古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

鎮西について

2013年09月09日 | 古代史

先日「古田史学の会」のホームページhttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.htmlで「古賀達也氏」が「観音寺」と「観世音寺」というブログ記事を書いておられた中に「日本帝皇年代記」についてのコメントがあり、そこに「鎮西」について「九州」のことという一文を見つけ、思わずメールしてしまったが、以下はその追加的なものである。

 「鎮西」の語義についてですが、これは本来「西」を「鎮」するということであり、「西」「西国」というだけで「九州」を指す例の応用であると思われる。「書紀」の「西国」の例を見ると「天武」の時代のものが最古とみられる。(以下の例)

「(天武)五年(六七六年)夏四月戊戌朔辛亥条」「勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。」

 ここ出てくる「西国」は「九州」を指すというのが定説のようである。(「白村江の戦い」などで九州諸国が疲弊したための救済措置と理解されているらしい)
 このように「西」あるいは「西国」というのは「九州」を指し、それを「鎮」(「支配」)するという意味で「鎮西」という語が発生したと思われるが、いずれにしても「九州」を支配していたものが「九州内」にいた事を示すものであり、それが「大宰府」や「大宰」に意義が転じたものである。しかし、本来「九州」そのものを指すものではなかったと思われる。

 この「西」に関しては興味深い記事が「日本帝皇年代記」中に見受けられる。

「丁酉(僧要)三 二月大星流 声如雷 東流 西朝無知者沙門僧旻曰此星曰天狗 東方恐有乱乎 果蝦夷叛」

 ここでは「西朝」という表現が使用されており、これは明らかに「近畿天皇家」ではないといえる。「西」とは上に見たように「九州」を指す用語であるから、これは「九州王朝」を端的に指す表現といえるのではないか。

 この「西朝」という用語は「続日本紀」の「元正紀」にも出てくるものの、これは「平城京」に二つ存在していた「大極殿」に関わる表現と考えられるので、意味合いが異なると言える。ただし、洞田氏や古賀氏が言及された「宝亀元年」の「歌垣」記事(以下のもの)に出てくる「にしのみやこ」という表現については、改めて注意が向けられるべきものと思われる。(古田史学会報二十六号一九九八年六月に書かれている)

「続日本紀」「宝亀元年(七七〇)三月辛卯【廿八】条」「葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰。布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。…」

 ここで問題となった「歌垣」で詠われたという「古詩」は「一音一語」という「初期」の形式の万葉仮名で書かれており、「古詩」という名にふさわしいとも言える。(万葉集にもほとんど見られないもの。また「不復煩載」とはこのような「一字一音」表記が「煩わしい」という意味ではないか。書かれてあったものを書き写したと見られ、その作業が煩瑣であるという事と理解できる。)
 通常このような表記法は「柿本人麻呂」以前のものであると考えられ、その場合「七世紀」代まで遡上するという可能性もあると思われる。そうすると上の「西朝」とそれほど時代が異ならないという可能性も出てくる。(たとえば「書紀」「古事記」においては全ての歌謡は一字一音で表されており、また借訓がみられないとされる)
 但し「難波宮」遺跡から出土した「はるくさ木簡」では「は」の表記として「波」ではなく「皮」が使用されており、さらに「と」と「し」の表記も異なる。この歌垣の古詩では「はるくさ木簡」の「刀」に対して「止」、同じく「斯」に対して「志」というように使用字が異なるが、「と」の表記に「止」を使用しているのは「訓」であり「音」ではない。(借訓字)一般には「音」で表記している方が古いとされており、「はるくさ木簡」の方が先行していると言える。

 「はるくさ木簡」に関していうと「難波宮整地層」のさらに下の層からの出土であったことから(第七層)、「七世紀半ば」をさらに遡上するという可能性があると思われるが、それよりこの「古詩」が新しいとしても「七世紀半ば」程度までの遡上は想定すべきと思われる

 また、ここで「にしのみやこ」を褒めそやしているということから、この古詞は「近畿王権」が「倭国九州王朝」という統一王権の支配下にあった頃に「賛歌」として作成されていたものという可能性も出てくると思われる。そうであれば時期として「七世紀半ば」と言うことと考え合わせると、「白雉改元」付近を想定すべきものかも知れない。つまり、「にしのみやこ」とは「副都」である「難波宮」から見た「首都」である「筑紫京」を指すと考える事ができると思われるのである。
 また、この「古詩」自体が「にしのみやこ」に対する「賛歌」であるから「よろずよのみや」という表現についても「願望」ではなく、いわば「眼前」の事実を表した表現であると考えられ、古から続く「筑紫」の歴史を端的に表現したものと言えるのではないかと推察される。

 この「日本帝皇年代記」の「丁酉」条の記事中の「僧旻」は「書紀」では「高表仁」の来倭に伴って「唐」から帰国したとされている人物であるが、その「高表仁」は「六三一年」に派遣された「倭国」からの「遣唐使」に対して派遣された「唐」からの「使者」であるから、彼が赴いた先は「倭国」であるのは当然であり、彼と同行した「僧旻」についても「倭国」に到着したものと考えざるをえない。つまり、その「倭国王朝」に対して「帝皇年代記」では「西朝」という呼称がされていることとなるわけであるから、「倭国王朝」は即座に「九州王朝」であったことを示すものといえるのではないか。

