「古田史学会報」の「第一〇〇号」に「西井健一郎」という方が「新羅本紀阿麻来服と倭天皇天智帝」という論文を書かれています。それは「三国史記新羅本紀」の「文武王」時代に「阿麻来服」という記事があり、それを「天智天皇」のことと考える立場からの論でしたが、ちょっと違うことを考えたのでそれをここに書くこととします。
「三国史記」には「真平王」の時代に「新羅」から「美女二人」を献上したところ、受け取りを拒否されたという記事があります。
「三国史記新羅本紀」
「(真平王)五十三年…秋七月 遣使大唐獻美女二人 魏徴以爲不宜受 上喜曰 彼林邑獻鸚鵡 猶言苦寒 思歸其國 況二女遠別親戚乎 付使者歸之 」
この「三国史記」の記述はその内容が「資治通鑑」によく似ており、原資料としたらしいことが推察されます。(「三国史記」には「通典」や「資治通鑑」が参考図書として頻繁に出てきます)
「資治通鑑」
「(貞観)五年(辛卯、六三一)冬,十一月丁巳(二日)林邑獻五色鸚鵡,丁卯(十二日)新羅獻美女二人 魏徴以爲不宜受。上喜曰 林邑鸚鵡猶能自言苦寒,思歸其國,況二女遠別親戚乎。并鸚鵡各付使者而歸之。
倭國遣使入貢 上遣新州刺史高表仁持節往撫之 表仁與其王爭禮 不宣命而還。
丙子(二十一日)上祀圜丘。」
ところで、この「資治通鑑」では「新羅」からの「美女」献上記事の直後に「倭国遣使」記事が書かれています。そこには「日付干支」が書かれておらず、そのことからこの「倭国」からの「使者」記事は「新羅」からの「美女献上」記事と「上祀圜丘」記事の間に入ることは確実ですが、推定によれば「新羅」からの使者記事と同じ日付のものらしいことが推定されます。そうであれば「新羅」と「倭国」の使者は「同行」して「唐」へ来たらしいことが推測されるでしょう。つまり、「倭国」からの使者が「新羅」に行き、そこから両者共同で「唐」へ向かったという流れが推測されます。
この時の「倭国」からの使者というのは、「書紀」で対応する記事を捜すと、「六三〇年」の項に書かれた「犬上君」と「薬師恵日」の唐使派遣記事ではないかと考えられます。
「書紀」
「(舒明)二年(六三〇年)秋八月癸巳朔丁酉条」「以大仁犬上君三田耜。大仁藥師惠日遣於大唐。」
「(同)四年(六三二年)秋八月条」「大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。…」
上でみるようにこの時は「帰国」の際にも「新羅送使」を伴っており、このことからも「倭国」からの遣唐使がその往路においても「北路」(新羅道ルート)を取ったことが推定できます。また、「新羅」の使者の「唐」からの帰国も同時であったという可能性が強いと思われます。つまり「高表仁」に随行する形で「倭国」と「新羅」からの使者が帰国したというわけです。(新羅の送使は「高表仁」を「対馬」まで送ってきています)
ところで、この「美女人質受け取り拒否」という記事と内容が良く似ている記事があります。それが「西井氏」も題材とされた「三国史記新羅本紀」の「文武王八年」(六六八年)の記事です。
「三国史記」
「(文武王)八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人。…」
ここでは、「有勅 此後禁獻女人」と書かれていますが、これは「唐」に派遣した使者(「元器」)が帰国したと言う事の直後に書かれていますから、「唐皇帝」の発言を「勅」として書いているのではないかと考えられ、そこでは「女人」を「献上」する事を禁じるというわけでが、「資治通鑑」記事(真平王記事)を見ると、この時実質的に「禁止」の「勅」が出されたものと思われ、「文武王」段階以前において既に「女人献上」は行われなくなっていたと考えるべきでしょう。そうであれば、「文武王」記事は矛盾していると言えると思われます。(この記事について「西井氏」は「天智帝」についての呼称であろうという推測を書かれたわけですが、当否は今しばらく置きます)
そもそもこの時点で「新羅」から「美女二人」といういわば「人質」ないしは「生口」ともいえるものを献上する意味も不明といえます。「美女」というのは貢上するものの内容として原初的であり、一種の「生口」としてのものですから「服属」の意味合いが強いといえるでしょう。そのことはこの両者の関係がまだ浅い段階のものであることを示しています。
