかに太陽のまわりを回っているのだと納得するようになったからだ。反コペルニクス主義の立場を取る批判者たちは、風がたえず吹きつけてきたり、大地が足下でぐいぐい動いたりするなどの地球の運動が感じられない以上、地球が太陽のまわりを回っているはずはないと論じていたのだった。しかしガリレオの相対性原理によれば、地球が宇宙空間を猛烈な速度で運動しているのが感じられないのは、大地から大気まであらゆるものが、われわれと同じ速度で空間を突き進んでいるからなのだ。動いている地球の環境は、静止している地球上でわれわれが経験するはずの環境と、実質的にはまったく同じなのである。
 一般にガリレオの相対性理論は、自分がすばやく運動しているのか、ゆっくり運動しているのか、そもそも動いているのかどうかも区別できないと述べている。このことは、地球上に隔離されていても、列車の中で耳栓と目隠しをされていても、甲板の下にもぐり込んでいても、それ以外の方法で外の座標軸から切り離されていても等しく成り立つ。

 アインシュタインは、マイケルソンとモーリーによってエーテルの存在が否定されたことを知らないまま、ガリレオの相対性原理を基礎としてエーテルが存在するかどうかを調べはじめた。もう少し具体的に言うと、彼は「思考実験」の中でガリレオの相対性を使ってみたのだ。思考実験とは、物理学者の頭の中だけで行われる完全に想像上の実験である。なぜ想像上なのかというと、多くの場合、現実の世界では実施できないプロセスが含まれているからだ。思考実験は純然たる理論上の構築物だが、現実の世界について深い理解をもたらしてくれることが多い。
 
 アインシュタインは一八九六年、まだ十六歳のときに、ひとつの思考実験を行った。顔の前に手鏡を持ちながら、光と同じ速度で突き進んだらどうなるだろうと考えたのだ。とくに気がかりだったのは、鏡に映る自分の顔は見えるのだろうかという点だった。その当時のエーテル理論によれば、エーテルは宇宙全体に染み渡り、完全に静止して動かない物質のはずだった。そして光はエーテルを媒質として伝わると考えられていた。つまり光が秒速三十万キロメートルで進むのは、エーテルに対してだと考えられていたのである。アインシュタインの思考実験では、彼の身体(からだ)も、顔も、手に持った鏡も、すべては光の速度でエーテルの中を進んでいる。光はアインシュタインの顔を離れて、彼が手に持った鏡のほうに向かおうとするが、すべては光の速度で進んでいるため、光は彼の顔から離れられず、ましてや鏡にたどりつくことはできない。鏡にたどり着かなければ反射して戻れるはずもないから、アインシュタインは鏡に映る自分の顔を見られないことになる。
 
 これは衝撃的な結論だった。というのもこの結論は、ガリレオの相対性原理と矛盾するからである。ガリレオの相対性原理によれば、速度が一定ならば、われわれは自分が大きな速度で動いているのか、小さな速度で動いているのか、逆向きに動いているのか、そもそも動いているのかどうかも判別することはできない。ところがアインシュタインの思考実験によれば、顔が鏡に映らなくなることから、自分が光の速度で動いていることはわかるはずなのだ。
 神童アインシュタインは、宇宙はエーテルで満たされているものとして思考実験を行い、ガリレオの相対性原理と矛盾するおかしな結果を得た。そこでわれわれはもう一度、ガリレオの「甲板の下の船室」のシナリオを採用して、アインシュタインの思考実験をやり直してみよう。この場合、船が光の速度で進めば、鏡に映るはずの顔が見えなくなるから、船員は船が光の速度で進んでいることに気づくだろう。しかしガリレオは、船員は船が動いているかどうかを知ることはできないと断言したのだ。

 どこかで修正が必要なのは明らかだった。ガリレオの相対性が間違っているか、あるいはアインシュタインの思考実験に根本的な欠陥があるかだ。結局アインシュタインは、この思考実験がおかしな結果になったのは、エーテルで満たされた宇宙を基礎としたせいであることに気がついた。彼はこのパラドックスを解消するために、次のように結論した。光はエーテルに対して一定の速度で進むのではなく、エーテルを媒体として伝わるのでもない。エーテルはそもそも存在しないのだ”





 下のほうに「シナリオ」という言葉があるが、この文章の映像化は可能なのだろうか?
 部分的なそれや、ここからインスピレーションを受けての映像はあり得るが、厳密には無理だろう。言葉の独擅場だ。
 映像は背後に「言葉」をもっている。
 では、映像は言葉に隷属しているのみなのであろうか?たしかにそのような映像は非常に多い。
 しかしそれを越えようとする意思をもった映像があり、それが「映画」を観る意味であり、愉楽だ。
 だが、そのような「映画」の背後にもやはり「言葉」がある。
 「言葉」,「人間」,「映像」は、切り離しては存在できない。














2013.6.2 芝公園23号地  『6.2つながろうフクシマ!さようなら原発集会』 →IWJ




“我々は一つの民族の体験を客観的に結晶させたものとして言葉を重視する。”

     『人間の学としての倫理学』 和辻哲郎




 



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