コメント

賀正礼について

2013年09月09日 | 古代史

肥沼氏のブログhttp://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/09/post-ec15.html(に「上城」という方(たぶん「古田史学の会」の「上城誠氏」)がコメントを寄せていたのだが、その内容を見て奇異に感じた。彼はいきなり「賀正礼」の話を始めたのだが、肥沼氏のブログ内容には「賀正礼」の話などどこにも触れられていないのだ。しかも前置きも何もなく唐突としかいいようがなかった。

  その内容もちょっと違和感のあるもので「孝徳朝」の賀正礼を一生懸命否定しているのだが、文章の背後から「古田史学の会」でイニシァティブをとっている「古賀氏」に対する何らかの意図が感じられ、純粋に「真理探究」の結果とはいえないような雰囲気を感じた。学問的立場の違いや方法論の違いはいくらでもあり得るが、それが個人攻撃や人格否定のようなことになるのが古代史論者の多くがすでに経験した悪弊であろう。同じ轍は踏まないという「誓い」を各自が持つべきではないか。

  論の内容としても「孝徳朝」の「賀正礼」を「養老令」にあるものと同一と「決めつけて」議論を進めておられるようだが、(確かにそれは古賀氏が言及したことだが)まずそのことを明証すべきではないのか。(ただし「多元」の上城氏の論をみているわけではないからかいつまんだ話にしかならないが)

 ちなみに「私見」ではそれは誤解であり、そのようなことがあり得るはずがないと思っている。「唐」や「新羅」が「賀正礼」を行っていて、それと戦った倭国に「賀正礼」があるはずがないというのは単に思い込み以上のものではないと思うし、実際には「孝徳朝」の賀正礼は「唐」起源ではないと考えられる。それ以前から倭国に流入していた中国の儀礼ないしは元々の倭国の伝統に基づくものといずれかであろうと思われる。少なくともそのような想定はいくらでも可能である。しかも、そのようなものが七世紀半ば以前に存在していたらしいことは律令を研究している人たちにはすでに常識の範囲のことである。

 一般に「倭国」では「唐令」をそのまま継受していない、とされる。つまり「倭国」独自の形に変改して受容しているとされ、それらは「倭国」の国内事情に合わせたものであり、それはいわゆる「大化前代」(ここでは「七世紀半ば」の意)までの「倭国」の状況を反映していると言えると思われる。(例えば「増田修氏」の論をご参照いただくと良いと思われる。)
 「新羅」は「服飾制度」を含め「唐令」を導入したわけだが、それはほぼ完全な「服従」を意味するものであり、それは反対報酬として軍事援助を欲した事の結果でもある。それに対し「倭国」は必要なものだけを導入したものと見られ、それはもっぱら統治の際の利便性の追求の結果であり、「服従」のためではなかったと思われる。つまり、「新羅」とはその「唐令」の継受に当たっての「動機」の違いが大きいと考えられる。そのことは「新羅」が採用していたから「倭国」が採用するはずがないというような単純な議論にならないことを示している。その証拠に「賀正礼」の場合「唐」と同様式になるのはずっと後代であり(平安時代とされる)、「八世紀」時点においては「唐」とは異なる形式で「賀正礼(元日朝賀)」の儀式を行っていたものであり、この時点でなお単純な模倣を行っていたわけではないである。
 そう考えると「七世紀半ば」という時点で行われていた「賀正礼(元日朝賀)」が「開元令」から復元された「唐令」に完全に則っていると考えること自体に問題があるのではないかと思わざるを得ない。それまでの「倭国」の伝統をメインにした儀式を行っていたという想定の方が遥かに蓋然性の高い想定であると思われる。
 そもそも「大宝令」に関する「古記」などの記載からは、その中身として「唐」の「永徽律令」などの影響が考えられているが、この「永徽律令」とその「疏」などの成立が「六五三年」とされていることから、それ以前に行われた「元日朝賀」がそれらに則っていないのは当然といえるものである。「元會之儀」そのものは古来からあるものであり(「北周」でも「隋」でも行っていた)、それが「禮制」として成立していたかどうかだけの問題と思われ、そのようなものが伝来していなかったと断定できるものもないのである。そう考えると「躍起」になって否定する根拠がそもそも薄弱であるといわざるを得ない。逆にこの「孝徳朝」の「賀正礼」が何に由来するものなのかを解き明かす態度こそ多元史論者に欠かせない態度ではないだろうか。

 ちなみに「賀正礼」は「七〇一年」以降というが、なぜ「七〇一年」なのか。古田氏が言ったからではなく自分でちゃんと説明できるのか、自分の頭で考えてどうなのか。それらについては聞こえてこないがどうなのだろう。私見ではこの「七〇一年」という年次に新しく何か始められる要因は全く感じられないのが本当である。海外からの知識などはとっくの昔に入っている。なぜもっと早く始められなかったのか、それが「近畿王権」以降であるというなら、「倭国」時代には全く隋・唐の制度は流入しなかったのであろうか。それなら遣唐使は何をしに行ったというのであろうか。何かを手中にして帰国したならそれがなぜもっと早くに結実しないのか。それらをちゃんと説明できなければ、孝徳朝の賀正礼を否定している場合ではないのではないかと思えてしまう。

 個人的感情など払いのけて学問の大道を行く気概がほしいものである。

コメント (12)