「真平王」段階であれば「新羅」と「倭国」「高句麗」との間に緊張関係が高まりつつあった時期であり、後には「麗済同盟」が結成される(六四二年)前段階とも言うべき時期です。この時代は「新羅」として「倭国」や「唐」との関係強化を図ろうという意欲を示していた時期でもありますから、この段階で「人質」ないしは「生口」を差し出すというのは方法論としても時代的位相としても理解できるものですが、それに対しこの「文武王八年」という段階ではそのような時期は遥かに過ぎており、軍事同盟により「百済」を滅ぼし、「倭」を退け、今まさに「高麗」を滅ぼそうという時期にそのような人質を差し出すのは一種の時代錯誤ともいえるでしょう。
また、この記事に対応するような記事は中国側資料には見られません。そう考えると、この記事の信憑性には疑問符がつくこととなりますが、あるいは「真平王」の時代の記事が何らかの錯誤によりここに挿入されているということも言えるかも知れません。
そう考えると、その前にある「阿麻来服」という記事についても「真平王段階」の記事との対応が考えられ、「資治通鑑」に言う「倭国」からの使者を指す表現ということもあり得ます。
つまり「阿麻」とは「倭国」のことを指す語であり、当時の「倭国王権」が「阿麻王権」であったという可能性を示すものといえそうです。
「隋書俀国伝」に言うように「倭国王」の「名称」として「阿毎多利思北孤」と記されていますが、この「阿毎」が「阿麻」につながるものであるのは言うまでもないでしょう。また「旧唐書」「新唐書」等に「倭国王」は「其王姓阿毎氏」と記されているのも同様の意味を持っていると思われます。これが「文武王時点」まで「存続」していたという可能性もあり、「薩耶麻」がその直系の後継であるという可能性もありますが、より関連が明確なのは「七世紀初め」という時点で確実に存在していた「利歌彌多仏利」であり、(彼は「阿毎多利思北孤」の太子とされますから間違いなく「阿毎」姓を名乗っていたはずです)その時点付近の年次の方がより「阿麻」と「阿毎王朝」の間に強い関連があることを想定することができるでしょう。
ご存じのように「三国史記」においては「七世紀以降」「倭国」記事が全く見えなくなります。しかし、「書紀」を見るとかなり頻繁に外交活動が行われており、明らかに「意図的に」「三国史記」においては「倭国関係記事」が無視されていることとなります。これは編纂当時の「高麗王朝」の政治的立場を反映したものであり、実際の外交活動を正確に記したものとは言えないと思われます。
ところで、この記事は「真平王」の時の記事と違い「唐」への使者の名前が書かれています。「真平王」の記事が「資治通鑑」と近似していたのに比べ、その記事内容も大きく異なります。逆に言うとこの記事は「新羅」側の独自史料と思われます。そう考えると「倭国」との外交をある程度正確に反映したものが「独自史料」として遺存していて、それを「倭国」とはあからさまに書かず、年次も変えて利用したという可能性が考えられます。それが「文武王」時点での挿入となっているのは「半島」をめぐる争いでの「倭国側」の敗北という事情があったため、そこに当てはめやすかったのではないでしょうか。それが「阿麻来服」という語の中に表現されているという可能性もあります。
しかし本来はあくまでも「真平王」段階であり、この時「倭国側」は別に降伏したわけではなく、「新羅」を利用しようとしたのであって、「唐」への橋渡し役を頼んだものと見られます。
その後「斉明紀」においても「遣唐使」派遣に際して「新羅」に同行を頼んで拒否されている事例があり、「倭国」にしてみると当時そのような形態がある意味普通であったのかも知れません。
「文武王記事」では「阿麻来服」と「遣元器與淨土入唐」とが直接つながっており、その間に「因果関係」のようなものがあることを推定させます。この事からこの時点では「新羅」には「拒否」する権利がないように見え、かなり「力関係」に差があるような印象を受けます。つまり彼等が「遣唐使」であり、「新羅」に「道案内」ないしは「橋渡し役」を務めて欲しいということを希望ないしは強い要請をしていたとすると、「阿麻来服」と「遣元器與淨土入唐」ということの間に直線的関係があったとしても不思議ではないと思われるわけです。
「倭国」と「唐」の間は「裴世清」以来国交が停止した状態でした。それは両者のどのような事情によったかは定かではありませんが、「倭国側」にとって見ると「本意」ではなかったと思われ、定期的な使者のやりとり等を復活させたい意志があったものと見られます。それがこの「阿麻来服記事」に現れているという可能性もあるでしょう。